あるところで、「March Madness 」ということばが話題になっていた。音が美しい、と書かれていた。えっ? この音のどこが? 私はもともと耳がよくない(並外れた音痴でドレミも正確には歌えない)ので、私の耳の「美意識」がおかしいのかもしれないが、「March Madness 」ということばには共通の音がM しかない。他の音と響きあわない。私は、そこに「音楽」を感じることができない。
私が「音楽」を感じ、音が美しいと感じるのは、たとえば西脇順三郎の「しゅんらん」である。タイトルも美しいが、書き出しがとてもすばらしい。
二月中頃雪が降っていた。
これだけで、私は夢中になる。「にがつなかごろゆきがふっていた」。ひとそれぞれ発音の癖があって、同じ文字で書かれる音でもちがったふうに響くだろうけれど、私には、この行の「鼻濁音(が・ご)」と「な行(に・な)」の響きあいが美しい。私は音読をしないが、無意識に発声器官は動く。そのときの、快感が、とても好きである。
鼻濁音から鼻濁音へかけてのリズムもとても好きだ。に「が」つなか「ご」ろゆき「が」。3音節ずつ、はさまっている。
こんな操作を西脇が意識的にしているとは思えない。わざわざ指を折ってリズムをそろえているとは思えないのだが、とても気持ちがいい。きっと自然に身についたものなのだと思う。
つづきを読むと、もっと美しい音が出てくる。
二月中頃雪が降っていた。
ヒエの麓の高野(たかの)という里の
奥の松林へシュンランを取りに出かけた
仁和寺の昔の坊主などは考えないことだ。
途中知合の百姓の家を訪ねた。
そのカマドの火がいかに麗しいか
また荒神のために釜ぶたの上に
毎週一度飾られる植物の変化を
よくみておくべきであるから。
「ヒエの麓の……」ではじまる「の」の繰り返し(西脇は「の」という音が好きである。)。「仁和寺の」の「の」を含めた「な行」の揺れ。そして、
そのカマドの火がいかに麗しいか
この行から、音が「か」の響きあいにかわる。その「か」まどのひ「が」い「か」にうるわしい「か」。次の行にも、その次の行にも「か」がゆれる。そして、
よくみておくべきであるから。
あ、この「から」の「か」。「か」からはじまる「から」という音の明るい解放感。いいなあ。うれしくて、モーツァルトを聴いたときのように、笑いだしてしまうなあ。
まあ、「意味」もあるにはあるだろうけれど、西脇はきっと、この「から」という音を書きたくて、この詩を書いたのだと私は直感する。(別なことばで言えば、「誤読」する。)
その「か」と明るい響きは、次のようにひきつがれ、転調する。
それで読者は「シュンランはあつたか」ときく
だろう「ありました」という
「あつたか」の「か」。その乱暴な(?)響きと「ありました」の明るい響き。これがもし、
それで読者は「シュンランはありましたか」ときく
だろう「あつた」という
であったなら、「音楽」はまったく違ってくる。暗くなる。「あつたか」「ありました」と「ありましたか」「あつた」では、「意味」は同じでも「音楽」が完全に別種である。。「あつたか」「ありました」という能天気(?)なというか、解放感に満ちた「音楽」のあとなので、次の飛躍が、まるで天空の虚無の輝きのように感じられる。
生まれた瞬間に見る男の子のペニスの
ような花の芽を出しているシュンランを
二株とイワナシを三株掘つた。
西脇は「男の子のペニス」と書いているが、私には、これは天使のペニスにしか見えない。そういう現実離れした、明るい神がかりの飛翔。こういう至福を運んでくるのが「音楽」である。西脇の「音楽」である。
西脇順三郎コレクション (1) 詩集1西脇 順三郎慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |