詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トム・マッカーシー監督「扉をたたくひと」(★★★★)

2009-07-26 22:03:16 | 映画
監督・脚本 トム・マッカーシー 出演 リチャード・ジェンキンス、ヒアム・アッバス、ハーズ・スレイマン、ダナイ・グリラ

 たいへん静かな映画である。9.11以後のアメリカ(国家)に対するアメリカ人(個人)の、静かな静かな抗議である。
 主人公は大学教授。マンハッタンのアパートに帰ってみると、見知らぬ男女が住んでいる。彼はいったん彼らを追い出すが、住む家がないと知ると、再びアパートを提供する。見知らぬ人でも危害を加えないなら、そして困っているなら受け入れる。彼が、なぜそんな寛容な生き方ができたのか。そのバックボーンがきちんと描かれるわけではないが、彼がしめした態度は、アメリカ合衆国の基本的な姿勢ではなかったか。どのような国からのひとも受け入れる。そうやって成長してきたのがアメリカだったはずである。
 それが9.11以後完全に変わった。異質の人間を受け入れない。悪意がないと分かっていても受け入れない。アメリカへ逃れてきた人の事情にはいっさい考慮せず、法にのっとっているかどうかだけを判断の基準にする。もちろん法にしたがって判断するのは重要なことだけれど、そこには釈然としないものが残る。
 法にのっとっていない、だからテロリストの可能性がある。それが中東の人間ならなおさらである。――そういう判断が動くとき、そこに差別意識が侵入してくる恐れがある。不寛容が人間を偏狂にしてしまう恐れがある。
 主人公の大学教授は音楽を、ジャンベを通して「不法侵入」の青年とこころを通わせる。青年は大学教授を、老いているからと見下したりしない。そんな年になって、ジャンベを勉強したって無意味――というような判断をしない。(大学教授がピアノのレッスンを受けていた時、教える女性は、彼を子供扱いする。「手の形は、トンネルのように。列車が手のひらのトンネルを通りぬけられるように」と子供が喜びそうな比喩で説明する。――大学教授は、この説明に傷つく。「年をとってから上達はしない」ということばよりも。)
 大学教授は、次第にジャンベの楽しさにのめりこんでゆく。
 そこへ、突然の青年の逮捕。地下鉄に無賃乗車しようとした――という理由で。ちゃんとパスを持っているのに。そして、そこから身分の追及が始まり、不法入国の事実が分かる。入管センターに拘置され、シリアに送還されてしまう。
 大学教授は青年が音楽を愛する善良な人間であることを知っていながらなにもできない。
国家の不寛容に対して無力であることを知る。それは絶望といってもいい。
 ジャンベをたたいているとき、教授は青年ととけあっている。いっしょに公園でジャンベをたたいているとき、教授は、まわりの人たちのことを何も知らない。青年以外の奏者の名前を知らない。何語を話すかも知らないだろう。けれどうちとけて、同じリズムを共有し、楽しんでいる。時間がたつのも忘れてしまう。(これが地下鉄の逮捕劇につながるのだが・・・。)そういう「音楽」のような融合、信頼の絆――それはアメリカの理想であったはずだ。
 その理想を、いま、アメリカという国家が暴力的に破壊している。そして、その破壊を一般の市民は止める手段を持たない。その絶望と、絶望の中での、国家への抗議。

 教授は、ラストシーンで、地下鉄の駅でひとりジャンベをたたく。青年が教えてくれた音楽の喜び。愛した妻とのピアノを手放しても平気なくらいのこころの安定を得た。そのこころを支えてくれた青年を国家が奪っていく。――それに対するかなしい抗議。
 彼のジャンベに耳を傾ける人はいない。無関心な市民がホームにいるだけだ。国家への抗議であると同時に、無力な市民への抗議も、ここにはこめられている。
 せめて、そのジャンベの音が、シリアへ送還されていく青年の記憶に、夢に届くようにと祈らずにはいられない。青年が、いつか、どこかで、教授がきっとホームでジャンベをたたいているに違いないと夢見るように祈らずにはいられない。



 大学教授を演じたリチャード・ジェンキンスの静かな動きがとても気持ちがいい。ジャンベにのめりこんでゆくときの無邪気な表情、公園でのセッションに、ためらいながら、参加し、見知らぬひとと同じリズムを作り出していく楽しさ。それと対照的な、入管への怒り。青年の恋人や、青年の母親への思いやりの表情。どんなときも、暴走しない落ち着きがある。その静けさが、国家の暴走を、逆に静かにあぶり出す。
 そして。
 あ、音楽はいいな、としみじみ思う。私は音痴だし、楽器もなにもできない。しかしあの教授がやれるなら、何かやれるかもしれない、という「おまけ」の夢も、この映画からもらった。

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誰も書かなかった西脇順三郎(39)

2009-07-26 07:36:32 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

五一
青銅がほしい
海原の滴りに濡れ光る
ネプチュンの五寸の青銅が
水平に腕をひろげ
少しまたをひらいて立つ
何ものか投げんとする

 2行目の「ら行」の揺らぎが楽しい。3行目の「ネプチュン」と「五寸」の出会いもおもしろい。そして、5行目の「少しまたをひらいて立つ」という具体的な描写がおもしろいが、この1行も不思議に音が響きあう。「を」の音を軸にして、音が回転する印象がある。音の中に動きがあるので、次の「何ものか投げんとする」がほんとうにものを投げるような、投げられたものがこれから見える--という印象を呼び覚ます。

五二
炎天に花咲く
さるすべり
裸の幹
まがり傾く心
紅の髪差(かみざし)
行く路の
くらがりに迷ふ
旅の笠の中

 この詩の中にも西脇の濁音嗜好が読みとれる。また「まがり」と「くらがり」の、音の響きあいと、イメージもおもしろい。
 「まがる」。直線ではないこと。「くらがり」。明るくはないこと。どちらも否定的なニュアンスがある。それは、濁音と清音の関係にも似ている。
 西脇は、「まがる」「くらがり」「濁音」に一種の共通のものを感じている。それは、直線、明るい、清音というものがもたない「充実感」である。「豊かさ」である。

 濁音が口蓋に響くときの、不思議な充実感が、私はとても好きである。そういう性向が私にあるから、西脇の濁音に目がとまるのかもしれないが……。



名訳詩集 (1967年) (青春の詩集〈外国篇 11〉)

白凰社

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丸山健二『百と八つの流れ星』

2009-07-26 00:56:53 | その他(音楽、小説etc)
丸山健二『百と八つの流れ星』(上)(岩波書店、2009年06月10日発行)

 村上春樹『1Q84』と比べると、とても読みにくい本である。
 活字がまず読みにくい。漢字はいいのだが、ひらがなが普通の明朝体とは違う。なんとうい字体か知らないが、ふにゃっとしている。漢字のストレートな直線と比べると、気持ちが悪い。まず、そういう視覚的な部分でつまずいてしまう。漢字とひらがなのつながり具合につまずいてしまう。
 これは大事なことではないかもしれない。いや、大事なことかもしれない。つまずきながら読む。どうしても、読むスピードは遅くなる。遅くなると、ついつい余分なことを考えてしまう。ことばにそってストーリーを読むというよりも、ひとつひとつのことばにつまずいて、その瞬間瞬間に、あれこれと考えてしまう。
 いま、私が書いている漢字とひらがなの組み合わせ方が気持ちが悪い--ということも、そういう余分なことのひとつかもしれない。
 わかっていても、私は、まず自分が思っていることを書いてしまわないことには、次のことを書けない性格なので、まあ、それを書いてしまう。

 つまずきながら読んでいくと、ストーリーはどうでもよくなる。ストーリーというのは、どんなストーリーにしろ、結局、自分と関係のある部分しか理解できないからである。あるいは、知っていること以外は、何が語られてもさっぱりわからないと思うからである。
 そして、そう考えてしまうと、ではストーリー以外では何がわかるかといえば、やっぱり知っていること以外には何もわからない。知っていて、知っているけれど、まだことばにできない何かに出会うたびに、あ、これは、こういうことだったのだ、と確認するだけなのだと思う。
 ことばは、知っていることを、知っていながら、まだ自分のなかでは明確にことばになっていないことを思い出すためにある。
 これは、小説でも、詩でも、哲学でも同じだ。
 言い換えると、ことばは、こんなことを書いてもいいのだ、ということを知るのだ。ことばは、こんなことを書くためにあるのだ、ということを知るのだ。

 たとえば。
 「相似」という作品。小学校の夏休み。昼寝から覚めて、街へ出る。人とすれちがうが、いつもと感じが違う。ぶつかる、と思ったが、ぶつからない。人が自分のからだをすりぬけていく。あるいは、逆に、自分のからだが他人のからだをすり抜けていく。(どっちがほんとうかわからない。)人だけではなく、ものもすり抜けることができる。そして、自分の声は相手には届かない、聴こえないことを知る。
 そのあとの描写。

店員の掛けている眼鏡に私が映っていなかったのだ。ほかの客の姿はじつに鮮明だったにもかかわらず、真正面にいる私ひとりが抜け落ちていた。狭い店を広く見せるための鏡のなかでも同様だった。帰り道に覗きこむショーウインドーでも私だけが欠けていた。

 自分が透明になって、肉体が透明になって、鏡に映らない。ショーウインドーに映らない。こういうことは、だれでもが描写できる。透明人間の描写には、この手の描写はありきたりである。
 ところが、

店員の掛けている眼鏡に私が映っていなかったのだ。

 この1行に、私はびっくりしてしまう。
 この1行で、確かに、だれかの眼鏡のなかに自分の姿が映っていたのを見たことがある、と思い出す。ほんとうに、自分の姿を見たかどうか、それがいつだったか、ということははっきりしないにもかかわらず、そうなのだ、他人の眼鏡のなかにも、自分が映るということがあるのだ、ということを知る。
 他人の眼のなかに映る--ではなく、他人の眼鏡のなかに映る。
 ことばは、こんなことを書いていいのだ。こんな、つまらない(?)、というか、些細な具体的なことを書いていいのだ。そういう「時間」があることを、書いていいのだ。

 こういう部分が私は大好きだ。こういう部分を読んでいる瞬間、私は、ストーリーを忘れる。村上春樹のことばを借りていえば「物語」を忘れる。
 丸山健二が書いている小学六年生の少女の体験ということを忘れる。忘れて、自分自身の「時間」をそこに見出してしまう。そして、そこから、ああでもない、こうでもないということ、ことばにならないことを瞬間的に思い出す。
 それは、ことばにならない--つまり、まだ、だれも書いていないことが私のなかにあるということを知ることだ。自分が体験してきて知っているにもかかわらず、ことばにならずに、私のなかに存在しているものがあるということを知ることだ。
 そして、それは自分だけの力では見つけられないものなのだ。他人のことばに触れて、はっとする。ことばは、こんなふうに動いていいのだ、と知ることでしか、見つけられない何かである。

 そういう瞬間、私は、「詩を読んだ」という気持ちになる。

 古いページをめくりかえすのが面倒なので、「相似」の次の「初子」という作品をめくる。そうして、私は次の部分に出会う。ころがりこんだ他人の土地、他人の家、そこでなんとなく結婚してしまった男。その男に子供ができる。「ああ、もう、自由ではない」と感じる。そこへ、妻が子供を連れて、病院から家へ帰ってくる。男は子供とはじめて顔をあわせる。子供の涎をガーゼをつかってぬぐってやる。

子どもの体温を感じた途端、まんたくだしぬけに心臓が早鐘を打ち、気持ちが一気にうわずり、凄まじいほどの歓喜に浸り、高揚感に振り回されながら親としての絶対的な特権を自覚する。新生をもたらしたおのれに誇りを感じるや、自己を超えた意図が働き、生命の王座に着いた肉塊をやにわに抱きかかえ、その子が知覚するすべてを無性に共有したくなり、きらめく八月のなかへ出て行く。内心ぎくりとした妻がそのあとにつづく。

 男の内心の変化。心臓の鼓動が早くなる。その瞬間の「だしぬけに」ということばの力と、それにつづく描写もいいが、私は、その文章の最後の、

内心ぎくりとした妻がそのあとにつづく。

 この「内心ぎくりとした」に、あ、これは、私が知っていて、知っているにもかかわらず、ことばにすることができなかったことだったと知る。ことばは、こんなことを書いていいのだ、と知る。
 この描写は、村上春樹のいう「物語」を破壊する。
 なぜなら、私はそのとき、丸山健二の書いている作品のなかの「妻」のことを忘れてしまっていて、そこに書かれている妻ではなく、自分が何かの「予感」に内心ぎくりとしたことや、だれかが何かの予感に打たれて「ぎくり」としている瞬間をみたこことを思い出し、そのときの実感のなかにいるからである。

 「物語」など、どうでもいい。
 ある瞬間、ある衝撃。ことばにできなかった何か。それを、ふいに思い出し、自分ものとして取り戻すためにこそ、ことばはある。そういうことばに出会うために、私は小説を、詩を、哲学を読む。
 「物語」というものに何か役割があるとすれば、それは、そういうことばを受け止めておくための「いれもの」にすぎない。「いれもの」が重要なのではなく、その「いれもの」のなかの、「いれもの」をまるでないものかのようにして、どこかへ(つまり、読者の体験のなかへ)動いていってしまうことばだけが重要なのである。



百と八つの流れ星〈上〉
丸山 健二
岩波書店

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