詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(16)

2009-07-02 09:17:25 | 誰も書かなかった西脇順三郎

ホメロスを読む男

夜明と黄昏は静かに
金貨の両面のやうに
タマリンドの樹を通つて
毎日彼の喉のところへやつて来た
その時分彼は染物屋の二階に
下宿してホメロスを読んでゐた
その時分彼は三色菫の絵がついてゐる
珊瑚のパイプをもつてゐた
ガリア人は皆笑つた(君のパイプは
少女の手紙かピザンチウムの恋愛小説
のやうなパイプだね--ウーエー)
しかしその燐光の煙は鶏頭の花や
女神の花や腰をめぐる

 4行目が不思議である。なぜ「喉のところ」なのだろうか。なぜ「彼のところへやつて来た」ではないのだろうか。
 こういう行に、私は実は「音」を感じる。
 「彼のところへやつて来た」だとすると、夜明けと黄昏がかならずセットになって(つまり毎日晴れわたって)時間がすぎていく透明な風景が見える。絵画的である。美しすぎるくらい絵画的である。
 「喉の」が挿入されると、夜明けと黄昏の透明な色彩ではなく、突然、「主語」が交代したように感じる。「喉」も見えるといえば見えるけれど、夜明けや黄昏といった「ひろがり」に比べると小さい。一気に風景が「喉」に収斂し、その「喉」が動いている感じがする。「喉」が動いているのは声を出しているからである。そして、その「声」がホメロスにつながっていく。
 「声」と書いたが、必ずしも「音読」とはかぎらない。ことばは声を出して読まなくても喉や口蓋、舌などに刺激的である。耳にも刺激的であるけれど、黙読の場合、耳よりももっと発音器官に刺激的である。黙読のとき耳は疲れないけれど、無意識に動く喉や口蓋、舌は疲れる。(これは、私だけだろうか。)
 「音」が意識されるからだと思う。次の行から、ことばのリズムが強調される。「その時分」という頭韻、「ゐた」「ゐる」「ゐた」という脚韻。「音」だけではなく、「動詞」の脚韻(?)とでもいいたくなる繰り返し。そのなかで、ことばが動いてゆき、1行目の「静か」とはまったく違った賑やかな静かな世界が広がる。
 パイプ。そのおかしな模様。笑い。ひやかし。そして、「ウーエー」という口語。ガリア人の、からかいの声なのだろう。こういう突然の口語の楽しさが、西脇の文体を音楽的にする。統一された音楽ではなく、乱調の音楽を。
 口語の賑やかさ(やかましさ、ではなく)を通過して、ことばがもう一度「静か」になろうとする--その最後の2行の、不思議な脱臼感覚も楽しい。パイプのけむりの、肉体感覚、肉感が、まるで人間そのもののようだ。「花」と「鼻」が「腰」のあたりで出会うとき、ふと、「花」がやわらかくにおう性器に感じられたりもする。

 声、音楽というのは、セックスなんだなあ、とも思う。

 西脇の音楽は、どこかで声のセックスにつながっている。--私は、そんなことを、ときどき思う。




西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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藤維夫「短い春」

2009-07-02 00:33:56 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「短い春」(「SEED」19、2009年06月10日発行)

 藤維夫「短い春」の書き出しの2行

さっきから過剰な地図を歩き
沈む夕陽の徒労のなかで水を飲む

 「過剰」と「徒労」の呼応がとても緊密である。その響きあいを強調するように「さっきから」と「水を飲む」というもう一つの呼応がある。「過剰」「徒労」が緊密な関係にあるのに対して、「さっきから」「水を飲む」はゆるやかな、あるいは「たわみ」を内包した響きあいだといえる。
 藤のことばは、こういう対比がとても美しい。
 そして、その対比がつくりだす「間」(ま)を、そのどちらにも属さないことばで埋めていく。

影はすでにすばやく走り
わずかにひとり取り残される
なんにも期待できないのに
期待することではないのに
はじめから夕日は夕日だったからくらくなる
ずっと道にそって歩けばいいのだ

 「なんにも期待できないのに/期待することではないのに」という繰り返しているような、繰り返すことを否定しているような、ことばの動きが、「間」の時間を濃密にする。こういう時間のすごし方を、藤は2連目で言い直している。

じぶんにしかわからないことばだけを呼吸して

 この1行がすごい。
 たしかに、詩とは「じぶんにしかわからないことば」なのだ。なぜなら、それはまだ「ことば」になりきれていないからだ。ことばになりきれていないものを、むりやりことばとして動かしてしまう。「むり」ということは「自分」を越えようとすることである。その「むり」のなかに、「自分」を越えるものがあり、それがきっと詩なのだ。

 「あとがきに」かえて、という副題のある(だれも知らないことだ)には、ことばしか越えるものがない人間の悲しみ、詩人の悲しみが透明な形でひろがっている。

やさしさが元気といっしょになって
山をずっと見つづけている
干し草をみたり牛舎と火葬場のあいだから
遠くの海も見える
みずからの薄皮を剥いでしまう
言葉だけの空虚が空に漂うのだ

 「牛舎と火葬場のあいだから」の「あいだ」がいい。藤のことばは、いつでも何かの「あいだ」を動いていく。「あいだ」で濃密になる。

 
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