『あむばるわりあ』は『Ambarvala 』の再版である。「あとがき」の最後に、西脇は書いている。
この詩を今読んでみると自分の心境が移りかはつたことがわかる。それで再版に際して、残念ながら、その荒々しい言葉使ひ、その乱暴にも不明にされてゐる点を訂正するのであつた。また順序も整頓しようとした。またその数十行を切り取り、また数十行を新たに加へた点もあつた。
私は、この「訂正」が気に食わない。「荒々しい言葉使ひ」が消えた点が気に食わない。「荒々しさ」に魅力を感じていたからである。「荒々しさ」は「関係」を破壊する力である。
詩について「あとがき」(詩情)で、西脇は書いている。
一定の関係のもとに定まれる経験の世界である人生の関係の組織を切断したり、位置を転換したり、また関係を構成してゐる要素の或るものを取去つたり、また新しい要素を加へることによりて、この経験世界に一大変化を与へるのである。そのとき人生の経験の世界が破壊されることになる。
この「破壊」こそ、詩である。そして、その「破壊」は、わざと(詩にしようとして)引き起こす「破壊」である。そして、それが「破壊」であるなら、それは「荒々しい」ものであることが、私には必然に思える。
--というのは、私の「好み」である。
しかし、西脇は「破壊」以上のものを書きたかった。
詩やその他一般芸術品のよくできたか失敗したかを判断する時、その中に何かしら神秘的な「淋しさ」の程度でその価値を定める。淋しいものは美しい、美しいものは淋しい、といふことになる。
「淋しい」は次のように言い換えられている。
人間は土の上で生命を得て土の上で死ぬ「もの」である。だが人間には永遠といふ淋しい気持ちの無限を感じる力がある。
このいたましい淋しい人間の現実に立つて詩の世界をつくらないと、その詩が単なる思想であり、空虚になる。
破壊から生まれる淋しさ--それを西脇は書きたかった。そしてそのためには「荒々しい」だけではだめである、と西脇は考えた。
なぜ、だめなのか。
「荒々しい」ものは「死」を知らないからである。「死」という絶対を知らないからである。
「破壊」するものは(力は)「荒々しい」。「荒々しさ」がないと、何かを破壊することはできないだろう。破壊する力が「いのち」であり、「破壊された」ものは「いのちを失う」、つまり「死」にいたる。「死」がみえた瞬間に「詩」があらわれる。
そういうものを、西脇は、わざと作り上げる。
これを、人間の認識そのものにあてはめて書き直すと、「認識」(ものともの、存在と存在の関係)を破壊する時、--あるいは破壊された時、と言い直すべきなのか、そこに「詩」がみえる。それは「死」を前提としている。
「詩」の誕生には「死」が不可欠である。そこでは「死」と「生」(詩の誕生)が結びついている。死と生のむすびつき--これは矛盾である。矛盾しているからこそ、そこに「真実」があるのだが、この矛盾しているという認識こそ「淋しさ」である。
「淋しさ」は『Ambarvala 』にも登場するが、『あむばるわりあ』で、西脇は、自覚的に「淋しさ」を発見した--つまり、つくりだすことを詩の仕事と自覚したということになる。
「あの日の物語」(「紙芝居」の改訂版)の「結句」(「紙芝居」にはなかった)。
このたはごとの
淋しき
秋の日の思ひ
蜻蛉の影も
やがては暮るる
蜻蛉のゐなくなる無限に
さびれ行く心の
淋しき
「淋しき」ものは、「存在」ではなく、「運動」である。「さびれ行く」の「行く」。動いていくもの。力。運動には必ず「作用」と「反作用」がある。運動のなかには「矛盾」がある。
西脇は「淋しさ」の方向へ、動いていくのである。
西脇順三郎、永遠に舌を濡らして (Le livre de luciole (40))中村 鉄太郎書肆山田このアイテムの詳細を見る |