詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

関口フサ『風の祭り』

2009-07-11 11:53:10 | 詩集
関口フサ『風の祭り』(あざみ書房、2009年06月30日発行)

 関口フサ『風の祭り』。「春の雪」の1連目。

春の雪が降る
街はやわらかな冠の下でざわめいている
芽吹きの木々が息を潜めている
明るい光の下で
雪は最後の力を出して降る
車が雪を踏みつぶし
三角につぶれた雪はやわらかな悲鳴をあげる

 雪の擬人化が、特に「雪は最後の力を出して降る」がいい。はっとする輝きがある。「最後の力」と言われて、それが具体的になにを指すのかわからないのだけれど(雪として結晶する力なのか、雨にならないようにする力なのか、などなど)、たしかに最後の力なのだと思う。あすからは、違ったものになる。「雪はやわらかな悲鳴をあげる」もいい。この「やわらかな」は「最後の力」のなかにある「やわらかな」ものである。「力」とは強いものだが、「強さ」とは固いものばかりではない。「やわらかく」あることが「強い」ということもある。「やわらかな」悲鳴であるからこそ、耳にとどく。耳の奥、鼓膜を越えて、「肉体」のないぶにとどく。

 「秋」という作品の2連目にも楽しい擬人化が出てくる。

高い塔の上に
すみきった耳が大きくはえ
どこかで木の葉の落ちる音がする

 すみきった落ち葉の音--それを聞きとるのは、「すみきった耳」である。「やわらかな」に通じる「肉体感覚」がいい。静かな声と共鳴する「肉体感覚」が、関口の「擬人化・詩」を支えている。





化石―詩集 1984 (1984年)
関口 フサ
あざみ書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(25)

2009-07-11 07:47:15 | 詩集
 
 『旅人かへらず』のつづき。

一四
暮れるともなく暮れる
心の春

一五
行く道のかすかなる
鶯の音

一六
ひすいの情念
女の世(よ)のかすむ

一七
珊瑚の玉に
秋の日の暮れる

 春から秋への動き。そのなかで響きあう「の」の音。
 「女の世のかすむ」は「女の世がかすむ」「女の世はかすむ」だと、まったくおもしろくない。「おんなのよの」だから口蓋の感覚が気持ちがいい。
 全体の(といっても、この連のかたりまのことだが)、「か行」と「さ行」の交錯も楽しい。

 鶯の音。

 これは、しかし、どう読もうか。私は無意識に「うぐいすのおと」と読んでしまうけれど、「うぐいすの・ね」だろうか。私が「うぐいすのおと」と読んでしまうのは、無意識に「うぐいすの・こえ」の「こえ」の2音節に反応しているのかもしれない。
 こういう「わからない音」があるのも、私にとっては楽しい。ある日突然、あ、あれは「おと」でも「ね」でもなく、「おん」だったと気がつくかもしれない。
 「珊瑚の玉」も私は「さんご・の・ぎょく」と読むけれど、「さんご・の・たま」かもしれない。




西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
新潮社

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木村大作監督・撮影「剣岳 点の記」(★★)

2009-07-11 00:40:44 | 映画
監督・撮影 木村大作 出演 浅野忠信、香川照之

 この映画は、映像は大変美しい。けれど、音(音楽、台詞)がとてつもなくつまらない。映像の美しさを音楽が完全に破壊している。美しい自然はそれだけで音楽を持っている。わざわざ音楽を重ねられるとうるさくて見ていられない。バックグラウンドの音楽がなければ、★5個の映画である。音楽がうるさいので、私は★3個減点した。
 台詞も、非常にむだが多い。台詞がなければいいシーンなのに、台詞が映像を叩き壊している。たとえば、浅野忠信が宮崎あおいがそっとリュックのなかに入れてくれたお守りに気がつくシーン。手にとって、ただながめれば美しいシーンなのに「いつのまに」という台詞がかぶさる。そんな台詞など、言わなくてもわかる。ことばではなく、顔で「いつのまに」ということを表現するのが俳優だろう。だいたい、そんな独り言を口に出していうというのは、それまでの寡黙な浅野忠信のキャラクターに反している。
 最後の手旗信号のシーンも同じである。手旗信号を、いったい、だれが読めないのか。観客だけである。(香川照之ら、地元の何人かが読めない、というのは除外していい。)信号を送っている中村トオルのチームも、浅野忠信も解読できる。解読できるからこそ、その手旗信号に対して、松田龍平は手旗信号でこたえる。それを観客のために、わざわざ「ことば」に翻訳し、しかも声に出す。台詞にする。ぎょっとしてしまう。
 音楽が必要なのは、映画においては、このようなシーンなのに、その大切なときに音楽がない。音楽と、1文字1文字の、手旗信号にあわせた速度の字幕があれば、とても感動するはずである。ことばで言われても、ばかばかしくて見ていられない。台詞、声で、そんなやりとりを聴きたくはない。しらけてしまう。
 ほかにも、土砂降りの雨(みぞれ?)のなかで手紙を読むシーンなど、なぜ、そんなところで? というようなばかばかしいシーンもあるが、そこには台詞がないだけいくぶん救いがある。
 カメラマンはカメラマンだけやっていた方がはるかに「功績」が残せたのに、監督までやってしまったために、音楽(音)の感覚がいかに欠如しているかということを、木村大作は露呈してしまった。ある意味で、とてもかわいそうな(木村大作が、かわいそう、という意味である)映画である。だれか、音楽のつかい方が間違っているよ、と注意してやれなかったのだろうか。

 映画を別の角度から見ると……。
 あの、香川照之でさえ、最後は集中力を失っている。最後に、浅野忠信に初登頂をゆずるときの台詞回しなど、ほとんど棒読みに近い。実際に山登りに疲れ切って、「富山人」を演じきれていない。
 それはそれで、たいへんおもしろい。あ、この映画は、役者にとってとても過酷だったんだ。山を登るのに疲れ切って、台詞どころじゃなくなったのだ。撮影する方も、予定通りのシーンがとれた(台本どおりの台詞を役者が言うのをきちんととれた)ということに満足してしまっている。この、不思議な疲労感というのは、私は、実はとても気に入っている。その疲労感こそ、美しい映像を超えて、伝わってくる真実だからである。わーっ、たいへんな映画なのだ、と思えるからである。
 それなのに、それなのに。
 ほんとうにくだらないバックグラウンドの音楽と、つまらない台詞。まるで、観客は、そこに「音」が存在しないと、「音」を聞きとれないと見下しているような音楽の数々。色の変化、光の変化、自然の美しい映像に「音楽」を感じられない観客がいたとしても、そういう観客には、たとえどんな「音楽」を流しても映像から音楽を感じさせたことにはならない。映像そのものに音楽がある。もしバックグラウンドに音をつけるとしても、それは最小限の音でいい。「曲」にならなくていい。

 音楽を消してしまって、台詞も、本の少しだけサイレントムービーのように「字幕」でみせるように再編集すれば、この映画は傑作になるかもしれない。



劒岳―点の記 (文春文庫 (に1-34))
新田 次郎
文芸春秋

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