詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(17)

2009-07-03 10:13:47 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『あむばるわりあ』は『Ambarvala 』の再版である。「あとがき」の最後に、西脇は書いている。

 この詩を今読んでみると自分の心境が移りかはつたことがわかる。それで再版に際して、残念ながら、その荒々しい言葉使ひ、その乱暴にも不明にされてゐる点を訂正するのであつた。また順序も整頓しようとした。またその数十行を切り取り、また数十行を新たに加へた点もあつた。

 私は、この「訂正」が気に食わない。「荒々しい言葉使ひ」が消えた点が気に食わない。「荒々しさ」に魅力を感じていたからである。「荒々しさ」は「関係」を破壊する力である。

 詩について「あとがき」(詩情)で、西脇は書いている。

一定の関係のもとに定まれる経験の世界である人生の関係の組織を切断したり、位置を転換したり、また関係を構成してゐる要素の或るものを取去つたり、また新しい要素を加へることによりて、この経験世界に一大変化を与へるのである。そのとき人生の経験の世界が破壊されることになる。

 この「破壊」こそ、詩である。そして、その「破壊」は、わざと(詩にしようとして)引き起こす「破壊」である。そして、それが「破壊」であるなら、それは「荒々しい」ものであることが、私には必然に思える。
 --というのは、私の「好み」である。
 しかし、西脇は「破壊」以上のものを書きたかった。

詩やその他一般芸術品のよくできたか失敗したかを判断する時、その中に何かしら神秘的な「淋しさ」の程度でその価値を定める。淋しいものは美しい、美しいものは淋しい、といふことになる。

 「淋しい」は次のように言い換えられている。

 人間は土の上で生命を得て土の上で死ぬ「もの」である。だが人間には永遠といふ淋しい気持ちの無限を感じる力がある。
 このいたましい淋しい人間の現実に立つて詩の世界をつくらないと、その詩が単なる思想であり、空虚になる。

 破壊から生まれる淋しさ--それを西脇は書きたかった。そしてそのためには「荒々しい」だけではだめである、と西脇は考えた。 
 なぜ、だめなのか。
 「荒々しい」ものは「死」を知らないからである。「死」という絶対を知らないからである。

 「破壊」するものは(力は)「荒々しい」。「荒々しさ」がないと、何かを破壊することはできないだろう。破壊する力が「いのち」であり、「破壊された」ものは「いのちを失う」、つまり「死」にいたる。「死」がみえた瞬間に「詩」があらわれる。
 そういうものを、西脇は、わざと作り上げる。
 これを、人間の認識そのものにあてはめて書き直すと、「認識」(ものともの、存在と存在の関係)を破壊する時、--あるいは破壊された時、と言い直すべきなのか、そこに「詩」がみえる。それは「死」を前提としている。
 「詩」の誕生には「死」が不可欠である。そこでは「死」と「生」(詩の誕生)が結びついている。死と生のむすびつき--これは矛盾である。矛盾しているからこそ、そこに「真実」があるのだが、この矛盾しているという認識こそ「淋しさ」である。

 「淋しさ」は『Ambarvala 』にも登場するが、『あむばるわりあ』で、西脇は、自覚的に「淋しさ」を発見した--つまり、つくりだすことを詩の仕事と自覚したということになる。
 「あの日の物語」(「紙芝居」の改訂版)の「結句」(「紙芝居」にはなかった)。

このたはごとの
淋しき
秋の日の思ひ
蜻蛉の影も
やがては暮るる
蜻蛉のゐなくなる無限に
さびれ行く心の
淋しき

 「淋しき」ものは、「存在」ではなく、「運動」である。「さびれ行く」の「行く」。動いていくもの。力。運動には必ず「作用」と「反作用」がある。運動のなかには「矛盾」がある。
 西脇は「淋しさ」の方向へ、動いていくのである。

西脇順三郎、永遠に舌を濡らして (Le livre de luciole (40))
中村 鉄太郎
書肆山田

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清野雅巳「武勇」、細見和之「困ったときの瀬戸内寂聴」

2009-07-03 01:04:08 | 詩(雑誌・同人誌)
清野雅巳「武勇」、細見和之「困ったときの瀬戸内寂聴」(「紙子」17、2009年06月20日発行)

 清野雅巳「武勇」は、ことばの動きがすっきりしている。

 やくざ者なのか不良学生だったのかは定かではないが、昔、Sという人物がいて地元で語り草になっていた。この男はK崎にあるレストランで他のやくざといさかいを起こして越しにナイフを刺されたが、それを抜くことなく素手で相手をぶちのめしたといのうだ。ぼくの田舎はおおむね平穏なところだけれども、時どき何のまえぶれもなく暴力のうわさが広がることがあった。またそういうときに限って、時を経てわすれられたようよ見えても、ふとした拍子に人の口にのぼるのだった。

 ぼくもそのようにして、父からこの話を聞いたのだが。

 ことばの動きがすっきりしている--と書いたら、あとは感想を書くようなこともないのだが、この作品が私はとても好きだ。忘れていたものが、ふっと、浮いてくる。それは余分な装飾をもたず、最小限のものだけをひきつれて浮かび上がってくる。
 そういう印象が、とてもいい。
 たぶん、私は、そういうときの「最小限」の部分に共鳴しているのだと思う。書かれている「内容」ではなく、「最小限」のことば、その「最小限」というものに、清野の「思想」を感じ、それに共鳴している。
 「最小限」のものは、あらゆるものに入っていくことができる。
 まわりで、いろんな暴力ざたが起きる。それは、それぞれに違っているはずである。違っているのだけれど、その暴力のなかには、何か共通するものがある。「最小限」の共通項。最大公約数・最少公倍数。その、ふたつの運動を行き来するような何か。

 1行だけ、ぽつんと放り出されている行。

 ぼくもそのようにして、父からこの話を聞いたのだが。

 「聞いた」が、もしかすると、この詩の一番いい部分なのかもしれない。「聞く」とき、何かがこぼれ落ちていく。そしてシンプルになる。その、最後に残ったもっもとシンプルなものがここにある。
 それは「内容」ではない。「事実」ではない。
 それは「聞いた」ことというより、「伝えていく」という「運動」である。
 「聞く」、「聞いたことを伝える」、そのとき、ひとはついつい何かをつけくわえ、同時に何かを省略するかもしれない。それが繰り返されると、何か透明なものが残る。聞いて伝えるという「運動」そのものが残る。
 その「運動」に触れたような楽しさを感じた。

 ちょっとボルヘスを思い出したのだが、ボルヘスのおもしろさは、「内容」ではなく、何かを聞いてきて(取材してきて)、それを簡単に語り直すという「運動」にある。もっとも効率的、印象的に語り直す。
 ことばとは、語り直すためにある--ということを思い出させてくれる。それがボルヘスである。あることを「語る」ではなく、「語り直す」。「事実・事件」ではなく、「事実・事件」として語られたことを、「語り直す」。どれだけ不純物を交えずに「語り直す」ことができるか。それを追いつづけたのがボルヘスだと思うが、そのことばの「運動」に似たものを感じた。



 細見和之「困ったときの瀬戸内寂聴」は入院している母に頼まれて瀬戸内寂聴の本を探しに行ったときのことを書いている。
 この作品は、清野の作品の対極にある。
 「語る」ということは逸脱していくということである。「語り直す」ということが「収斂」だとすれば、「語る」は逸脱である。

店の主人にもっと薄い小説はないか訪ねると、晴美名の『花火』という作品を探し出してくれた。帯には「めくるめく性愛の深淵をえがく」と書いてある。七一歳の病床の母親にとうてい手渡せるものではない。店主に事情を説明すると、今度は『寂聴 観音経』という本を見つけてくれた。まだそういう段階では、と口を噤むと、店主も苦笑している。

 どこまでが「ほんとう」のことかわからない。「ほんとう」であるかもしれないし、「うそ」かもしれない。どっちにしろ、それは「語らなければならない」ことがらではない。どうでもいい。その「どうでもいい」ことを「わざと」書いている。わざと書くことで、詩が生まれる。
 「わざと」書いているという意識に注目すると、最後の「オチ」がとてもよくわかる。

 母は多少文学好きではあっても、本格的な愛書家というのにはほど遠く、まして創作などは思いもよらない。幼いときから聞かされてきた母の「夢」のひとつは、朝日新聞の「ひととき」欄に投書することだった。文章を書くのが苦手だし、だいいち自分の思いを他人に読まれるなど、恥ずかしくてたまらないのだろう。そのころの母の言葉が最近重く胸にこたえて仕方がない。
 
 細見の書いているのは「創作」? 「自分の思い」? もし、恥ずかしさがあるとしたら、どんなかたち? 細見は読者にそれを創造させるだけである。その先を、だれか「創作」してみる? 

 この「意地悪」、頭のよさが生み出すトリックが細見のことばの楽しさだろう。

ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む―言葉と語りえぬもの
細見 和之
岩波書店

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