高橋順子『お遍路』(書肆山田、2009年06月30日発行)
高橋順子『お遍路』はタイトルどおり四国八十八か所を遍路したときのことを書いた作品群である。
「降りみ降らずみ」という詩がある。私は、この詩を何度も読み返した。というより、そのなかにある1行を、何度も何度も何度も、何度繰り返していいかわからないくらい何度も読んだ。
雨ふっている
内海にかかった橋を渡る
散歩の女の人に「おうちはどこ」と聞かれたので
「東京」というと くっと息をのんで
「息子が東京で相撲とっていたき 四人 二人」
というので四人と二人の意味をきこうとしたが
何もいわない
そんなこと他の人が知らなくてもいいのだろう
別れると波の音ばかり
わたしのおうちは
ほんとはどこにあるのかなあ
その家で 夕焼け色をした紅茶を淹(い)れて
どなたかをもてなしたいと思うのだけれど
--第三十六番札所・青龍寺(しゅりゅうじ)付近。
私が何度も読み返したのは「そんなこと他の人が知らなくてもいいのだろう」という1行である。世の中には、知っていることと知らないことがある。また、知らなければならないことと知らなくていいことがある。それを区別するのは難しい。なんといっても、人間というのは好奇心が強いものであるから、ついつい余分なこと(?)まで知ってしまう。余分なことを知っていると、なんだか偉そう(?)でもある。すごい、何でも知っている、と感嘆したりする。
けれど、世の中には「知らなくていいこと」があるのだ。高橋は、この詩集で、あるいは遍路をする(こういう動詞のつかい方が正しいかどうか知らないけれど……)ことで、「知らなくていいこと」があることを発見したのだと思う。
この作品では、そのことを、つまり発見したことを、「発見した」と声高に書いているわけではないが、ふと、そう思った。(ふと、というのは、ゆるぎもなく、ということとほとんど同じである。直感的に、そう思った、という意味である。直感というのは、外れるときは外れるのだけれど、あたっているときは完璧にあたっているという特徴がある。私は、その「完璧」の方を信じて、こうやって感想を書いているのだが……。)
「そんなこと他の人が知らなくてもいいのだろう」の1行のあと、この詩は、前に書いてあることと、無関係なこと(少なくとも、私には、同関係しているのかわからないこと)が書かれている。高橋は、ほんとうのお家で、どなたかをもてなしたいと、ふと思う。そのときの「もてなし」って、何? たぶん、ただ話を聞くのである。話の内容を問い詰めずに、ただ、聞く。その話のなかには、きっと高橋が知らなくてもいいことが含まれている。それを、知らないままの状態で、ただ受け入れる。そういう「受け入れ方」が「もてなす」ということなのだろう。
知らないことを知らないまま、知らない、ということを知る。そこに、なにかしら「いのち」の不思議さがある。それを高橋は「発見」していると思う。
「そんなこと他の人が知らなくてもいいのだろう」という1行を読みながら、私は、そんなふうに考えた。
この詩集には、以前、私が感想を書いた作品もある。「虎杖」。そのなかにも、知っていること、知らないことが書かれている。高橋は「虎杖」をかかえて歩いている女たちに出会う。そして、前神寺はどこ?とたずねる。すると、女たちは「知らない」とこたえる。
「聞いたことはあるけど。わたしら隣りの町から来たので」
と言う
隣りの町の虎杖の在処は知っていても
札所は知らないのだ
それはそうだ
札所が出来るより前に 野に
虎杖は生えてきていたのだもの
この知っている、知らないの対比にも、私はいろいろなことを考えた。(それは、前の感想に書いたので繰り返さない。)ただ、高橋は、知っていることと知らないこと、ということを、「他人」を引き入れながら見つめている、そこに何かを見出しているということだけは、書いておきたい。
自分が知っていること、自分が知らないこと、そして他人が知っていること、知らないこと、あるいは知りたいこと、知らなくてもいいと思っていること、というのが交錯して世の中が出来ていることに、高橋ははっきり気がついたのだと思う。遍路をとおして。
知っていること、知らないこと、知らなければならないこと、知らなくてもいいこと。そういうものがあることを、遍路から帰った高橋ははっきり自覚している。
「この木」という作品。その全行。
お遍路の旅を終えて
家に帰り着いてみたら
燃えるつつじのそばの
沈丁花が立ち枯れていた
挿し木して育て 三度の引っ越しにともなった木だ
二月 出かけるときは
たくさん花芽をつけていたのに
留守をたのんだ叔母に聞くと
三月 花を咲かせなかったという
わたしが階段から落ち 大怪我をしながら
少々の背中の痛みだけで生きてこられたのは
この木が身代わりになってくれたとしか思えない
沈丁花は二月階段から落ちたのだ
生の螺旋階段から黙って落ちていったのだ
沈丁花がほんとうに高橋の身代わりになったのかどうか、私は知らない。多くの人も、そんなことはない、というかもしれない。しかし、高橋は知っている。沈丁花が高橋の身代わりになったということを。それは、高橋には「知らねばならないこと」なのである。それは高橋以外の人にとっては、あ、そう、としかいいようのないことがらだが、高橋には全体に知らねばならないことである。そして、その「知ったこと」のなかに、世の中が、いのちがある。
「降りみ降らずみ」では、高橋は「知らなくてもいい」ことがあることを知った。そして、そのときの「知らなくていい」は高橋が「知らなくていい」と判断するだけではなく、散歩の女の人が「高橋は知らなくていい」という具合に判断しているということでもある。「あなたは、それを知らなくていい」。そういうものもあるのだ。
一方、「この木」のように、他人は知らないかもしれない、聞いても知らないと言い続けるかもしれない(他人は、沈丁花が身代わりになったなんて非科学的、ありえない、と否定しつづけるかもしれない)。けれども、高橋にとっては、「身代わりになったと知る」ことが絶対必要なのだ。そういうものがある。
「知らなくていい」ものがあることを発見することからはじまり、「知らなくてはならない」ものがあることを発見する旅が、高橋にとっての「遍路」なのだと思った。