樋口伸子訳・エリオ・パリアラーニ「二つの作文」、渡辺玄英「破れた世界と啼くカナリア」(「耳空」創刊号、2009年07月01日発行)
樋口伸子訳・エリオ・パリアラーニ「二つの作文」は書き出しがとても魅力的だ。
今ぼくは、商業学校で勉強している
けれど大人になったら道路の掃除人になりたい
外に出てね、なぜってミラノがものすごく好きだし
そこの通りをきれいにしたいし
翻訳ということを私はしたことがない。だから私の書くことは勘違いかもしれないが……。
翻訳は、単に外国語を日本語に置き換える、「意味」をわかるようにするということではないだろう。ことばには「意味」以外の何かがある。ことばのリズム、ことばが、そのリズムで語られるときに抱え込んでしまうもの、「意味」に置き換えることのできないもの。樋口の翻訳が、それをどれだけ魅力的に再現しているか私には判断しようがないが、
外に出てね、なぜってミラノがものすごく好きだし
このリズムが、私は気に入った。原文はどうなっているのかわからないが、「外に出てね、なぜってミラノがものすごく好きだし」という1行は、それだけでは日本語として「意味」が通じない。それが「意味」になるのは、次の「そこの通りをきれいにしたいし」を読み終わったときだからだ。「そこの通りをきれいにしたいし」まで読んで、はじめて、あ、「外に出て、そこの通りをきれいにしたい。なぜならミラノがものすごく好きだから」ということばが、「意味」として成り立つ。ことばの順序を、聞いた方が(読んだ方が)、頭のなかで入れ換えることで「意味」がすっきりと伝わってくる。
でも、そんなふうに入れ換えると、ことばの魅力は欠ける。
樋口の訳しているように、ことばの順序がみだれている方が魅力的だ。魅力的というのは、たぶん、そこに「わからない」ものがあるからなのだ。「わからない」。けれど、次の瞬間「わかった」ような気持ちになる。
そして、その「わかる」というのは……。
詩のなかの「ぼく」は、ミラノが好きだから大人になったら道路をきれいにする道路掃除人になりたいと思っている--そういうことが「わかる」だけではなく、その「ぼく」の気持ちのなかには、ことばの順序を整えて「意味」を明確にしたときとは別なものがあるということが「わかる」ということである。
「意味」を超えて、いきいきと動く何か。ことばにならない動き。それが、「外に出てね、なぜって……」というみだれた文体のなかにある。「外に出てね」の「ね」という「意味」をはみだしていく余分な(?)ことばのなかにある。
そうしたことを、私たちは(私は)、瞬時に感じる。
樋口は「意味」を超えるものを、この詩では訳出している。
「外に出てね」の「ね」(それから、そのあとの一呼吸の読点「、」も)、一種の倒置法のようなことばの動きも、「意味」から比べると、「ちいさな」ことがらかもしれない。けれど、その「ちいさな」ことがらが「意味」をささえないと、「意味」の暴走がはじまる。--つまり、なんというか、「道路掃除人」という職業の価値というようなもの、道路掃除人のしめる社会的評価のようなもので人間の価値判断を決定していくというような「意味」の暴走、「意味」の暴力がはじまる。その人が何をしたいか。何のために、それをしたいのか、という個人と直接向き合った関係ではなく、「社会」、その構成員のあり方という「意味」が差別をつくりだしたりもする。
そんな「意味」の暴力・暴走に、なんとか歯止めをかけようとすることばの抵抗のようなものが、とても重要なのだと思った。
その「作文」のおわりも魅力的だ。
なぜかって祖父ちゃんを思いだすんだ
祖父ちゃんはぼくが遊ぶのを見たくなかったのさ
遊び呆けるのをね、子どもらは泣くべし
大人は働くべし、って言うわけさ
「子どもらは泣くべし/大人は働くべし」ということばの「意味」を「ぼく」がどれだけ正確に理解しているか--それはわからない。わからないけれど、「ぼく」が「祖父」のことばをそのまま繰り返していることが「わかる」。
わからないものを、わからないまま、正確に伝えることも、ことばはできるのだ。そして、それは、とてもとても大切なことだと思う。
「古典」の「意味」を私たちはすべて「理解」して次代へ伝えるわけではない。わからないけれど、わからないまま、それが残ってきているという事実だけをたよりに残す部分もあるだろう。
そして、そういう部分の方が、「意味」よりもきっと大切に違いないと、私は思う。
そして。
樋口の訳出したことば、その、読点「、」や「ね」や倒置法のなかにも、「意味」を超えるものがある。樋口は、そういうものを訳出していると思う。だから、魅力的なのだ。
*
渡辺玄英「破れた世界と啼くカナリア」の2連目。
夜間の長距離バスで旅をして
よるの海辺でぼくらはバスをおりて
波打際で砂の音になった
私は、ときどき、こういう抒情が、「意味」の置き換えが、我慢できないくらいきらいになることがある。「波打際で砂の音になった」とは、波打ち際を歩いていて、その音しか聞かない、その砂を踏む音を「ぼくら」と思うということだろう。「肉体」を「肉体」以外のものによって「比喩」として表現する。その「比喩」には(比喩である限りは)、「肉体」を超越するもの(「肉体」が内包するものと言い換えても同じだ)が含まれる。つまり、精神だとか、感情だとか……。
こういうものは、渡辺もきらいかもしれない。だから、詩は、そういうセンチメンタルをあざ笑うように軽い(?)ことばで攪拌される。
まっくらでぼくらは音だってよくわかる
なぜか沖の方角をめざして
波打際からしだいに沈んでいくきみを
さすがにそれってマズイだろう
と星の力をかりてサルベージするよざぶざぶ
波に足をすくわれるのか、あるいは自分の意思でそうするのか、「きみ」は沖の方へ動いていく。真っ暗なので(たぶん月も出ていないので)、星の明かりをたよりに(力を借りて)、「ぼく」は「きみ」をひっぱりあげる。(サルベージする。)
でも、いったん「意味」にまみれたことばは、どうしたって「意味」になる。「星の力をかりて」というような、ぞっとするような抒情が露呈する。
3連目は必死だ。
きえていった希望(だけど(サルベージするけど
夢のセカイなら重力はないはずなんだけど
いったい何を(こんなに
(重たい(世界を
引き上げよーとしているんだろう
手から海に引き込まれそーで
(いやもう遅いって
まっくろでどこがきみなのかぼくなのか海なのか
わからない(わからない
くーきが ひつよーだ
くーきが・・・
「わからない(わからない」と書かないと「わからない」という「意味」を書けない。「わからない」とはほんとうは「わかる」「わからない」を超越した次元にいるということなのだが、(たとえば、きのうの「日記」に取り上げた北川透の詩の「なぜ、わたしが彼らを待っていたのか分かりません。」のように)、渡辺の「わからない」には、そういう「超越」がない。「意味」に落ちてしまっている。
一度「意味」にまみれると、そこから脱出するのは難しい。その難しさを書いているといえば、そう言えるのかもしれないけれど。