詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エミール・クストリッツァ監督「ウェディング・ベルを鳴らせ!」(★★★★)

2009-07-09 10:43:01 | 映画
監督・脚本 エミール・クストリッツァ
出演 ウロシュ・ミロヴァノヴィッチ、マリヤ・ペトロニイェヴィッチ、アレクサンダル・ベルチェック

 「パパは出張中」「アンダーグラウンド」「黒猫白猫」のクストリッツァの新作。相変わらず音楽ががんがん鳴り響き、全員が元気いっぱい。「めげる」ということを知らない。陽気だ。私は、この無意味な(?)猥雑さが大好き。
 ストーリーは、田舎に住んでいる少年が、おじいちゃんに言われて、街へ自分の結婚相手を探しに行く、というもの。その姿がドタバタ喜劇として描かれる。結婚相手を探すがテーマだから、あらゆるシーンにセックスが絡んでくる。女教師が入浴しているのを覗き見するシーン、七面鳥を相手にセックスするシーン(七面鳥の鳴き声がけっさく)、ストリップ、さらには去勢まで、出てくる。盛り沢山なのだ。
 そういうシーンも、大笑いなのだが、私が一番気に入っているのは、主役の少年と少女が、マフィアから逃走する途中、カラオケコンテスト(?)で歌うシーン。コンテストなので、いろんな人が出てくる。音痴も出てくれば、10点満点をとる人も出てくる。少年と少女は、コンテストの成績など気にせず、ヘリウムを吸いながらアバの曲を歌う。声がどんどん変わっていく。何を歌っているかさっぱりわからない。でも、歌っていることだけはわかる。それが楽しい。自分の声も、相手の声もかわっていって、それでも、少年は少年、少女は少女。それが互いにはっきりわかる。そして、曲は同じ曲。つまり、主題というか、旋律というか、ようするに「基底」を貫いているのは、アバの曲。この、同じもの、変化しないものと、次々に変化して行くものの入り乱れる関係がとても楽しい。
 ここに、すべてが集約されている。いろんな人が登場し、それぞれに自己主張する。マフィアと市民の自己主張など、「和解」のしようがないのだけれど、その「和解」がありえない世界でも、「基本」は同じ。いろんな人が出会って、次々に変わっていく。何がなんだかわからないくらいに変わっていく。でも、変わらないことがひとつある。みんな、楽しく生きたいと思っている。
 そして、もうひとつ、真実がある。
 楽しさとは、どんどん変わっていくこと。何が起きるかなんか気にしない。いっしょに歌って騒げば人生は楽しくなる。楽しくなるためなら、何だってする。
 ノーテンキ? かもしれないね。でも、そうではないかもしれない。人生は、どこかで、そんなふうに逸脱しながら進んでいくというのが、意外と本質かもしれない。楽しさを求めて、次々に変わっていく。
 少年と少女のキスもいいなあ。最初は、少年がケガをしたふりをして、人工呼吸を頼む。マウス・トゥ・マウス。少女が息を吹き込む。それが、ファースト・キス。そのあと、逃走の過程でほんとうのキスがはじまるのだが、これが人工呼吸とはまったく逆。ふたりとも口を大きく開けて、息を体いっぱいに吸い込んで、いわば息をしないで、息の続く限り、キスする。ソフトなキス、ムードたっぷりのキス、というものからはほど遠い。まだキスの仕方もわからない(?)まま、真剣にキスする。この、わからないままの真剣さがいいんだなあ。
 ノーテンキというのは、たぶん、わからないままの真剣さなのだ。(思い返せば、あの「アンダー・グラウンド」さえも、わからないままの真剣さに満ちあふれた映画だった。)そして、わからないとはいいながらも、わかっていることもある。いま、自分がどこにいるか、何ができるか、ということ。できることを丁寧に組み合わせて生きる。工夫して生きる、その瞬間に、すべてが楽しくなる。
 この映画のメインストーリーは、少年の結婚相手探しだが、サブテーマとして、自分のできることを組み合わせて生きるという生き方がある。おじいちゃんの生き方にそれが端的に表現されている。田舎で、いわばひとりで暮らしている。何でもひとりでする。自給自足である。発明魔である。少年を起こすための、目覚ましがなると立ち上がるベッドや、いやな役人に抵抗するための落とし穴、まわりをみるための潜水艦の望遠鏡のようなものもつくる。その血をひいて(?)、少年も何でも工夫する。催眠術(?)のための回転板(これは、最後の方でも活躍する)から、天井につるしてあるサラミをとって食べるための猫を使った仕掛け。先に書いたキスを手にいれるための「ケガをしたふり」もその工夫かもしれない。
 どんなものでもそうだが、自前のもの、手作りのものは、見知らぬ敵(たとえば、役人、たとえばマフィア)と戦う最大の武器である。その道具の材料は、いま、生きている、その「場」にある。自分の生きている「現場」にある。それはありあわせの材料でいつでもつくることができる。そして、それをどうやって使えばいいか知っているのは「自分だけ」である。一種の「ゲリラ」の思想だね。--私は、こういう思想が大好き。他人の「土俵」に進入して行って戦う(侵略する)のではなく、自分の場に引き込んで戦うという生き方が大好き。自分の場に引き込んで戦い、敵が退散していくまで、自分にできることを増やしていく。そのとき、戦うということは、自分の可能性を広げることになる。
 クストリッツァの映画には、そういう人間の可能性を信じているゆるぎのない明るさがある。さまざまな紛争のなかで生き抜いていくセルビアの魂が信念となっている。この、ノーテンキな、パワフルな笑いは、クストリッツァのまぎれもない武器なのだと思った。



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誰も書かなかった西脇順三郎(23)

2009-07-09 09:24:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 
 『旅人かへらず』のつづき。

一一
ばらといふ字はどうしても
覚えられない書くたびに
字引をひく哀れなる
夜明に悲しき首を出す
窓の淋しき

 詩の諧謔。笑いは、やはり音楽だと思う。かたぐるしい論理、その文体が脱臼するときに、笑いがはじける。そのはじけるリズムが音楽なのだと思う。

 2行目。「覚えられない書くたびに」という1行がおもしろい。文法を優先すれば、

ばらといふ字はどうしても覚えられない
書くたびに字引をひく哀れなる

 と、なるはずである。
 しかし、その「覚えられない」と「書く」という行為は、ほんらい分離できない。覚えられないから、書けない。(覚えられないので、書けない。)
 ここには、「理由」を説明することばが省略されている。西脇は、「理由」を省略して、「事実」だけを書いている。
 これは、西脇の「文体」の特徴である。
 「から」の「ので」は、ことばの運動をきつく縛る。ことばを論理の構造のなかにとじこめてしまう。論理の構造にとじこめると「意味」は正確になるが、「意味」でことばを(文体を)しばると、ことばとことばの響きあいが封じられ、窮屈になる。だから、西脇は省略するのだが、ほんとうは「から」「ので」が隠れている。

字引をひく哀れなる
夜明に悲しき首を出す
窓の淋しき

 この3行にも、「から」「ので」は隠れている。「から」「ので」で、深いところで「つながっている」。「理由」とは、何かと何かをつなげる「説明」である。
 「哀れなる/夜明けに」は、字引をひきながらばらという字を書いた。哀れにも、そんなふうに時間をつかってしまった「ので」、夜明けになってしまった。夜明けになってしまった「ので」、悲しい(あわれな頭脳をのせた)首を窓から出して、朝の空気で気分転換した--ということかもしれない。
 西脇は、そういうことを「説明」しない。読者にまかせる。
 そして、考えてみれば、首と窓というのは、窓から首を出すという関係で、昔から人間の暮らしのなかでつづいている(そういう習慣がつながっている)なあ、と思いめぐらす。
 遠い昔に、ふいに「つながってしまう」人間のおこない。そのつながりのなかには、やはり「淋しさ」があるのだ。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
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時里二郎「さねのこのみ」

2009-07-09 01:22:08 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「さねのこのみ」(「現代詩手帖」2009年07月号)

 時里二郎「さねのこのみ」の詩はあいかわらず「ややこしい」。その冒頭。

 始原(はじめ)にその島があった。
 いや、はじめに物語があった。島はその後に生まれた。ところが、ややこしい話だが、島は物語の流れ寄るところ。「さねのこのみ」が打ち寄せる岸辺。

 最初の2行だけで、「島」と「物語」のどちらが先にあったのかわからなくなる。鶏が先か、卵が先か、というのに似ている。それはあえていえば、どちらかが先にあるのではなく、同時に生まれるものなのだろう。言い換えれば、それは「出会う」ことによってはじめて「島」になり、「物語」になる。
 そして、(と言っていいかどうかわからないけれど)、その「出会い」というのは、2行目の「いや」ということばが象徴しているように、反対(対立)を含むもののであいなのである。似たもの、同じものが出会うのではない。相いれないものが出会うことで、互いがはじめて生まれる。そういう「出会い」である。
 「出会い」をとおしてふたつの存在が変わっていくのではなく、「出会う」ことでふたつの存在がそれぞれの自己を発見して行く。
 そういう「自己」は、出会うことによってどんどん互いに離れていく。離れて行くことが、出会いなのである。--矛盾しているが、そういう出会いがある。離れる、相手ではなく自己を発見するという運動のなかで、ふたつの存在は出会う。離れるという運動のなかで、他者との関係が築かれていくのである。
 「一体」になれないという不可能性のなかで、不可能を知ることで「出会い」、あるいは「一体になる」という「幻(夢)」がつむぎだされ、その夢のなかで、かたく結びつくと言い直すことができるかもしれない。
 詩は、つづいてゆく。

 そこに仮寓する幾たりかの男は、他の島々から重い潔斎を経て集まったカタリモノ。別にカタリシュとも呼ばれた。彼らは、砂浜に漂着したその実を拾い、浜から逸れた洞穴近くの岩場に設えられた隠場(こもりば)でそれを枕に眠る。眠りの中で物語が紡がれるのだが、紡がれた物語は、魂の遊離をしばしばおこすような島々の女に、口移しに伝えられた。もちろん、島嶼においては特別なトポスだから、女はその島に渡れない。男たちも島から出られないので、通常は夢がその交通を請け負った。物語のほとんどは、人々の魂の往還する海の彼方の祖霊の楽土を喚起させる類のもので占められる。

 ことばは、不可能なこと、現実には不可能なこと、不可能なことへと動いていく。それは、ことばが「現実」と出会うたびに、「現実」の方へではなく、ことばそのものの内部、ことばの「自己」へと入り込んで行くようでもある。
 たぶん、そうなのだろうと思う。
 何かを語ることは、「現実」の何かを語るということである。ことばと「現実」が出会うということである。そこから、ことばは「現実」へ近づいて行くのではなく、(また、時里が現実に近づいて行く--現実の真相を探るというのではなく)、どこまで「現実」から離れて行くことができるかを、真剣に探っているのである。
 ことばはどれだけ「現実」に背いて、ことば自身のなかへ旅することができるか。しかも、そのときことばは必ず「現実」に存在するものを「素材」として使いながら……。つまり、次々と「現実」に出会いながら、どれだけ「現実」から離れ、自由になれるか。

 時里のことばは、そういう「矛盾」を生きている。ことばは現実にあるものを利用しないことにはことばにならない。島という存在を利用ないことには、島から離れられない。「物語」ということばから離れないことには「物語」そのものにはなれない。

 「現実」と出会いながら、出会いのたびに「現実」から離れていく。そのとき、なにがあらわれるか。「架空」のもの、「虚構」への運動が眩暈のようにあらわれる。輝かしい栄光のようにあらわれる。
 それは逆に言えば、架空のものがなければ、ことばは動かないということでもある。
 たえばこの作品の「さねのこのみ」。それは何? 時里が「さねのこのみ」と名づけたものにすぎない。「現実」に背いて「名づけた」ものである。
 「名づける」こと、何かに名前をつけること、「現実」に背いて名前をつけること--そこからすべてがはじまる。

 そして、ここからが、ちょっとややこしい。
 現実に背いて時里が「名づける」。その架空、虚構のものがことばになった瞬間、語られた瞬間、時里には、その背かれたはずの「現実」というものが何であるか、直感としてわかる。
 しかし、それは直感なので、それが動いて行って、何かにたどりつくまでは何かがわからない。けれど、直感なので、どうしても信じてしまう。だから、追いかけてしまう。直感を。直感を追うことばを。
 「さねのこのみ」と名づけた瞬間から、時里は、「さねのこのみ」から逃れられなくなる。「さねのこのみ」をことばで追いかけているはずなのに、その追いかけることばに追いかけられる時里がそこに出現してくることになる。

 あ、私は、何を書いているんだろうなあ。

 最初に書いたことに戻ってしまおう。
 時里はことばに出会う。そして、そのときから、時里は最初のことばからどんどん離れ、時里自身がもっていることばのなかへ入って行ってしまう。最初のことばから離れれば離れるほど、最初のことばが何だったかが切実に感じられる。離れて行くことが「接近」する唯一の方法なのだ。
 矛盾だね。
 矛盾だから、そこに思想がある。矛盾をどれだけ持ちこたえられるかが思想の真価である。



現代詩手帖 2009年 07月号 [雑誌]

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