監督 ガーボル・ロホニ 出演 エミル・ケレシュ、テリ・フェルディ、ユディト・シェル、ゾルターン・シュミエド
後期高齢者版「俺たちに明日はない」(ボニー&クライド)である。
主役が82歳、70歳だからというわけではないが、映像が非常にゆったりしている。登場人物の動きがゆったりしているだけではなく、画面の切り替えもゆったりしている。これは、この映画にぴったりのリズムだ。ふたりの顔、動きから、それまでに積み重ねてきた人生が静かに滲みだしてくる。その、人生が滲みだしてくるリズムがこの映画の全体を貫いている。
ボニー&クライドでは0.1秒であふれだす感情が、この2人では1分かけてやっと表面に出てくる。それが不思議におかしい。
最初の郵便局強盗。老人はゆっくり話しかける。そのゆっくりさに、女性局員がゆっくり応じる。老人の脅しのスピードにあわせて、じっくり怖がる。うろたえて逃げる、大声を出すという、「急展開」をしない。老人が背を向けてすぐ「強盗!」と騒ぎ立てるわけでもない。扉を開けて出ていくのをしっかり確かめてしまう。
老人は「この銃に空砲は一発だ」という小説のなかのことばが気に入って、それをビデオ店強盗の時に使う。この準備(?)というか、遊び心というか、老人の余裕が楽しい。あわてない。沈着である。
2人が逃げる過程も実にいい。知っている場所へしか逃げない。老人が知っている場所は、追ってくる若い警官には知らない場所である。知っている場所と、知らない場所。場所を知っている人の方が絶対有利である。これはどんなときも変わらない。隠れ道、森のなかなど、なんでも利用できる。ここにも老人の知恵がある。
経験が豊かであるから、若い人間のせっかちさも巧みに利用する。女刑事を、わざと逃げられる状態にして(見張りをやめて)、彼女がどれくらい動けるかを確認する。彼女がちゃんと動けないと逃亡計画がうまくいかないからだ。(これはあとからわかることだが、このトリックは、知恵ものならではである。)
それにしても、と思うにはラストである。
ボニー&クライドは87発の銃弾を浴びて絶命する(私が数えたわけではないが)。この映画では、車にガソリンを積んで、道路を封鎖したブルドーザーに突入して、炎上死する。
と、一瞬、思う。実は、2人は無事逃げ通すのだが、それを知っているのは人質になっていた女刑事だけ。(彼女は、その事実を知って、ふっと笑いを浮かべる。あ、やったじゃないか、と感心する。)
華々しい死が似合うのは若い人間である。老人は死んではいけない。死なないのが老人なのだ。生き抜くのが老人なのだ。実に、うれしい展開である。
そして、このラスト。炎上死、実はトリックだった。というどんでん返しと、最初に書いた「ゆったり」ペースの映像展開が、ぴったりあっているのだ。女刑事はテレビのニュースを見ながら、老人たちの行動を思い出す。妻の方が「インシュリンが切れてしまった」といって女刑事の監視を中断したこと。それなのに、車の中でちゃんとインシュリンを打っていたこと。熊の大きなぬいぐるみを、修理(?)していたこと。逃亡の車に「これが必要なんだ」とガソリンを積んだこと。「海をみていないわ」と妻が言ったこと。「ここから先には連れていくことはできない」と夫は言ったが、それは「死への旅」のことではなかった。女刑事は「死への旅」だと思って、「炎上死」の瞬間泣き崩れたけれど、それはトリックだった。――そのトリックがトリックであると、しっかり意識のなかでよみがえってくるためには、それぞれのシーンはゆったりしていないといけないのだ。ハリウッド映画のスピーディーな伏線の展開では見落としてしまいかねない。
どのシーンも、ちょっと目をそらしたくらいでは、まだまだ大丈夫。ゆっくり、丁寧に、忘れられないように、きちんと描く。そのきちんとのなかには、どうしても「無駄」が入ってくる。行員が出払っていて、銀行強盗に失敗する(?)というような笑い話も入ってくる。そんな、くだらないような一つ一つの行為(映画でいえば映像)の共有が、ゆったりとした映像の共有がこの映画の「いのち」なのだ。
恋人(男)の浮気に怒って、銃撃練習で、的の人形の股間を狙う女刑事。交通取り締まりで走り抜ける車の名前を1台1台声に出す警官。手に入れた大金でドレスを買い込む妻、「きれいだ」と見とれる夫、「誰にもじゃまされたくない」とホテルマンに金を握らせる夫、老ボニー&クライドを批評する隣人の声、共感する市民の声などなど。すべてが「共有」される。
そして、この「共有」の感覚こそが、ともに生きるということなのだ。
考えてみれば、あらゆるものが「共有」から遠い。この映画の老ボニー&クライドの「年金だけじゃ生きていけない」という訴えだって、「共有」されていなかった。だから、彼らは事件を起こした。そして、すべてを「共有」した女刑事だけが、老ボニー&クライドの「成功」を静かに祝福するのである。
この映画を見終わった私たちも、だが。