詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(15)

2009-07-01 09:19:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎

旅人

汝カンシャクもちの旅人よ
汝の糞は流れて、ヒベルニアの海
北海、アトランチス、地中海を汚した
汝は汝の村へ帰れ
郷里の岸を祝福せよ
その裸の土は汝の夜明だ
あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶらさがつてゐる

 1行目が楽しい。もし「癇癪持ち」と漢字で書かれていたら、楽しいかどうか私にはわからない。きっといやな気持ちになるだろうと思う。「カンシャク」とカタカナで書かれているために癇癪から意味が引き剥がされ、音だけが残る。
 2行目の「糞」という俗が、意味をさらに引き剥がす。
 ことばだから、「意味」は探そうと思えばいくらでも探せる。つまり、つけくわえることができる。けれど、西脇のことばは、意味を拒んでいるように思える。意味から逸脱していくように思える。
  「汝の糞は流れて、ヒベルニアの海/北海、アトランチス、地中海を汚した」の改行のリズムがその印象を強める。「汝の糞は流れて、ヒベルニアの海」という1行は、完全に意味を拒んでいる。述語「汚した」は次の行の最後になるまで登場しない。それまで「ヒルベニアの海」は、意味とは無関係なところに宙吊りになっている。ただ「音」として浮かんでいる。そして、音として疾走しはじめる。モーツァルトの音楽のように。
 ヒルベニアの海、北海、アトランチス、地中海。この海の羅列も、カタカナの混じり具合がとてもいい。(このカタカナは「カンシャク」のカタカナと響きあっている。)
 海そのもの(場所)というより、そこに描かれているのは音、あえていえば波の音である。水の音である。言い換えると、海だけれど、そこに描かれているのは「水の色」ではない。
 そのあとの転調は西脇独特のものだ。「旅人」は「たびびと」と読むのだと思うが(私は、「たびびと」と読んでいるが)、カンシャクという音と向き合っている、そのゆっくりした音、なつかしいような音が、カタカナとは違ったものを要求するのだろうか。一転して、やわらかい音にかわる。
 カタカナは消える。そして、

あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶらさがつてゐる

 この「あけび」の美しさ。音のゆっくりした動き。そして、重さ。カンシャクは速くて軽い音と比べると「あけび」の異質な音がよくわかると思う。
 その音の中に薄紫の色がぱっと広がる。それは、前の行の「夜明け」の中にひそむ色かもしれない。--たしかに、西脇は絵画的詩人でもあるのだが、その色の呼応の影には「け」の音、「よあけ」「あけび」の呼応もある。
 そして、このゆったりと重い音は、「霊魂」にもふさわしい。ひらがなで書くと「れいこん」だが、実際の「音」を再現すれば「れえこん、れーこん」。「え」の音がゆったりとのびる。つづく「ごとく」の濁音の重石もとてもきもちがいい。
 最終行の「夏中」にものばす音と濁音がある。そしてそれがそのまま形となって「ぶらさがつてゐる」。

西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川朱実「小さな旅」ほか

2009-07-01 00:36:24 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「小さな旅」ほか(「この場所ici」創刊号、2009年06月25日発行)

 北川朱実「小さな旅」は動物園での光景を描いている。赤ん坊に見つめられる「私」。その3連目。

(人は じっと見つめると陸地のようだが
(目をそらすと水たまりになる

 ほんとうかなあ。よくわからない。どうしたら、こんな風に感じることができるのだろう――そう考えていると、それにつづく連。

いくつかの小さな事があって
私は
動物園のヒョウの前にいた

檻の中に
ヒョウが一頭しかいないのは

獣と向きあうとき
人は たぶん
ひとりだからだ

 あ、これはいいな。わかるなあ。「人は」とあたかも客観的なことがらのように書いているけれど、ここに書かれているのは「私は」である。「私は」と書くべきところを、北川はわざと「人は」と書いている。
 「私は」と書かなければならないのに「人は」と書く。それには「いくつかの小さな事」が影響していることが推測できる。どうしても、そんなふうに想像してします。
 「私は」を「人は」と一般化してしまいたいのは、そのことが「私」に関係することだけれど、「すべての人」にと一般化すると、なんとなく「私」の問題が多くの人によって溶け込んで軽くなるような気がするからだろうか。
 そして。(この接続詞でいいのだろうか。)
 「私」をそんな風に客観化した瞬間、不思議な「主語」の入れ替わりが起きる。「私」が「人」になってしまったとき、突然「獣、ヒョウ」が「私」になる。「客観化した私」に「主観的な私」が反乱を起こす。激しく抵抗する。いや、「客観化されたくない私」というものが突然生まれてきて、その生きる「場」を求め、「獣、ヒョウ」に乗り移るといえばいいのだろうか。「私」の、たとえば「私の孤独」が「人」になって「ヒョウ」を見つめるなら、孤独な人に甘んじたくない私が「ヒョウ」になって叫び始めるのだ。

赤ん坊の目の中に
扉を一つ描いてやる

すると 突然
獣たちは
ひくく たかく
咆哮を繰り返し

赤ん坊は
声をかぎりに泣いた

 「扉を一つ描いてやる」の「やる」がいい。このとき「私」は「母」ではない。「女」だ。赤ん坊を、「赤ん坊」という性のない「人」ではなく、「女」「男」として見つめ、その「女」「男」に向けて、「私」のなかの「女」が叫ぶのだ。その叫びに、赤ん坊のなかの「女」「男」が本音で答える。まだ、それは「ことば」にはなっていないが、すぐ「ことば」にかわるはずだ。
 詩はつづく。

泣き声は
もうすぐ言葉にかわるだろう

きょう 私たちは
短針だけ傾けて
旅をしていたのだ

 「旅」は「私」が「人」に、「獣」になる「旅」だ。人間は、なんにでもなる。だから、「陸地」であったり、「水たまり」であったりもするのだ。「旅」に気づくときもあれば、気づかずに帰ってくるときもあるということだろうか。



 柿沼徹「コバヤシの内部」。この作品で、柿沼は「卵」になり「コバヤシ」という人間になってみる。「卵」「コバヤシ」に自分を仮託した瞬間、それが「私」そのものになる。ここにも「旅」がある。

ぼんやりした白い卵
せめて呼びかけてみたい
例えば・・・
コバヤシ、と呼んでみる
と、それは
見たことのない一個にみえる
手のひらのうえの
コバヤシの固さ
やわらかな重さ

コバヤシを床に落とす
コバヤシは落下のさなか、ま下に
今を見すえる

 「見たことのない一個」。ことばを動かすと、「見たことのない」何かが見える。それが「詩」という「旅」だ。

 青山かつ子「快復」も楽しい「旅」だ。大病で死にかける。でも、簡単には死なない。

どうやら死んだみたい
この世の見納めに薄目をあけると
白布が白菜の一葉になって葉脈をうきたたせている
(略)
急にのどが渇いて
白布がわりの白菜を食べる
シャキシャキとした歯触り
みずみずしいあおい匂い
ほのかな甘さ
を ゆっくり噛みしめる

 ふーん、遺体を覆う白い布を「白菜」と思ったことがあるのかな。



人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする