監督・脚本 エミール・クストリッツァ
出演 ウロシュ・ミロヴァノヴィッチ、マリヤ・ペトロニイェヴィッチ、アレクサンダル・ベルチェック
「パパは出張中」「アンダーグラウンド」「黒猫白猫」のクストリッツァの新作。相変わらず音楽ががんがん鳴り響き、全員が元気いっぱい。「めげる」ということを知らない。陽気だ。私は、この無意味な(?)猥雑さが大好き。
ストーリーは、田舎に住んでいる少年が、おじいちゃんに言われて、街へ自分の結婚相手を探しに行く、というもの。その姿がドタバタ喜劇として描かれる。結婚相手を探すがテーマだから、あらゆるシーンにセックスが絡んでくる。女教師が入浴しているのを覗き見するシーン、七面鳥を相手にセックスするシーン(七面鳥の鳴き声がけっさく)、ストリップ、さらには去勢まで、出てくる。盛り沢山なのだ。
そういうシーンも、大笑いなのだが、私が一番気に入っているのは、主役の少年と少女が、マフィアから逃走する途中、カラオケコンテスト(?)で歌うシーン。コンテストなので、いろんな人が出てくる。音痴も出てくれば、10点満点をとる人も出てくる。少年と少女は、コンテストの成績など気にせず、ヘリウムを吸いながらアバの曲を歌う。声がどんどん変わっていく。何を歌っているかさっぱりわからない。でも、歌っていることだけはわかる。それが楽しい。自分の声も、相手の声もかわっていって、それでも、少年は少年、少女は少女。それが互いにはっきりわかる。そして、曲は同じ曲。つまり、主題というか、旋律というか、ようするに「基底」を貫いているのは、アバの曲。この、同じもの、変化しないものと、次々に変化して行くものの入り乱れる関係がとても楽しい。
ここに、すべてが集約されている。いろんな人が登場し、それぞれに自己主張する。マフィアと市民の自己主張など、「和解」のしようがないのだけれど、その「和解」がありえない世界でも、「基本」は同じ。いろんな人が出会って、次々に変わっていく。何がなんだかわからないくらいに変わっていく。でも、変わらないことがひとつある。みんな、楽しく生きたいと思っている。
そして、もうひとつ、真実がある。
楽しさとは、どんどん変わっていくこと。何が起きるかなんか気にしない。いっしょに歌って騒げば人生は楽しくなる。楽しくなるためなら、何だってする。
ノーテンキ? かもしれないね。でも、そうではないかもしれない。人生は、どこかで、そんなふうに逸脱しながら進んでいくというのが、意外と本質かもしれない。楽しさを求めて、次々に変わっていく。
少年と少女のキスもいいなあ。最初は、少年がケガをしたふりをして、人工呼吸を頼む。マウス・トゥ・マウス。少女が息を吹き込む。それが、ファースト・キス。そのあと、逃走の過程でほんとうのキスがはじまるのだが、これが人工呼吸とはまったく逆。ふたりとも口を大きく開けて、息を体いっぱいに吸い込んで、いわば息をしないで、息の続く限り、キスする。ソフトなキス、ムードたっぷりのキス、というものからはほど遠い。まだキスの仕方もわからない(?)まま、真剣にキスする。この、わからないままの真剣さがいいんだなあ。
ノーテンキというのは、たぶん、わからないままの真剣さなのだ。(思い返せば、あの「アンダー・グラウンド」さえも、わからないままの真剣さに満ちあふれた映画だった。)そして、わからないとはいいながらも、わかっていることもある。いま、自分がどこにいるか、何ができるか、ということ。できることを丁寧に組み合わせて生きる。工夫して生きる、その瞬間に、すべてが楽しくなる。
この映画のメインストーリーは、少年の結婚相手探しだが、サブテーマとして、自分のできることを組み合わせて生きるという生き方がある。おじいちゃんの生き方にそれが端的に表現されている。田舎で、いわばひとりで暮らしている。何でもひとりでする。自給自足である。発明魔である。少年を起こすための、目覚ましがなると立ち上がるベッドや、いやな役人に抵抗するための落とし穴、まわりをみるための潜水艦の望遠鏡のようなものもつくる。その血をひいて(?)、少年も何でも工夫する。催眠術(?)のための回転板(これは、最後の方でも活躍する)から、天井につるしてあるサラミをとって食べるための猫を使った仕掛け。先に書いたキスを手にいれるための「ケガをしたふり」もその工夫かもしれない。
どんなものでもそうだが、自前のもの、手作りのものは、見知らぬ敵(たとえば、役人、たとえばマフィア)と戦う最大の武器である。その道具の材料は、いま、生きている、その「場」にある。自分の生きている「現場」にある。それはありあわせの材料でいつでもつくることができる。そして、それをどうやって使えばいいか知っているのは「自分だけ」である。一種の「ゲリラ」の思想だね。--私は、こういう思想が大好き。他人の「土俵」に進入して行って戦う(侵略する)のではなく、自分の場に引き込んで戦うという生き方が大好き。自分の場に引き込んで戦い、敵が退散していくまで、自分にできることを増やしていく。そのとき、戦うということは、自分の可能性を広げることになる。
クストリッツァの映画には、そういう人間の可能性を信じているゆるぎのない明るさがある。さまざまな紛争のなかで生き抜いていくセルビアの魂が信念となっている。この、ノーテンキな、パワフルな笑いは、クストリッツァのまぎれもない武器なのだと思った。
出演 ウロシュ・ミロヴァノヴィッチ、マリヤ・ペトロニイェヴィッチ、アレクサンダル・ベルチェック
「パパは出張中」「アンダーグラウンド」「黒猫白猫」のクストリッツァの新作。相変わらず音楽ががんがん鳴り響き、全員が元気いっぱい。「めげる」ということを知らない。陽気だ。私は、この無意味な(?)猥雑さが大好き。
ストーリーは、田舎に住んでいる少年が、おじいちゃんに言われて、街へ自分の結婚相手を探しに行く、というもの。その姿がドタバタ喜劇として描かれる。結婚相手を探すがテーマだから、あらゆるシーンにセックスが絡んでくる。女教師が入浴しているのを覗き見するシーン、七面鳥を相手にセックスするシーン(七面鳥の鳴き声がけっさく)、ストリップ、さらには去勢まで、出てくる。盛り沢山なのだ。
そういうシーンも、大笑いなのだが、私が一番気に入っているのは、主役の少年と少女が、マフィアから逃走する途中、カラオケコンテスト(?)で歌うシーン。コンテストなので、いろんな人が出てくる。音痴も出てくれば、10点満点をとる人も出てくる。少年と少女は、コンテストの成績など気にせず、ヘリウムを吸いながらアバの曲を歌う。声がどんどん変わっていく。何を歌っているかさっぱりわからない。でも、歌っていることだけはわかる。それが楽しい。自分の声も、相手の声もかわっていって、それでも、少年は少年、少女は少女。それが互いにはっきりわかる。そして、曲は同じ曲。つまり、主題というか、旋律というか、ようするに「基底」を貫いているのは、アバの曲。この、同じもの、変化しないものと、次々に変化して行くものの入り乱れる関係がとても楽しい。
ここに、すべてが集約されている。いろんな人が登場し、それぞれに自己主張する。マフィアと市民の自己主張など、「和解」のしようがないのだけれど、その「和解」がありえない世界でも、「基本」は同じ。いろんな人が出会って、次々に変わっていく。何がなんだかわからないくらいに変わっていく。でも、変わらないことがひとつある。みんな、楽しく生きたいと思っている。
そして、もうひとつ、真実がある。
楽しさとは、どんどん変わっていくこと。何が起きるかなんか気にしない。いっしょに歌って騒げば人生は楽しくなる。楽しくなるためなら、何だってする。
ノーテンキ? かもしれないね。でも、そうではないかもしれない。人生は、どこかで、そんなふうに逸脱しながら進んでいくというのが、意外と本質かもしれない。楽しさを求めて、次々に変わっていく。
少年と少女のキスもいいなあ。最初は、少年がケガをしたふりをして、人工呼吸を頼む。マウス・トゥ・マウス。少女が息を吹き込む。それが、ファースト・キス。そのあと、逃走の過程でほんとうのキスがはじまるのだが、これが人工呼吸とはまったく逆。ふたりとも口を大きく開けて、息を体いっぱいに吸い込んで、いわば息をしないで、息の続く限り、キスする。ソフトなキス、ムードたっぷりのキス、というものからはほど遠い。まだキスの仕方もわからない(?)まま、真剣にキスする。この、わからないままの真剣さがいいんだなあ。
ノーテンキというのは、たぶん、わからないままの真剣さなのだ。(思い返せば、あの「アンダー・グラウンド」さえも、わからないままの真剣さに満ちあふれた映画だった。)そして、わからないとはいいながらも、わかっていることもある。いま、自分がどこにいるか、何ができるか、ということ。できることを丁寧に組み合わせて生きる。工夫して生きる、その瞬間に、すべてが楽しくなる。
この映画のメインストーリーは、少年の結婚相手探しだが、サブテーマとして、自分のできることを組み合わせて生きるという生き方がある。おじいちゃんの生き方にそれが端的に表現されている。田舎で、いわばひとりで暮らしている。何でもひとりでする。自給自足である。発明魔である。少年を起こすための、目覚ましがなると立ち上がるベッドや、いやな役人に抵抗するための落とし穴、まわりをみるための潜水艦の望遠鏡のようなものもつくる。その血をひいて(?)、少年も何でも工夫する。催眠術(?)のための回転板(これは、最後の方でも活躍する)から、天井につるしてあるサラミをとって食べるための猫を使った仕掛け。先に書いたキスを手にいれるための「ケガをしたふり」もその工夫かもしれない。
どんなものでもそうだが、自前のもの、手作りのものは、見知らぬ敵(たとえば、役人、たとえばマフィア)と戦う最大の武器である。その道具の材料は、いま、生きている、その「場」にある。自分の生きている「現場」にある。それはありあわせの材料でいつでもつくることができる。そして、それをどうやって使えばいいか知っているのは「自分だけ」である。一種の「ゲリラ」の思想だね。--私は、こういう思想が大好き。他人の「土俵」に進入して行って戦う(侵略する)のではなく、自分の場に引き込んで戦うという生き方が大好き。自分の場に引き込んで戦い、敵が退散していくまで、自分にできることを増やしていく。そのとき、戦うということは、自分の可能性を広げることになる。
クストリッツァの映画には、そういう人間の可能性を信じているゆるぎのない明るさがある。さまざまな紛争のなかで生き抜いていくセルビアの魂が信念となっている。この、ノーテンキな、パワフルな笑いは、クストリッツァのまぎれもない武器なのだと思った。
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