詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(38)

2009-07-25 07:12:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四八
あの頃のこと
むさし境から調布へぬける道
細長い顔
いぬたで
えのころ草

 最後の2行。これは道ばたに生えていた草の名前だが、こうした草の名前(野生の名前)のなかにある「音」を西脇は大事にしている。そこに音楽を、「淋しさ」を感じている。
 実際に、その草そのものについて書きたいときは、きっと、具体的に書く。ここは、ただその草の名前、その「音」が気に入って、それを楽しんでいる。
 私は西脇の声を知らないし、西脇がどんな発音をしたか知らないが、最後の2行は、奇妙に私のこころをくすぐる。
 新潟(西脇の故郷)では、「い」と「え」の音があいまいである。田中角栄は確か「色鉛筆」を「いろいんぴつ」という風に発音していた。(かすかな、かすかな、かすかな記憶なので、「えろえんぴつ」だったかもしれないが、ようするに、東京弁の「し」と「ひ」のように似ている。)
 西脇がやはり新潟訛りを残していた、あるいは新潟の人が「いぬだて」「えのころ草」と呼ぶのを実際に聞いて、はっと気がつくことがあったとしたらなのだけれど、「いぬ」と「えの」の音はとても似ている。
 また、「いぬころ草」がなまって(?、転嫁して?)「えのころ草」になってともきくけれど、もともと、「いぬ」と「えの」は音が近い。新潟県人にとっては、区別がつきにくいかもしれない。
 そうしたことも、この2行が、風景の描写としてではなく、「音楽」として書かれたものであることを証明すると思う。
西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
新潮社

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松尾真由美『不完全協和音』(4)

2009-07-25 01:41:13 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(4)(思潮社、2009年06月30日発行)

 ことばを増殖させる運動。入沢康夫の「旅するわたし--四谷シモン展に寄せて」と向き合った「旅の記憶、もしくは越境の硬度について」という作品で、松尾は、河津の作品と向き合ったのとはまた違ったことばをひきだしている。
 「おそらく」「まして」「なお」……。

 記憶? おそらくはかすかな衝撃が私を穿っていたのだ。

 「おそらく」がもっとも重要であると私には思える。「おそらく」というとき、松尾は、入沢の書いていることばからなにかを確信したわけではない。また、「かすかな衝撃が私を穿っていた」ということを確信しているわけではない。「おそらく」ということばをつかえば、入沢のことばが書いている「いま」「ここ」ではないどこかへ動いていけるということを確信しているだけなのだ。
 ほんとうに確信していることがあるなら「おそらく」は不要である。事実に基づいて推論するなら「おそらく」は不要である。
 「おそらく」ということばをつかうとき、松尾は、松尾自身の想像力を励ましているのである。それは想像力を、ことばを増殖させるための飛躍台なのだ。「おそらく」によって、「いま」「ここ」を離れ、想像力のなかに突き進み、そのなかで、「まして」と増殖を重ねる。「まして」は「況して」だが、そこには「増して」の意味が含まれる。それに「なお」をさらに重ねる。そのとき、ことばはどこを動いているか。
 「いま」「ここ」ではない。入沢の書いた「いま」「ここ」でもなければ、松尾自身の「いま」「ここ」でもない。ふたりが出会うことで生じた「いま」「ここ」という一期一会の世界でもない。そういうところから離れた場、そういう関係を超越した場を動いていく。
 「なお」はそういう場で登場する。

だが、どこでもない場所ゆえに、どことなくその装置はずれてゆき、天地さえ漂流していて、どこへ行くのか分からない場の混沌を楽しんでいるのか、それとも、この混沌に現実の苦悩が隠されているのか、ひどく曖昧なまま、いくえにも意味をかさね、様式化したごとくの詩形式をかためていって、そこから、茫漠とした世界がひろがり、なお、先へと進んでいきたい。

 「なお、先へと進んでいきたい」--これは、入沢の欲望でもなければ、松尾の欲望でもない。ふたりが出会うことで、出会うことになった、ことばそのものの欲望である。松尾は、そのことばの欲望に、松尾自身の肉体と想像力を提供している。

なお、先へと進んでいきたい。視えないものを視てみたい。出会いたい。触れてみたい。

 これは正確には、「視えないものを視てみたい。出会えないものに出会いたい。触れられないものに触れてみたい。」だろう。不可能性。不可能を欲望するという矛盾。
 こういうことを書き進めるために、松尾は、もうひとつ別のことばを利用する。「いわば」である。

いつまでも希求の旅をつづけ、時間も空間も溶けた逡巡のたおやかな渦のなかで、夢やまぼろしに追いすがる眼差しだけがきらめく。いわば、流れゆくものを流れゆくものとして、去ってゆくものを去ってゆくものとして、いくつもの事象が聖火のごとく眼裏に残されて…………。

 「眼」は「ことば」と書き換えることができる。(私は、「おそらく」とは言わない。)松尾の想像力の旅、「いま」「ここ」から超越する旅は、その運動する「ことば」だけがきらめく。このとき「ことばだけ」というのは、「意味ではなく」ということである。「意味」がきらめくのではない。「意味」など、存在しない。ことばの「運動」、ことばは「動くことができる」ということだけが、可能性としてきらめくのである。その「運動」の裏、軌跡と言い換えてもいいが、そこには「流れゆくものを流れゆくものとして、去ってゆくものを去ってゆくものとして」、つまり、これから先には何の関係もなく、ちらちらと輝きのまま残される。
 「眼裏に残されて………。」と、末尾のことばをあいまいに濁しているのは、こういう運動は、つきつめること、つまり述語を正確にすることとは相いれないからである。
 このことを、松尾は、次のように言いなおしている。

主語も述語も不案内なこの旅の、ひりひりとやわらかい感触が私を覆って、さまざまな生きものたちの性別が混合される。

 「主語」「述語」は無意味になる。重要なのは、「感触」であり、その感触をとおして、すべてのものが、つまり、
 
ふたりで
いやひとりで
もしくは複数の

 の「複数」(そこにはもちろん、「ひとり」と「ふたり」も含まれる)が混合するのである。混沌、無、何にでもなることができる可能性の「場」。そういう世界が出現する。その混沌、カオス、無の「場」まで、ことばは動いていく。動いていくことを激しく欲望する。

不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

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岡井隆『注釈する者』

2009-07-25 00:00:00 | 詩集
岡井隆『注釈する者』(思潮社、2009年07月25日発行)

 岡井隆『注釈する者』は「現代詩手帖」に連載されたものである。連載のときから何度か感想を書いてきた。何と書いたか忘れてしまったが(いいかげんな話だが)、何度読んでもおもしろい。
 「側室の乳房について」は米川千嘉子の「側室の乳房(ちち)つかむまま切られたる妻の手あり われは白米を磨ぐ」という歌がラフカディオ・ハーンの「奇談」にもとづくというので、その「奇談」を読みながらあれこれ考えるという作品である。米川とラフカディオ・ハーンをつないでいるもの、ふたつの作品が共有するものを追いかけていく。
 それを純粋に(?)、文学の中だけで追いかけるのではなく、岡井の日常というか、現実の時間とからめながら追いかけていく。米川、ハーンの文学のことばのなかに岡井の日常が、岡井の肉体が紛れ込む。紛れ込み、その紛れ込んだものをかいくぐって、文学のことばへと、岡井のことばは動く。
 簡単に言い換えると、脱線する。注釈が脱線するのだ。
 脱線するのだが、脱線したあと、ずるっとした感じでもとに戻る。その「ずるっ」とした感じがなんともいえず楽しい。
 この「ずるっ」とした感じ、あるいは「ぬるっ」とした感じというのは、「文学」から、特に「注釈」からは切り捨てられることが多い。なぜなら、「注釈」というのは本来、よくわからないものを丁寧に解説し、分かりやすくするものである。分からないものが「ずるっ」「ぬるっ」と脇道へそれてしまっては、何を言っているのかわからなくなる。「あんたの、あれこれの思いはいいからさあ、さっさと、そこに何が書いてあるのか説明してよ」と言いたくなるかもしれない。そして、実際、「注釈」というものは、そういう個人的な「ずるっ」「ぬるっ」とした脱線を省略し、純粋に(?)、抽象的に、書かれるものなのだ。受験の解説(国語の、とはかぎらないけれど)は、だれのものでもないことば、最初から「共有」されることを前提としたことばで書かれている。
 岡井は、逆に(というと、言い過ぎかもしれないけれど)、教科書的「注釈」が捨ててきたものを紛れ込ませることで、「注釈」を詩にしている。 

 「注釈」に個人的なことを、そのとき、その日々のできごとを加える--そう書いてしまうと、それでおわりなのがだ、実は、「詩」は、そんなに単純ではない。「注釈」ついでに脱線しただけなら、それは詩にならない。

 脱線したときの「文体」が詩なのである。書かれている内容ではなく、書き方--注釈のなかに紛れ込む「日常」の描写の文体が詩なのである。

若い長身の理髪師に白髪を摘(つ)んで貰ひながら乳房を持たない性から見てそれをもつ性の二人が相争ふさまを思つてゐると青年はにこやかに話しかけながらここ数日此の詩を書くために(といふのは嘘だが)凝りに凝つた肩から背中にかけてその長い指でほぐして呉れるのだつたが鏡の中ではたしかに肩ごしにのばされた彼の手がいくたびとなく私の肉体を掴んだのであつた……。

 読点「、」のない長い文章のまま、うねっていく。背中をもんでいる手が、意識の中では胸を(?)つかんでいる--というぐあいに、米川の歌、ハーンの短編のようにねじれている。背中をもまれながら、乳房をつかまれた女の気持ちを想像しているのだが、それが実際に理髪店という現実の場で動くので、奇妙な、なんだか男色の匂いのようなものがまじり、その奇妙・異様な感じが、なぜだか「文学」とつながっていく。
 「文学」というのは、奇妙・異様なことを、日常のことばで語り直したものなのである。逆に、奇妙・異様なことを日常のことばで語りなおす--ということもできるが、まあ、区別はない。奇妙・異様と日常が出会うのが「文学」である。
 なんだか、脱線してしまうが……。
 岡井のことばがおもしろいのは、その脱線のときの文体である--ということに戻ろう。
 岡井の、この読点のない文体は、読点がないにもかかわらず、うねうねとうねっているにもかかわらず、とても読みやすい。読んでいて、すぐに理解できる。理路整然としていない(?)のに、とてもよくわかる。
 なぜなのだろうか。
 岡井のことばは、頭で理路整然と動かされたことばではなく、「肉体」にそって、自然に動かされたことばだからである。そこには「肉体の自然」がある。「理路整然」を放棄した、夏の草いきれがむんむんする野原のような、いのちの力がある。その自然な力が説得力を持っているのである。夏の草いきれが人間を圧倒するように、岡井のもっている「肉体の自然」が私を圧倒するである。
 そして、私はいま、岡井の「肉体の自然」と書いたのだが、そのときの「肉体の自然」とは、ほんとうは、岡井の身体のことではない。岡井が吸収し、蓄積した「日本語の文体・伝統」のことである。繰り返し読み、書き、鍛えられた文体が「肉体」になってしまっている。「日本語」の力、日本語の「文学のいのち」が、私を圧倒するのである。
 くねくね、うねうね、ずるっ、ぬるっ、と乱れながらも、その運動は「ぎくしゃく」ではない。豊かな水が、水自身の重さにしたがって低みへ自然に流れていく--そういう自然なつややかさがある。どこへ流れるかなど、どうでもいい。つややかな輝きをみせて流れればそれでいい。そのつややかさの自然。豊かな自然だかがもつつややかさ。そういうものが、脱線するたびに、静かに光るのである。

 この自然を、岡井は、この作品の中で、別のことばで書いている。私は記憶力が悪いので間違っているかもしれないが、岡井は「注釈」の連載の中で、1回だけ、「手の内」をみせている。岡井の日本語のいのち、力の源泉について、岡井のことばをつややかにしている力について、1回だけ語っている。
 「側室の乳房」のほぼ終わりの方。

そして治療のために呼ばれたオランダ人の外科医は、雪子を助けるためには両手を死体から手首のところで切断する外はないと言ひその通りにしたのであつたが古い伝統の和歌の手のひらはそんなことで死に絶えることはない。黒くて硬いその手は毎夜丑の時が来ると「大きな灰色の蜘蛛のやうに」、若い外来種の詩の乳房を寅の刻まで「締めつけ責めさいなむのである。」とこの帰化したアイルランド人は語るのであつた。雪子が尼になつて奥方の供養をして歩く結末はどうでもよいように思はれ、私は深夜の三鷹駅頭でバスを待つた。

 「古い伝統の和歌の手のひら」。語り継がれ、古典となった和歌のなかにあることば。それは死なない。肉体は死んでも、ことばは死なない。ことばだけが生き延びる。岡井は、そのことを「肉体」として知っている。そして、その「和歌の手のひら」は「大きな灰色の蜘蛛」になったように、形をかえながら生き延びていく。たぶん、それは人から人へ、語り継がれるたびに形をかえる。ここでは「大きな灰色の蜘蛛」と書かれているが、あるときは「黒い蜘蛛」かもしれない。あるときは「むらさきの蛸」かもしれない。「和歌の手のひら」とは、何かを語ろうとする「日本語」のことである。何かを語ろうとすれば、かならず、その対象を歪めてしまう。手のひらは、蜘蛛になるように。そして、手のひらを蜘蛛と語るとき、その蜘蛛によせた思いというものがある。妻への同情か。側室への嫉妬か。そういうもの、人間の感情・情念が、「手のひら」を歪め、「蜘蛛」にする。そういう語ることの「伝統」が「和歌」のなかにあり、そして、いまも日本語全体のなかに生きている。
 語り継がれ、そこで鍛えられた日本語の力--岡井のことばの魅力はそこにある。ことばの「根っこ」が深いのである。ことばの水源の水圧が高いのである。だから、ごとへでも自然に動いていく。つややかである。「理路整然」がくずれる(?)たびに、つややかに光る。その水量の豊かさをみせる。どんなに脱線しても、つややかに流れていくという力をみせる。


注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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