旅人
汝カンシャクもちの旅人よ
汝の糞は流れて、ヒベルニアの海
北海、アトランチス、地中海を汚した
汝は汝の村へ帰れ
郷里の岸を祝福せよ
その裸の土は汝の夜明だ
あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶらさがつてゐる
1行目が楽しい。もし「癇癪持ち」と漢字で書かれていたら、楽しいかどうか私にはわからない。きっといやな気持ちになるだろうと思う。「カンシャク」とカタカナで書かれているために癇癪から意味が引き剥がされ、音だけが残る。
2行目の「糞」という俗が、意味をさらに引き剥がす。
ことばだから、「意味」は探そうと思えばいくらでも探せる。つまり、つけくわえることができる。けれど、西脇のことばは、意味を拒んでいるように思える。意味から逸脱していくように思える。
「汝の糞は流れて、ヒベルニアの海/北海、アトランチス、地中海を汚した」の改行のリズムがその印象を強める。「汝の糞は流れて、ヒベルニアの海」という1行は、完全に意味を拒んでいる。述語「汚した」は次の行の最後になるまで登場しない。それまで「ヒルベニアの海」は、意味とは無関係なところに宙吊りになっている。ただ「音」として浮かんでいる。そして、音として疾走しはじめる。モーツァルトの音楽のように。
ヒルベニアの海、北海、アトランチス、地中海。この海の羅列も、カタカナの混じり具合がとてもいい。(このカタカナは「カンシャク」のカタカナと響きあっている。)
海そのもの(場所)というより、そこに描かれているのは音、あえていえば波の音である。水の音である。言い換えると、海だけれど、そこに描かれているのは「水の色」ではない。
そのあとの転調は西脇独特のものだ。「旅人」は「たびびと」と読むのだと思うが(私は、「たびびと」と読んでいるが)、カンシャクという音と向き合っている、そのゆっくりした音、なつかしいような音が、カタカナとは違ったものを要求するのだろうか。一転して、やわらかい音にかわる。
カタカナは消える。そして、
あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶらさがつてゐる
この「あけび」の美しさ。音のゆっくりした動き。そして、重さ。カンシャクは速くて軽い音と比べると「あけび」の異質な音がよくわかると思う。
その音の中に薄紫の色がぱっと広がる。それは、前の行の「夜明け」の中にひそむ色かもしれない。--たしかに、西脇は絵画的詩人でもあるのだが、その色の呼応の影には「け」の音、「よあけ」「あけび」の呼応もある。
そして、このゆったりと重い音は、「霊魂」にもふさわしい。ひらがなで書くと「れいこん」だが、実際の「音」を再現すれば「れえこん、れーこん」。「え」の音がゆったりとのびる。つづく「ごとく」の濁音の重石もとてもきもちがいい。
最終行の「夏中」にものばす音と濁音がある。そしてそれがそのまま形となって「ぶらさがつてゐる」。
西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)西脇 順三郎筑摩書房このアイテムの詳細を見る |