詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スパイク・リー監督「セントアンナの奇跡」(★★★)

2009-07-29 12:14:08 | 映画
監督 スパイク・リー 出演 デレク・ルーク、マイケル・イーリー、ラズ・アロンソ

 第二次世界大戦のイタリア・トスカーナ。アフリカ系アメリカ人が奮闘している。そこであったドイツ兵による大虐殺と、その大虐殺を生き延びた奇跡の米兵、そしてイタリアの幼い子供。
 映画は、その奇跡をとても手際よく描いている。スパイク・リーは「ファンタジー映画」と呼んでいるらしい。たしかにファンタジーである。そしてファンタジーであるからこそ不満が残った。
 なぜアフリカ系の軍人が養成されたのか。イタリアへ派遣されたのか。そのとき、彼らに対する「差別」はどんな状態だったか。映画ではそういうスパイク・リーのこれまで描き続けてきた問題も描かれはするが、追及の度合いが弱い。
 そのかわりイタリアの村人とアフリカ系米兵との、とりわけ少年との交流があたたかく描かれる。少し「汚れなき悪戯」(パン・イ・ビノ)のような味わいもある。少年が米兵に神(伝説の偉人)を見るだけではなく、米兵も少年に神をみる、という点が「汚れなき悪戯」より、相互関係があっておもしろいのだが。
たぶんスパイク・リーは「相互関係」というか、どこにでも善と悪、正義と不正がある、という相関関係を描きたかったのかもしれない。
 ドイツ兵のすべてが無慈悲なわけではない。パルチザンのすべてが正義の戦いをしているわけではない。米兵が全員一致団結しているわけでもない。裏切りも、恋のさや当てもある。どんなとき、どんなところでも、人間のこころはおなじように動く。
 だからこそ正直なこころが触れ合うと、それがとても美しく輝く。少年に十字架をお守りとして渡すシーン、彫刻の頭部を大事に引き継ぐシーンなど、信仰心のない私でさえ、「どうぞ、2人を守ってください」と祈りたい気持ちになる。
 トスカーナの自然の美しさ、特に山の美しさ、つましく暮らす村の生活、石畳の美しさ、壁や扉の美しさ――そして、無造作(?)にわけあうパンの実質的な美しさが、素朴な信仰(信仰というより、祈り、かな?)としっくりとなじむ。



 本筋とは違うのかもしれないが、ドイツ兵とアメリカ兵が入り乱れる戦場に響きわたる「東京ローズ」風の、女性の倦怠感あふれる呼びかけ、それに苛立つ兵士――という映像が、不思議に清潔感があって、おもしろかった。スパイク・リーは何を撮っても清潔な映像になる。これは、彼の長所だと思う。




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誰も書かなかった西脇順三郎(42)

2009-07-29 09:16:56 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六二
心は乱れ
山の中に
赤土の岸の上
松かさのころぶ

 「の」の連続。その音の響き。最終行は「松かさがころぶ」の方が現代的かもしれない。けれど、西脇は「の」をえらぶ。
 「松かさ」は「松毬」あるいは「松笠」。「松毬」の方が、転がるというイメージが視覚から直接的に脳を刺戟するかもしれない。しかし西脇は「松かさ」と書く。「かさ」の方が、転がるときの乾いた音、「かさかさ」を呼び起こし、耳を刺戟するからだろう。
 西脇の音には発声器官に快感を引き起こすものと、聴覚に快感を呼ぶものがある。
 ところで、「松かさ」には「松ふぐり」という言い方もある。西脇が「松ふぐり」ということばをつかっているかどうか、思い出せないが、「松ふぐり」ということばをつかったら、詩は、どんな展開をするだろう。
 そんなことを、ふと考えた。西脇の詩には、土俗的なというか、土にしっかり根ざしたことば、たとえば野生の草花の名前(音)がたくさん出てくるので、私の連想が土に向かったのかもしれない。

六三
地獄の業をなす男の
黒き毛のふさふさと額に垂れ
夢みる雨にあびしく待つ
古の荒神の春は茗荷の畑に

 「の」の連続。1行目の「業をなす男の」の「の」は「が」だろうけれど、西脇は「の」にこだわる。
 最終行の「茗荷」の「みょうが(みょーが)」という音の泥臭さが刺戟的である。
 ふと、何気なく、「泥臭い」と書いてしまったが、濁音や長音、促音、音便というのは、泥臭いものかもしれない。どの音も、歴史的仮名遣い(ひらがな)のではつかわれない。(あ、「ん」はつかわれるか……。)
 西脇は、ひとの「肉体」から出てくる音としてのことばが好きなのだろうと思う。肉体から出て、肉体へ還っていく音としてのことば。濁音や長音、促音、音--その変化のなかに音楽がある。


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山本博道『ボイシャキ・メラ』

2009-07-29 02:49:46 | 詩集
山本博道『ボイシャキ・メラ』(書肆山田、2009年07月15日発行)

 旅の詩集である。その詩は「観光案内」とは違って、きちんと現実を描いている。「タージ・マハルの風」は、タージ・マハルの成立を描いたあと、豪華な墓とは対照的な人間の暮らしを描いている。

豪華絢爛なタージ・マハルを前にすると
ゆがんだ富と力ばかりが浮かんで来た
カタコトの英語をしゃべる男が
写真を撮ってやると付き纏って来て
千円ではなくてもう千円くれと言った
ぼくのサンダルにカバーを被せた老人は
皺くちゃの十ルピー札をすばやくしまった
亡き妻への深い皇帝の愛のおかげで
そうして世界遺産の回りでは
三百五十三年後のひとびとが
いろいろなおこぼれに与っている

 たぶん 350年後のいまだけではなく、 350年前の時代にも、同じように富の周りに貧しいひとびとがいて、「おこぼれ」を与っていたことだろう。時代がかわっても、かわらなくても、かわらないものがある。
 そういうことを感じさせることばは、それ自体として、過不足もなく、きちんとしている。
 「旧王宮広場の朝」はネパールの「ダルバール広場」を描いている。そこに次の行がある。

ふつうにみんなが極端な話
何百年も変わらずに暮らしていた

あるいは、

そんなふうにして
いのちは続いて来たのである

 「そんなふうに」とは「何百年も変わらずに」ということである。
 それはそれでいいのだろう。
 ただ、私は、読み進むにしたがって、だんだん気が遠くなってきた。いくつもの有名な場所が描かれるのだが、だんだん区別がつかなくなってくる。おなじに見えてくる。どこの場所でも「何百年も変わらずに」暮らしが続いているのだから、それはあたりまえのことなのかもしれない。
 しかし、そうなのかなあ。
 少しずつでもいいから、人間は変わっていくものなのではないのかなあ。せっかく旅をしているのだから、旅をすることで変わってほしいなあ、と思う。
 「何百年も変わらずに」ある暮らしであっても、それを見る方の山本自身が変わってほしいと思うのだ。

 「夕暮れの車窓」には、一瞬だけ、その変化のようなものがあった。

ホテルにはセーフティボックスも
ミニバーもリンゴもなく
バスタブの湯はガンジス川のように
茶色く濁っていたけれど
朝は窓辺で小鳥たちが鳴いて
熱々のオムレツはいける味だった

 「朝は窓辺で小鳥たちが鳴いて」がいい。それこそ「何百年も変わらずに」鳴いているのかもしれないが、人間の暮らしにではなく、自然そのものにその「永遠」を感じ、その美しさに触れ、その結果として、オムレツをうまく感じる。この変化が、あ、いいなあ。インドへ行ってみたいなあ、という気持ちにさせる。
 観光案内ではないから、惹かれる。
 鳥の声を聞き、できたてのオムレツを食べる瞬間、山本は生まれ変わっている。「何百年もかわらずに」つづいている「旅人」の感覚のなかに生まれ変わっている。安易な(つまり、つい最近できたばかりの批評で人間を切り取っていない。

 でも、つづかない。--それが、とても残念だ。



 「旅のおまけ」は、それこそ「おまけ」のように、本編から少しはみだしている。乗るはずの飛行機が飛ばなくなって、足止めを喰う。そのときのようす。そこは「観光名所」ではないので、現実が動いている。「歴史」(「何百年も変わらずに」にある歴史)とは違ったものが動いている。
 ネパール語も中国語もわからない。中国語は鳥の声のように聞こえる。その音。

中国人ツアー客に、チュチュッと声を掛けられ、彼らとともに空港からかなり離れたホテルへ行く。

 この「チュチュッ」がいい。とても、いい。あとのほうには「チュンチュンチュチュッ、チュン」という音も出てくる。
 ここには、頭ではなく(近代的批評精神ではなく)、「肉体」で動いている山本がいる。あ、こっちのほうを本編にして、「観光ガイド」は「おまけ」にしてほしかったなあ、と思う。





死をゆく旅―詩集
山本 博道
花神社

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