監督 オリヴィエ・アサイヤス 出演 ジュリエット・ビノシュ、シャルル・ベルリング、ジェレミー・レニエ、エディット・スコブ、ドミニク・レイモン、ヴァレリー・ボヌトン
ラストシーンがとても美しい。
映画は、母親が残した膨大な美術品と郊外の家をという遺産を、子供たち3人(仲がいいわけではない)が、どう引き継ぐかというきわめて現実的な話である。そのままの形で保存したい気持ちもあるが、相続税がたいへんである。3人の内2人はフランスに帰ってくるつもりもない。経済的にも金が必要なので売却したい……。
ラストシーンは、ストーリーそのものとは、無関係のようにも見える。孫のひとりが、売られる前の家に仲間を集めてパーティーを開く。子供たちは、その家の価値、その家と、その周辺の自然で何があったかなど、まったく知らない。それまでの夏休みとはまったく違った時間、ロックをがんがん鳴らし青春を発散する若者たちの時間--そのなかで、孫の少女が、ふっと涙を流す。おばあちゃんの大好きだった場所へきて、あ、ここでこんなふうに思うのはこれが最後だ、と気がつく。失ったものにふいに気がつくのである。そこでセンチメンタにふけると映画はつまらない。少女は、その一瞬の感情をふりきり、少年とふたりで塀を越えて「秘密」の場所へ行く。「秘密の園」へ行く。
あ、いいなあ。
すべては「秘密」なのだ。母が残した膨大な美術品。そこには「秘密」がある。彼女と画家の「秘密」が。そのことは、この映画では声高には語られない。母親に「秘密」があったように、子供たち3人にもそれぞれ「秘密」がある。孫たちにも「秘密」がある。そして、その家の家政婦にも「秘密」がある。この映画には描かれていないが、そこに登場するアールヌーボーの家具や絵それぞれにもきっと「秘密」がある。
「秘密」が人生を豊かにする。
人々があつまり、同じ時間を過ごす--というのは、同時に人間のかかえている「秘密」も集まってきて、同じ時間を過ごすということである。そして、そういう「秘密」はことばでは語られない。明確なことばにはしない。だれも「私にはこういう秘密がある」とは言わない。もし、語るにしても、全員を相手に語るのではなく、集まった人のなかから特定の人を選んで語る。その「秘密」を、たとえば、そのとき人々が取り囲んだテーブルや、絵や、花瓶や、自然の光が「共有」する。そして、私たちが、ひっそりと語られた「秘密」を思い出すことがあるとすれば、それは語られたことばそのものよりも、そのときいっしょにあったテーブル、花、絵を思い出しながら、それを再現する。ここにすわって、このテーブルにひじをつき、このグラスでワインをのみながら……。
ことばでは語られなかった何か、「秘密」を共有したときの「時間」が、そういうものたちのなかにある。
ものが、テーブルが、花瓶が、絵が、窓から見える風景や、庭の光が、もう自分のものではなくなったとき、それは「秘密」そのものが自分のものではなくなったということである。そして、それは、単に「秘密」をなくすというよりも、人生そのものを、人生の充実した時間そのものを手放すことなのである。
--こういうことを、ことばで説明するのは、面倒である。もともと「秘密」自体、ことばで語られていないのだから、それを共有するということをことばで説明するのは、野暮なことである。
映画は、そういう野暮なことはせず、たいへん巧みに人生を描いていく。語られないの「秘密」は語らない。そのかわり、「秘密」が、どんなふうにして壊れ、忘れ去られていくか、そのときの「現実」をていねいに描く。「秘密」の管理(?)をまかされた長男の描写にそれがとてもよくあらわれている。
たとえば、遺産相続問題を話しあうために弁護士のことろへ行く。その直前。車をとめる場所がない。急に路線を変えたりする。すると、後ろの車が怒る。怒られて長男は怒鳴り返す。ストーリーにはまったく関係がない。ハリウッドの映画なら、こういうシーンはないかもしれない。そのシーンがおもしろいのは、「秘密」と無関係だからである。「秘密」と無関係なものが、「秘密」を壊していく。そういう時間が、母が死んだあと、徐々に増えてくるのである。その象徴的なシーンである。
そして、母の「秘密」、母とともにあった「秘密」が徐々に壊れていくのに反比例するように、娘の「秘密」が浮かび上がってくる。娘の問題行動が明るみに出れば出るほど、なつかしい「秘密」が壊れていくのである。母と過ごした「時間」が、とてもなつかしく思えてくるのである。
なつかしい、とは、長男は具体的には言わないが、かわりにオルセー美術館で、「遺品」と対面する。暮らしから切り離され、鑑賞者からも見向きもされない。なぜ、鑑賞者はそれを見向きもしないのか。「秘密」を知らないからだ。それが、どこにあって、どんな会話を聞いてき方を知らないからだ。「秘密」と、他人によっても破壊されていくのである。ただ長男だけが、その美術品が、テーブルが、花瓶が過ごしてきた「時間」、その「時間」のなかにある「秘密」を知っている。そして、あ、こんなふうにして、美術品は「秘密」と無関係な「もの」になっていくのだと、淋しく思うのだ。
そのとき、フラッシュバックのように、ほんの少しだけしか描かれなかったけれど、母と子供たちの、「思い出」がリアルにスクリーンによみがえる。母の家での食事、お喋り、そのときの花、空気、光、そういうものが、スクリーンにふわーっとあらわれる。
これは、フランスでしかありえないような、傑作である。たいへん美しい映画である。
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ジュリエット・ビノシュは、この映画では、私が唯一名前の知っている役者である。ほかの役者は見たことがあるかもしれないが、知らない。そのジュリエット・ビノシュだが、やはりうまい。母が死んだあと、死んだということを思い出すシーン。何もいわず、表情だけが変わっていく。見とれてしまった。他のシーンでも、自己主張せず(?)、全体のなかに溶け込んで行く。なぜ、金髪に染めて出ているのかよくわからないが……。
長男の娘が、父親の質問に、すべて「ちょっとね(un peu)」と応えているのもおもしろかった。若者ことばは、世界同時発生(?)という感じがする。