ホメロスを読む男
夜明と黄昏は静かに
金貨の両面のやうに
タマリンドの樹を通つて
毎日彼の喉のところへやつて来た
その時分彼は染物屋の二階に
下宿してホメロスを読んでゐた
その時分彼は三色菫の絵がついてゐる
珊瑚のパイプをもつてゐた
ガリア人は皆笑つた(君のパイプは
少女の手紙かピザンチウムの恋愛小説
のやうなパイプだね--ウーエー)
しかしその燐光の煙は鶏頭の花や
女神の花や腰をめぐる
4行目が不思議である。なぜ「喉のところ」なのだろうか。なぜ「彼のところへやつて来た」ではないのだろうか。
こういう行に、私は実は「音」を感じる。
「彼のところへやつて来た」だとすると、夜明けと黄昏がかならずセットになって(つまり毎日晴れわたって)時間がすぎていく透明な風景が見える。絵画的である。美しすぎるくらい絵画的である。
「喉の」が挿入されると、夜明けと黄昏の透明な色彩ではなく、突然、「主語」が交代したように感じる。「喉」も見えるといえば見えるけれど、夜明けや黄昏といった「ひろがり」に比べると小さい。一気に風景が「喉」に収斂し、その「喉」が動いている感じがする。「喉」が動いているのは声を出しているからである。そして、その「声」がホメロスにつながっていく。
「声」と書いたが、必ずしも「音読」とはかぎらない。ことばは声を出して読まなくても喉や口蓋、舌などに刺激的である。耳にも刺激的であるけれど、黙読の場合、耳よりももっと発音器官に刺激的である。黙読のとき耳は疲れないけれど、無意識に動く喉や口蓋、舌は疲れる。(これは、私だけだろうか。)
「音」が意識されるからだと思う。次の行から、ことばのリズムが強調される。「その時分」という頭韻、「ゐた」「ゐる」「ゐた」という脚韻。「音」だけではなく、「動詞」の脚韻(?)とでもいいたくなる繰り返し。そのなかで、ことばが動いてゆき、1行目の「静か」とはまったく違った賑やかな静かな世界が広がる。
パイプ。そのおかしな模様。笑い。ひやかし。そして、「ウーエー」という口語。ガリア人の、からかいの声なのだろう。こういう突然の口語の楽しさが、西脇の文体を音楽的にする。統一された音楽ではなく、乱調の音楽を。
口語の賑やかさ(やかましさ、ではなく)を通過して、ことばがもう一度「静か」になろうとする--その最後の2行の、不思議な脱臼感覚も楽しい。パイプのけむりの、肉体感覚、肉感が、まるで人間そのもののようだ。「花」と「鼻」が「腰」のあたりで出会うとき、ふと、「花」がやわらかくにおう性器に感じられたりもする。
声、音楽というのは、セックスなんだなあ、とも思う。
西脇の音楽は、どこかで声のセックスにつながっている。--私は、そんなことを、ときどき思う。
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