詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(37)

2009-07-24 07:21:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

四四
小平村を横ぎる街道
白く真すぐにたんたんと走つてゐる
天気のよい日ただひとり
洋服に下駄をはいて黒いかうもりを
もつた印度の人が歩いてゐる
路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる

 「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」の「行わたり」がとても印象に残る。学校文法では「洋服に下駄をはいて黒いかうもりを/もつた印度の人が歩いてゐる」になる。どこが違うのか。「意味」は同じである。「音楽」が違う。
 私が特に感じるのは「黒いかうもり」という「音」の美しさである。この音の美しさは「黒いかうもりをもつた」と続いてしまうと死んでしまう。「も」という音が近すぎるからである。
 「も」が改行されて、行の冒頭にくるとき、そこに強いアクセントがくる。(これは、私の場合であって、ほかのひとは違うかもしれない。)そして、「もつた」の「も」に強いアクセントがくると、それに引きずられるようにして「黒いかうもり」の「も」の音が記憶のなかでよみがえり、ふつたの「も」が「和音」となって響く。
 「白いかうもり」や「赤いかうもり」ではなく「黒いかうもり」であることも重要だ。「黒いかうもり」は、私にはとても美しい音に聞こえる。そして、その音は「もつた」と切り離されながら、同時に呼び掛け合うときに、さらに美しく響く。

 この詩には、イメージ自体の美しさ、「バツト」(たばこだろう)を買う印度人、洋服に下駄という不釣り合いなものの出会いの驚き、その驚きのなかの詩もあるけれど、私には、そうした異質なものの出会いという要素は、「黒いかうもり」という音の美しさに比べると、とても小さな部分しか占めない。



西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
彌生書房

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松尾真由美『不完全協和音』(3)

2009-07-24 00:58:19 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(3)(思潮社、2009年06月30日発行)

  「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」--そういう文体が松尾のなかにあるのかもしれない。一つの文体ではない。複数の文体。そして、複数であることによって一つである文体。--と、きのうの「日記」で書いた。
 それは『秘めやかな共振、もしくは招かれたあとの光度が水底をより深める』を読むと、いっそう強くなる思いである。巻頭の「汐の色彩、しめやかな雨に流れる鍵と戸と窓」は河津聖恵の「シークレット・ガーデン」と向き合った作品である。河津と松尾との「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」関係、ことばの運動が、そこにある。河津の詩が引用され、引用は引用として明示されているから、ふたりはふたりなのだが、ふたりであるからこそ「いやひとりで」動いていることば(ひとりとして動いていることば)という印象がする。「ふたり」であるときに浮かび上がる「共通性」--その「共通性」が「ひとり」という印象を呼び覚ます。区別のつかない部分がある。そして、その区別のつかない部分というのは、ほんとうに「ふたり」だけに共通するもの、共有されるものなのか。たぶん、違う。河津と松尾以外の誰かが共有するもの、松尾と河津以外の誰かが共有するもの、というものがそこにはある。そのために「もしくは複数の」という感じが生まれる。
 「共振」ということばを松尾はつかっている。(私なら、和音ということばをつかう。)それは複数の存在を前提としている。そして、複数でありながら「ひとつ」という印象が同時に存在する。そして、その「ひとつ」であるということが、別の他の「ひとつ」を生み出すという可能性として感じられる。
 「もしくは複数の」の「複数」は「ひとり」と「ひとり」が出会い、「ふたり」になり、「ふたり」であるということを意識しながらなおかつ「ひとり」の可能性(ひとつの可能性、といいかえようか)が見えてきたとき、その「ひとり」(ひとつ)の内部を通って、さらに「共振」(和音)の拡大、増殖がはじまる。その拡大、増殖が、「複数」なのだ。

 「汐の色彩、しめやかな雨に流れる鍵と戸と窓」の冒頭。

 だから、くらい木々の狭間を縫うように、夜のとばりの喉元から未知と既知が絡まりあい、地の雲に足先は覆われて、ひろがる不安あるいは千切れた根の行方を、ひとりで追ってゆくしかない。

 「だから」とはじまるが、何があって「だから」なのかは、わからない。理不尽である。理不尽であるが、たぶん、そういう理不尽が「出会う」ということなのだ。出会って、出会ったことをきっかけにして動いていく。出会った、「だから」動いていくのである。そして、この「だから」には実は「意味」がない。「だから」は引用部分の別のことばに言い換えるなら、「あるいは」なのだ。「だから」と「あるいは」を入れ換えてみればわかる。

 「あるいは」、くらい木々の狭間を縫うように、夜のとばりの喉元から未知と既知が絡まりあい、地の雲に足先は覆われて、ひろがる不安「だから」千切れた根の行方を、ひとりで追ってゆくしかない。
 
「ひろがる不安「だから」千切れた根の行方を」というのは、学校文法からすると少し奇妙な表現になってしまうが、その「だから」のなかの不思議な粘着力のありようは、「だから」と「あるいは」を入れ換えた方がより強烈にわかるだろう。
 「だから」ということばで「ひとり」と「ひとり」は結びつき(粘着し)、つまり「ふたり」は「ひとり」になり、その「ひとり」を「あるいは」ということばで分断し、「複数」へと動いていくのだ。
 「未知と既知とが絡まりあい」ということばが出てくるが、相反するもの(矛盾するもの)が絡まりあい、絡まることで「ひとつ」になり、「ひとつ」であることを意識することで、そこから「複数」の夢がはじまる。

 さらに、このことばに「それとも」や「いや」ということばが加勢する。それは「複数」を増殖させることばである。「さらに」ということばも加わる。
 次のように。

しめやかな叫びの音が内向し、四散して、あれは飛び散る羽根、それとも、つめたい氷の欠片? 消え去る影が一瞬だけ日を放ち、くろい喪の方位を焦がす。喪の方位が現れだす。そこに投げ込まれるものと消え去るものとの同化は真夜中の麻痺のなか、さらにみだれて放蕩する睡りに落ちる。

「内向し、四散して」という矛盾。つまり、「ふたり」がまず登場し、その「ふたり」(ふたつ)を「飛び散る羽根、それとも、つめたい氷の欠片」と、「それとも」ということばで、どちらか「ひとつ」(ひとり)にしようと試みる。そして、そう思った瞬間に、きっと「ひとつ」になる。まず、「飛び散る羽根」に、そして、瞬時の内に「つめたい氷の欠片」へと分裂する。「ふたつ」(ふたり)のイメージになり、「ふたつ」になったことが、別のイメージを呼び覚まし、増殖する。その増殖が「さらに」増えるのである。

 こういうとき、そのひとつひとつの増殖するイメージに「意味」を与えても、なにもわからないだろうと思う。増殖するイメージは、音楽のように、ひたすら動いていくだけなのである。全部がきれいかもしれない。そうではなくて、ある「和音」だけが特別に美しく、他の部分はその最良の「和音」を支えるものであるかもしれない。
 このことばの運動のなかになにかほんとうに存在するものがあるとしたら、増殖するイメージの氾濫ではなく、「だから」「あるいは」「それとも」「さらに」ということばを粘着させ、分離させる力なのだと思う。松尾は、そういうことばの粘着力と分離力(こんな表現があるかどうか知らないが)を、他人の詩と向き合うことで、とことん動かしているのである。




不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

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アリア、この夜の裸体のために―河津聖恵詩集 (現代詩人叢書)
河津 聖恵
ふらんす堂

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