詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(29)

2009-07-16 11:43:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

二九
蒼白なるもの
セザンの林檎
蛇の腹
永劫の時間
捨てられた楽園に残る
かけた皿

 詩人がことばを選んでくるとき、そこには何が反映されるのだろう。「蒼白なるもの」を西脇は集めてきている。その取り合わせに、詩があると感じて、取り集めてきている。
 私は長い間、2行目を「セザンヌの林檎」と思っていたが、「セザンの林檎」。この「セザン」を私は知らない。知らないけれど、「セザンヌの林檎」だったらつまらないと感じる。理由はひとつ。音がつまらない。イメージはしっかりつかめるけれど「セザンヌの林檎」では音がおもしろくない。
 そして、次の「蛇の腹」。これは、なんと読むのだろう。私は「じゃのはら」と読んでいる。「へびのはら」では音がとても間延びする。(セザンヌの林檎、も間延びする。)「じゃのはら」と読むとことばが加速する。「セザン」「林檎」「蛇(じゃ)」とつづいて、「永劫」「時間」。音が交錯する。その交錯がたのしいのである。
 「蛇の腹」には「蛇腹」も隠れていて、それが伸び縮みする。そこに「時間」が入り込んできて、「いま」と「永遠」が出会い、その隙間(?)に「楽園(らくえん--この音の中に、「セザン」「林檎」「時間」の「ん」が出てくる)」がのぞく。
 それから「かけた皿」。
 「欠けた」ではなく「かけた」が不思議になつかしい。
 「ん」の音で短く短くなっていく、スピードが上がってきて、ふいに、そのスピードがやわらかくなる。
 それもたのしい。

 追記。
 「ん」と「の」の響きあいも、この断章にはある。「セザンの林檎」の「の」。「永劫の時間」の「の」。その「の」の動きが、「蛇腹」を「蛇の腹」に変えてしまう。けれどそれを「へびのはら」と読むと、この行だけ音が間延びする。だから「じゃのはら」。促音のかわりに拗音。
 そんなことろにも西脇の音楽を感じる。

詩論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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宮田浩介『Current 』(3)

2009-07-16 02:20:27 | 詩集
宮田浩介『Current 』(3)(思潮社、2009年06月10日発行)

 宮田浩介の詩にはいろいろな魅力があると思うが、私がついつい(?)惹かれるのは、どうしても「音」が聞こえてくる瞬間である。
 XⅦの書き出し。

そして余所から来た蠅は自分の生まれた日に
車輪二つで、島じゅうをめぐる--開かれた無限の孤独は
傷を癒してくれる、道々蹴る石のように、

唐突だが確かなその手触りで。ゆるく曲がった
坂道、その光と影のページをゆっくりとめくり、その先をまた
惰性にうっとりと下ってく--韻を待ちながら。

 「韻」ということばが出てくるから書くのではないのだ。1連目の、「開かれた無限の孤独は/傷を癒してくれる、道々蹴る石のように、」ということばのなかに、弾き飛ぶ石の「音」がある。それは石の音であると同時に、乾いた空気の音である。
 この乾燥した空気の感じは、石さえも砕くのである。石さえも乾燥して、音を立てる。その乾燥した破壊は、まるで蝉の脱皮のように自然なことなのだ。
 3連目。

石が坂をどう跳ねてくかも知ってる、縁石に
砕ける様子も、後の切り立った静けさも。俺はそこから来たんだ、
蝉がその背中を突き破って出てくるように、

 この、濁りのない空気、そして、その濁りのない空気だけが響かせることのできる「音」。そこから、色が生まれてくる。この瞬間が、とても美しい。
 4連目。5連目。

青い皮膚の骸骨、草の芽、雲のように。陽は
水平線を後にしながら燃え上がる船に姿を変え、
人間のおこす煙の上、八月の星が 

次々に瞬きだす。流れ星が走るころ、
一日はもうおしまい。焚き火のそばへ蛹のような寝袋を
広げ、その火の灰がどのくらい古いか問おう。

 「色」と書いたが、それは「色」であると同時に、色ではない。「青い皮膚の骸骨」というのは「色」をかりた「音」である。無意味である。その青は。だからこそ、意味を背負わずに、ことばは次々に展開していく。「色」を透明化する「音」がある。すべてを透明にして夜が来る。
 「流れ星が走る」ということばに触れるとき、昼間の、バイクでの疾走の音がよみがえる。流れ星のように走ったのは、宮田か。あるいは、流れ星はバイクの車輪にはねとばされた小石か。空に「音」が輝きながら動いていくのが見える。
 そのとき、「いま」と「太古」をつないでいる「空気」が見える。火のはじける音と、その音をしずかに眠らせる灰--その長い長い「歴史」が見える。


Current
宮田 浩介
思潮社

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ガーボル・ロホニ監督「人生に乾杯!」(★★★★)

2009-07-16 00:00:20 | 映画
監督 ガーボル・ロホニ 出演 エミル・ケレシュ、テリ・フェルディ、ユディト・シェル、ゾルターン・シュミエド

 後期高齢者版「俺たちに明日はない」(ボニー&クライド)である。
 主役が82歳、70歳だからというわけではないが、映像が非常にゆったりしている。登場人物の動きがゆったりしているだけではなく、画面の切り替えもゆったりしている。これは、この映画にぴったりのリズムだ。ふたりの顔、動きから、それまでに積み重ねてきた人生が静かに滲みだしてくる。その、人生が滲みだしてくるリズムがこの映画の全体を貫いている。
 ボニー&クライドでは0.1秒であふれだす感情が、この2人では1分かけてやっと表面に出てくる。それが不思議におかしい。
 最初の郵便局強盗。老人はゆっくり話しかける。そのゆっくりさに、女性局員がゆっくり応じる。老人の脅しのスピードにあわせて、じっくり怖がる。うろたえて逃げる、大声を出すという、「急展開」をしない。老人が背を向けてすぐ「強盗!」と騒ぎ立てるわけでもない。扉を開けて出ていくのをしっかり確かめてしまう。
 老人は「この銃に空砲は一発だ」という小説のなかのことばが気に入って、それをビデオ店強盗の時に使う。この準備(?)というか、遊び心というか、老人の余裕が楽しい。あわてない。沈着である。
 2人が逃げる過程も実にいい。知っている場所へしか逃げない。老人が知っている場所は、追ってくる若い警官には知らない場所である。知っている場所と、知らない場所。場所を知っている人の方が絶対有利である。これはどんなときも変わらない。隠れ道、森のなかなど、なんでも利用できる。ここにも老人の知恵がある。
 経験が豊かであるから、若い人間のせっかちさも巧みに利用する。女刑事を、わざと逃げられる状態にして(見張りをやめて)、彼女がどれくらい動けるかを確認する。彼女がちゃんと動けないと逃亡計画がうまくいかないからだ。(これはあとからわかることだが、このトリックは、知恵ものならではである。)
 それにしても、と思うにはラストである。
 ボニー&クライドは87発の銃弾を浴びて絶命する(私が数えたわけではないが)。この映画では、車にガソリンを積んで、道路を封鎖したブルドーザーに突入して、炎上死する。
と、一瞬、思う。実は、2人は無事逃げ通すのだが、それを知っているのは人質になっていた女刑事だけ。(彼女は、その事実を知って、ふっと笑いを浮かべる。あ、やったじゃないか、と感心する。)
 華々しい死が似合うのは若い人間である。老人は死んではいけない。死なないのが老人なのだ。生き抜くのが老人なのだ。実に、うれしい展開である。
 そして、このラスト。炎上死、実はトリックだった。というどんでん返しと、最初に書いた「ゆったり」ペースの映像展開が、ぴったりあっているのだ。女刑事はテレビのニュースを見ながら、老人たちの行動を思い出す。妻の方が「インシュリンが切れてしまった」といって女刑事の監視を中断したこと。それなのに、車の中でちゃんとインシュリンを打っていたこと。熊の大きなぬいぐるみを、修理(?)していたこと。逃亡の車に「これが必要なんだ」とガソリンを積んだこと。「海をみていないわ」と妻が言ったこと。「ここから先には連れていくことはできない」と夫は言ったが、それは「死への旅」のことではなかった。女刑事は「死への旅」だと思って、「炎上死」の瞬間泣き崩れたけれど、それはトリックだった。――そのトリックがトリックであると、しっかり意識のなかでよみがえってくるためには、それぞれのシーンはゆったりしていないといけないのだ。ハリウッド映画のスピーディーな伏線の展開では見落としてしまいかねない。
 どのシーンも、ちょっと目をそらしたくらいでは、まだまだ大丈夫。ゆっくり、丁寧に、忘れられないように、きちんと描く。そのきちんとのなかには、どうしても「無駄」が入ってくる。行員が出払っていて、銀行強盗に失敗する(?)というような笑い話も入ってくる。そんな、くだらないような一つ一つの行為(映画でいえば映像)の共有が、ゆったりとした映像の共有がこの映画の「いのち」なのだ。
 恋人(男)の浮気に怒って、銃撃練習で、的の人形の股間を狙う女刑事。交通取り締まりで走り抜ける車の名前を1台1台声に出す警官。手に入れた大金でドレスを買い込む妻、「きれいだ」と見とれる夫、「誰にもじゃまされたくない」とホテルマンに金を握らせる夫、老ボニー&クライドを批評する隣人の声、共感する市民の声などなど。すべてが「共有」される。
 そして、この「共有」の感覚こそが、ともに生きるということなのだ。
 考えてみれば、あらゆるものが「共有」から遠い。この映画の老ボニー&クライドの「年金だけじゃ生きていけない」という訴えだって、「共有」されていなかった。だから、彼らは事件を起こした。そして、すべてを「共有」した女刑事だけが、老ボニー&クライドの「成功」を静かに祝福するのである。
 この映画を見終わった私たちも、だが。


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