詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(28)

2009-07-15 11:34:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

二七
古のちぎり
けいとうの花に
雨が降る頃
いくつかの古庭をすぎ
くさりかけた寺の門をくぐつて
都に近づいてきた

 「けいとうの花に」の「けいとう」に美しさを感じる。いや、「雨が降る頃」に、美しさを感じるのかもしれない。区別がつかない。区別がつかないが、「けいとう」が重要なのだとわかる。夏のおわり、秋のはじめの季節の変化が美しいのはもちろんなのだが、「けいとう」という音が、この作品では、とても印象に残る。
 「けいとう」は、声に出すと「けえとお」「ケートー」である。そののばした音の、長音のリズムと、「あめがふるころ」の「子音」の短さ。特に「ふる」の「ふ」、「ころ」の「こ」の、F、Kの短さが(その結果、「ふ」「こ」の音自体が短くなるけれど)、長音のリズムと対照的で、とても美しい。
 「けいとう」ののんびりした(?)リズムは、「いくつかの」「くさりかけた」ということばにも引き継がれている。影響している。ことばの描く「絵」の変化の奥で、ことばの「音楽」は変化というより、共鳴している。

二八
学問もやれず
絵もかけず
鎌倉の奥
釈迦堂の坂道を歩く
淋しい夏を過ごした
あの岩のトンネルの中で
石地蔵の頭をひろつたり
草を摘んだり
トンネルの近くで
下から
うなぎを追つて来た二人の男に
あつたこんな山の上で

 「あの岩のトンネルの中で」の「あの」は不思議なことばである。「あの」と書かれてはいるが、西脇の差し示す「あの」が「どの」なのかわからない。ここには、つまり、「意味」はない。
 西脇は「あの」が「どの」なのか正確に伝えたかったわけではない。
 この行では「あの」の「の」が美しい。西脇は「の」を多用するが、それは音にリズムをつくりだしている。「鎌倉の奥」から「の」がはじまり「あの岩のトンネルの中で」という行で3回繰り返される。このリズムが好きだ。
 最後の3行のリズムががらりと変わるのもおもしろい。
 「下から」という、それだけではなにを書いてあるのかわからない短いことばで場面を一気に変えるのだが、そこに「音」の、リズムの変化がある。それが「うなぎを追つて来た二人の男に/あつたこんな山の上で」という乱調の行渡りという形を生み出す。乱調の、というのは学校文法にとって乱調のという意味である。(学校文法では「うなぎを追つて来た二人の男にあつた/こんな山の上で」という倒置法になるだろう。)
 「乱調」が、西脇のおどろきをくっきりと浮かび上がらせ、そこに、「淋しさ」を私は感じる。
 5行目の「淋しい夏を過ごした」の「淋しい」は、この乱調の美を指して言っているのだと思う。
詩論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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宮田浩介『Current 』(2)

2009-07-15 00:07:50 | 詩集
宮田浩介『Current 』(2)(思潮社、2009年06月10日発行)

 宮田のことばの音の美しさ。どう説明していいのかわからないけれど、日本語の音をひきずっていない美しさがある。隣に英語があるからそう感じるのかもしれないが、文脈が日本語と違う。文脈というのは「意味」だけではなく、「音」にもあるのだと思う。日本の演歌、あるいはポップスとジャズの音が違うように、音には音の文脈(?)というものがあって、その音の文脈が違うのかもしれない。
 「Current 」のⅡの部分。

だが海はいつも静かだ。瞼のように波は
陸へ下りてきて、キスがすむと
また持ち上がってく。

 「持ち上がっていく」ではなく「持ち上がってく」。1音短い。--と、とっさに、というか、私の肉体は、そこで唐突にそんなことを思う。宮田が七五調で書いているとか、定型で書いているとか、そんなことはないのに、なぜか、そう感じる。「また持ち上がってく」なら1音多いのだが、その1音多い、1音少ないという私の意識と宮田の音が出会って、その瞬間、私は「異質」なものを感じ、それを「醜い」ではなく「美しい」と感じる。
 これは、これ以上、どう書いていいかわからない。私の書いていることが、他の読者と共有できる感覚なのかどうかもわからない。(私が不勉強なのかもしれないが、詩の感想で、音についての感想を、あまり読んだ記憶がない。)

子どもたちはいまクロールの手つき、差異を生む才能を
掘り出して進む--せっせと砂をかき出して
浜に水を呼び込み、壁を築き
水流をせき止めて、水が溢れだすたびに、また新しい壁--

 砂遊び、城か何かをつくっている子どもたちの描写かもしれない。ことばの関節が、どこか「日本語」と違う。文脈が違う。そこに新鮮さがあり、それが「音」として響いてくるのだろうか。「差異を生む才能を/掘り出して進む」に、不思議な「音」を感じる。一種の「翻訳」文体がつくりだす「音」かもしれない。
 そういう明らかに「異質」を文体、文脈とは別に、この部分で、私はぐいと引き込まれた「音」がある。

子どもたちはいまクロールの手つき

 このひとつづきのことばのなかの「いま」。これが不思議なのだ。あ、「いま」ということばは、こんなふうにつかうのだ。そうすると、こんなに輝くのだと思った。
 「いま」につづく一連の動詞。子どもたちの動き。それは、その動き動きの瞬間「いま」なのだ。
 「いま、子供たちはクロールの手つき」だったら、私は、たぶん興奮しなかった。「音」をうるさく感じたかもしれない。「子どもたちはいまクロールの手つき」の「いま」は私の感覚では、「音」が埋没している。あるかないか、わからない。とても小さい。そして、それが微小であることによって、すべての行為・行動が、その一点に凝縮し、それからその一点から爆発的に拡散していく感じがする。(宮田は、「せき止めて」「溢れだす」という表現をつかっているが……。)
 「いま」という音に、そういう凝縮と拡散する力を感じのである。

Current
宮田 浩介
思潮社

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