詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木琢磨「はとバス歌声喫茶」

2010-03-26 18:33:52 | その他(音楽、小説etc)
鈴木琢磨「はとバス歌声喫茶」(毎日新聞2010年03月26日夕刊)

 鈴木琢磨「はとバス歌声喫茶」は「酒に唄えば」というコーナーに掲載されていた短い文章である。「はとバス」が「歌声喫茶」に変身した新企画。JR浜松―新橋―両国―浅草を走る。そのあいだ昭和の歌を乗客が合唱するというものらしい。
 その一節。

 遠く東京スカイツリーをのぞみ、しばらくして井沢八郎さんの「ああ上野駅」が流れたときだった。夜のちまたで歌い込んできたらしい初老の男性がつぶやいた。「おれ、集団就職だったんだ。」流れ去る上野の風景が一瞬、止まった。いつもなら気づかないもうひとつの東京を見た気がした。

 あ、いいなあ。「流れ去る上野の風景が一瞬、止まった。」か。どんな風景が、何が見えたかは書いてない。どうぞ、「はとバス」に乗って昭和の歌を一緒に歌ってください。そのときだけ、見えるんですよ。そう言っている。うん、乗りたい。乗って、見知らぬ人と歌を歌い、ひとつの時間を持ちたい。そういう気持ちにさせるねえ。

 でも、このあとの文章は余分なんだけれど。引用した段落には、あと2文ある。それは読まない方が感動的。だから、ここでは省略。

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北川朱実「夏の目方」

2010-03-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「夏の目方」(「風都市」21、2010年春発行)

 北川朱実のことば(想像力)はときどき、遠くへ飛ぶ。抽象と具体が拮抗するので、その感じがとても強くなる。「夏の目方」。

高くなった空が
ふいに
自分のものでなくいことに
気づくのだろうか

--学校に行きたくないよォ
夏休みが終ると
息子は
きまって獣のように吠えた

 1連目は抽象的で、「だれが」気づくのか、その「主語」があいまいである。 2連目とつづけて読むと「学校に行きたくない」と叫ぶ息子が叫んでいるようにも読めるが、そうではなく「高くなった空」が自分自身のことを気がついたとも読めないことはない。あるいは、いままでいっしょに遊んでいた「息子」(人間のこども)がもはや自分のものではない、もういっしょに遊べない、と気がつくだろうか--とも読むことができる。
 まあ、どうでもいいな。どうでもいいな、と書くと北川に失礼になるかもしれないが、わからないことはわからないまま、いつかわかる日がくれば、それはそれでいい--と私は考えているので、「意味」の断定はしない。
 ただし、そのかわり、「高くなった空」と「学校へ行きたくない、と叫ぶ息子」だけはしっかりと把握する。それだけは「わかる」と感じる。わかるものとわからないものがあったら、わからないものはそのままにしておいて、わかるものを抱きしめて、ことばを追いかけていく。
 北川は、このあと、夕食の準備だのかつおぶしだの秤(かつおぶし屋で量り売りのときつかう天秤ばかり?)という具体的な「日常」とかつおぶしのふわふわした軽さのことを書きつらねる。ことばは、口からでた瞬間から重たくなって、かつおぶしを測る天秤ばかりなんかは、ひっくりかえてしまうとういうようなことを書く。かつおぶしは天秤ばかりで測れるけれど、でも、ことばってどうやってその天秤ばかりにのせる? なんてことは聞いてもしようがない。一瞬、北川が、そう思ったことなのだから。ここにも、わかるものと、わからないものが同居している。
 そういうことを書いたあと、つづけて。

秤にかけたら
天秤ごとひっくり返る
遠いサバンナの回廊

仲間に追われ
声もあげずに縄張りの外へ走り出た
チンパンジーは

星のかけらみたいな木の実を
音をたてて食べたあと

大切だった道具の石を
口いっぱいに詰め込んだ
(喉の奥に
(澄んだ空が広がって

 あ、この「空」の部分がいいなあ。美しいなあ。急に、作品の冒頭の「高くなった空」がよみがえってくる。
 仲間から追われ、逃げ出したチンパンジー。それは「行動」を見ればわかる。「大切だった道具の石を/口いっぱいに詰め込んだ」というのも、見れば、わかる。でも、そのとき、チンパンジーの

(喉の奥に
(澄んだ空が広がって

というのはどうだろう。わからない。だれにもわからない。けれど、北川には「わかる」。それは間違っているかもしれないけれど、間違っていたとしても「わかる」。他者の「肉体」がわかる。「他者」が「肉体」をとおして感じているものを、自分の「肉体」をとおして「わかる」。「わかってしまう」。

(喉の奥に
(澄んだ空が広がって

というのは、抽象をはるかに超えた、絶対的抽象のようなものである。だれもチンパンジーがそんなものを感じたかどうかを確認できないのだから。けれど、その抽象を超えた絶対的抽象が、北川自身の「肉体」で把握されるとき、それはかけがえのない「具体」にかわる。「実感」にかわる。
 そして、この「実感」は、「共感」でもある。
 そのとき、遠いもの近いものになるだけではなく、さらに北川の「肉体」を突き破って外へ広がっていく。
 遠いチンパンジーの感覚、絶対証明できないチンパンジーの感覚が、北川の肉体で再現されるとき、それは北川の肉体にとどまっていることができない。北川をつきやぶって、北川をチンパンジーでも、人間でもないものにしてしまう。あえていえば、「澄んだ空」にしてしまう。
 ここでいう「澄んだ空」は、これもまた絶対的抽象なのだが、ね、ほら、サバンナの(私は行ったこともないのだけれど)、真っ青な空、雲ひとつない空が目に浮かんで、その瞬間、北川のことを忘れてしまうでしょ? そのサバンナの澄みきった空と、北川が冒頭に書いていた「高くなった空」が重なりませんか?

 ふと。

 あ、息子は(私の息子ではないだけれど……)、きっと、チンパンジーの喉の奥に広がった澄みきった空のようなものを感じたんだなあ。もう、それが自分のものではなくなったと感じ、「学校に行きたくない」と叫んだんだなあ、というようなことを、唐突に「実感」する。
 私の感じが正しいか、間違っているかは、もう、このとき関係ない。それを「実感」してしまったのだから。
 この「実感」のなかには、卑近(?)な具体的事実(学校に行きたくないと叫ぶ息子、こまった存在)と、その肉体がもっているかもしれないチンパンジーの喉の奥の澄みきった空が強く結びつく。
 そんなもの、どうして結びつくの?
 あ、それはね、北川の詩を読んだから--そう答えるしかない。北川の詩は、そのことばは、そういう不思議な、どこか、ここではない次元へ「飛んだ」ような感覚を味わわせてくれる。



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