詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(43)

2009-07-30 07:37:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六五
よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 2行目は「さがみがわにそふ(う)みちをくだる」と読むのだと思う。思うけれど、それにつづく行を読むとき、ふと「さがみがわにそふ(う)どうをくだる」と読みたくなる。3行目の「おもいにをせおふ(う)(しょう)どうじに」の「さ行」のゆらぎ、「どう」という音の重なりと響きあう。
 そうした響きあいのあとで、「道をきいた昔の土を憶ふ」を読むと「土」は「つち」なのだろうけれど、記憶をくすぐる感じ(憶ふ--というのは、そういう感じじゃないだろうか)で、「ど」の音が聞こえてくる。目は「つち」と読んでいるのだけれど、耳は「ど」とささやいている。
 だからこそ「土」を記憶からひっぱりだすのだと思う。
 「昔の土を憶ふ」ということばで西脇があらわしたかったのは、どこの「土」だろう。どういう土だろう。歩いている道の「土」だろうか。人々が踏み固めることでできた土の道のなかにある時間だろうか。
 もっと素朴に、童子の肉体や服に「土」、「土まみれの童子」を思い出したということではないだろうか。
 子どもは働く人間である。いまは違っているが、昔の子どもは働いた。子どもも働くというのが人間の暮らしである。いのちである。この詩には「淋しい」ということばはないが、そういう働く子どもに「淋しさ」がある。いのちの美しさがある。

 私は貧しい田舎の生まれなので、そんなことを思った。小学生のとき、私だけではなく、友達はみんな、おぼつかない手でくわを持ち畑を耕した。重い野菜や刈り取った稲を背負って家まで運んだ。肉体も服も泥まみれであった。

六八
岩の上に曲つてゐる樹に
もうつくつくぼふしはゐなく
古木の甘味を食ひだす啄木鳥(きつつき)たたく

 最後の行の「啄木鳥たたく」がとてもおもしろい。助詞がない。キツツキがたたく、だろう。西脇はこういうとき、しばしば「の」を使うけれど、ここでは省略されている。その結果、「か行」「た行」のおもしろいリズムが生きている。直前の「食ひだす」ということばも、最後のリズムに大きく影響している。修飾語がキツツキにぴったりくっついて「間」がない。その「間」のないリズムが「きつつきが(あるいは、の)たたく」とあるべきころろから、間延びする「が」(の)を奪いさったのだ。
 2行目の「ゐなく」「たたく」と脚韻になっているところも、リズムを強調している。



西脇順三郎全詩引喩集成 (1982年)
新倉 俊一
筑摩書房

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杉本徹『ステーション・エデン』

2009-07-30 00:53:04 | 詩集
杉本徹『ステーション・エデン』(思潮社、2009年06月30日発行)

 杉本徹『ステーション・エデン』の詩篇はどれもとても静かである。ことばのひとつひとつが競い合わない。こんな例えがいいのかどうかわからないが、倒れそうになるのを互いがささえあって立っている。そういう印象がある。
 「走り書きの炎のように」の冒頭の1行。

窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて

 「窓の時代のおわり」というものを、どう感じていいのかわからない。けれども、そのあとすぐに「夜景のようにみつめて」とことばがささえるとき、私は窓から時代のおわりの夜景をみていると錯覚する。「窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて」は私の意識のなかでは姿をかえて、「時代のおわりを、窓から、夜景のようにみつめて」となっている。
 こういう誤読がいいのかわるいのか、私にはわからないが、私のもっていることばが杉本のことばとであって、ねじれながら、なんとかひとつのイメージをとろうとしているのがわかる。
 こんな誤読を許してくれているのが、読点「、」である。「窓の時代のおわりを、」と読点「、」によって一呼吸置く。そのとき、その一呼吸のなかに「窓の時代のおわり」ということが反復される。私の頭のなかで反復される。なんだろう、と一瞬と惑って、ことばが切断され、分離される。日本語には助詞があり、ことばを粘着力でしばっているが、ちょうど助詞のない外国語(たとえば英語)の文章を読んだときのように、単語がひとつひとつ分離して孤独になっていく。どのことばと、どう結びついていいのかわからず、孤独になって、冷たくなっていく。
 そして、一呼吸のあとに「夜景のようにみつめて」とういことばがやってくると、ばらばらになったことばが杉本の指定した粘着力(助詞)を無視して、さーっと動いて、「時代のおわりを、窓から、夜景のようにみつめて」となってしまう。
 あ、間違えて読んでしまったなあ、と思って読み返すとき、今度は読点「、」の位置が私の頭のなかで移動する。

窓の、時代のおわりを夜景のようにみつめて

 つまり「窓から、時代のおわりを夜景のようにみつめて」というふうに変わっていく。「窓の」ということばが冒頭にでてきたのは、その「窓」が特別な窓だからだということがわかる。特別な「窓」があって、その窓からみつめると、いつもと違ったものが見えるのだ。
 どんな窓か。
 詩を読み進むとわかる。次のことばが窓をしっかりと支えてくれる。

窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて
たとえば一羽の鳥を消す
その影が、冬の車輛の二十時から
墜ちていった町の名だったと、遠い翼の理性は光のない音だったと
あけがたに語る、……めぐり歩く街路も筆跡の闇だった

 ことばを発している人(杉本)は、冬の列車に乗っている。窓は列車の窓である。そのとき、走り去るのは列車(杉本)なのだが、杉本には、風景が走っているように感じられる。一種の逆転現象が起きる。その逆転現象のなかで、ことばは、いつもの粘着力を失って、遠近感がないまま世界をとらえる。
 列車に向かって走ってくる風景(存在)が、次々に視界を切り離し、同時に記憶のなかで世界が再構成される。その再構成の瞬間、ことばが支えあうという印象が私にはするのである。
 「夜景」ということばではじまったからなのかもしれないが、くらい夜に耐えている孤独なもの(存在)が、明かりをともして走る列車に向かって走ってくる。杉本の窓に走ってくる。杉本の意識の(ことばの)なかに組み込まれ、ひととき、「いま」「ここ」ではない何かとして存在したいという夢を実現させている。
 淋しい淋しい、そして冷たい夢だ。

 たぶん、読点「、」と改行のタイミングが不思議な「間」となって、ことばを分離し、孤立させ、また呼び寄せ合うのだろう。ことばが美しいのはもちろんだが、杉本は、読点「、」や改行の呼吸が美しいのだ。その呼吸が、ことばの冷たく淋しい夢を静かに浮かび上がらせる。

窓の時代のおわりを、夜景のようにみつめて
たとえば一羽の鳥を消す
その影が、冬の車輛の二十時から

 この2行目の「鳥」。1行目から2行目への改行にあわせて唐突にやってきた「鳥」は、次の改行で「影」にかわる。「鳥」が消されているにもかかわらず「影」だけが残る。その不安定な世界で、また読点「、」があらわれ一呼吸する。
 その一呼吸が、「消す」のである。何を消すか。日本語の粘着力を、助詞のようななにものかを消すのである。教科書国語のことばの法則から逃れて、ものが(存在が)、ことばそのもののなかで孤立する。
 それは、まるで外国語である。
 外国語を読むとき、辞書をひく。そうすると単語ひとつひとつの「意味」はわかる。単語ひとつひとつはわかるのに、全体の「意味」はばらばらにほどかれて漂っている。そういう感じ。
 詩は、日本語ではなく、外国語なのだ。しかも、おなじことばを話すひとはだれもいないという外国語。つまり、杉本の書いているのは「杉本語」という外国語なのだ。
 だからこそ、呼吸に共鳴することが必要なのだ。
 どんな国のことばも「意味」はわからなくてもわかることがある。ことばを発するときの「呼吸」である。怒っているとき、笑っているとき、困っているとき--それぞれに呼吸がある。呼吸がわかると(空気がわかる、ということかもしれない)、ことばがわからなくてもコミュニケーションができる。
 杉本の呼吸の特徴は、とても静かだということだ。そして、その呼吸のとき、必ず前のことばが反復されている。反復するために呼吸する。呼吸のなかで、反復し、そのとき古い(?)粘着力を切り捨て、新しいもの(存在)との出会いへ向けてことばを無音のまま押し出す。
 呼吸は、無音のことばなのだ。沈黙のことばなのだ。
 そして、杉本が書いていることばは、その沈黙と深いところで拮抗している。
 私は最初に、ことばが支えあっていると書いたが、それは間違いだ。支えあっているように見えるのは、そのことばのあり方があまりにも孤独だからである。ほんとうは、孤独のまま、深い沈黙と闘っている。

 とても美しい、とても静かな、とても透明な詩集である。



ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社

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