詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(118 )

2010-03-19 09:47:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 あるところで、「March Madness 」ということばが話題になっていた。音が美しい、と書かれていた。えっ? この音のどこが? 私はもともと耳がよくない(並外れた音痴でドレミも正確には歌えない)ので、私の耳の「美意識」がおかしいのかもしれないが、「March Madness 」ということばには共通の音がM しかない。他の音と響きあわない。私は、そこに「音楽」を感じることができない。
 私が「音楽」を感じ、音が美しいと感じるのは、たとえば西脇順三郎の「しゅんらん」である。タイトルも美しいが、書き出しがとてもすばらしい。

二月中頃雪が降っていた。

 これだけで、私は夢中になる。「にがつなかごろゆきがふっていた」。ひとそれぞれ発音の癖があって、同じ文字で書かれる音でもちがったふうに響くだろうけれど、私には、この行の「鼻濁音(が・ご)」と「な行(に・な)」の響きあいが美しい。私は音読をしないが、無意識に発声器官は動く。そのときの、快感が、とても好きである。
 鼻濁音から鼻濁音へかけてのリズムもとても好きだ。に「が」つなか「ご」ろゆき「が」。3音節ずつ、はさまっている。
 こんな操作を西脇が意識的にしているとは思えない。わざわざ指を折ってリズムをそろえているとは思えないのだが、とても気持ちがいい。きっと自然に身についたものなのだと思う。
 つづきを読むと、もっと美しい音が出てくる。

二月中頃雪が降っていた。
ヒエの麓の高野(たかの)という里の
奥の松林へシュンランを取りに出かけた
仁和寺の昔の坊主などは考えないことだ。
途中知合の百姓の家を訪ねた。
そのカマドの火がいかに麗しいか
また荒神のために釜ぶたの上に
毎週一度飾られる植物の変化を
よくみておくべきであるから。

 「ヒエの麓の……」ではじまる「の」の繰り返し(西脇は「の」という音が好きである。)。「仁和寺の」の「の」を含めた「な行」の揺れ。そして、

そのカマドの火がいかに麗しいか

 この行から、音が「か」の響きあいにかわる。その「か」まどのひ「が」い「か」にうるわしい「か」。次の行にも、その次の行にも「か」がゆれる。そして、

よくみておくべきであるから。

 あ、この「から」の「か」。「か」からはじまる「から」という音の明るい解放感。いいなあ。うれしくて、モーツァルトを聴いたときのように、笑いだしてしまうなあ。
 まあ、「意味」もあるにはあるだろうけれど、西脇はきっと、この「から」という音を書きたくて、この詩を書いたのだと私は直感する。(別なことばで言えば、「誤読」する。)
 その「か」と明るい響きは、次のようにひきつがれ、転調する。

それで読者は「シュンランはあつたか」ときく
だろう「ありました」という

 「あつたか」の「か」。その乱暴な(?)響きと「ありました」の明るい響き。これがもし、

それで読者は「シュンランはありましたか」ときく
だろう「あつた」という

であったなら、「音楽」はまったく違ってくる。暗くなる。「あつたか」「ありました」と「ありましたか」「あつた」では、「意味」は同じでも「音楽」が完全に別種である。。「あつたか」「ありました」という能天気(?)なというか、解放感に満ちた「音楽」のあとなので、次の飛躍が、まるで天空の虚無の輝きのように感じられる。

生まれた瞬間に見る男の子のペニスの
ような花の芽を出しているシュンランを
二株とイワナシを三株掘つた。

 西脇は「男の子のペニス」と書いているが、私には、これは天使のペニスにしか見えない。そういう現実離れした、明るい神がかりの飛翔。こういう至福を運んでくるのが「音楽」である。西脇の「音楽」である。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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神尾和寿『地上のメニュー』(2)

2010-03-19 00:00:00 | 詩集
神尾和寿『地上のメニュー』(2)(砂子屋書房、2010年02月20日発行)

 きのう読んだ「たんぼのことば」につづく「その手」もおもしろかった。

この手は いわゆる

悪いことをする 癖に染まっているので
大漁旗を振らせましょう
この手は

いつも 約束を破ってきたから
ひたすら汗をかかせましょう
この手には

愛撫する特技が ありますね
上等の油をぬってあげてください
この手は

 ここにはリズムの工夫(わざと)が施されている。各連の3行目の「この手は」の述語はそれに先行する2行であり、各連は倒置法で書かれている、と読むことができるが、そうではなくて、次の連の主語である、とも読むことができる。
 倒置法と読むよりも、次の連の主語と読む方がおもしろい。
 次の連の主語として読むとき、その「読み」に独特のリズムが生まれる。主語から述語へと直接進むのではなく、1行あきの一呼吸を置いて、述語が動きはじめる。このリズムは、主語に対する述語が書く前から決まっていたという印象ではなく、いったん主語をいってから、さて、なんとことばをつづけようかと一瞬悩んでいるような、いいかえると、むりやりことばをひねりだしたような感じがする。悪く言うと、主語を言ってしまったから、述語を言わなければならなくなった。まあ、いいや、なんでも言ってしまえ。というような、捨て鉢(?)な印象がどこかに漂う。
 そして、その捨て鉢な雰囲気というか、ことばに対する無責任さ(?)が、とてもいい。詩なんてねえ、というと詩を書いているひと(それから読んでいるひと)に対して、ちょっと申し訳ない気もするけれど、詩なんてねえ、いいかげんなものだ。いいかげんというのは、たとえば、法律とか、日常の約束とかに比べて、という意味だけれど。
 詩に書かれていることがほんとうである必要はない。ほんとうかどうかなど、どうでもいい。ことばが動いて、その動きの瞬間瞬間に、いままで気がつかなかったような何かが輝けばいい。輝くだけではなく、それが落とし穴だったとしても、とてもおもしろい。日常体験できなかったことが、ことばとして体験できればそれでいい。
 「この手は」と一気に言って、それからちょっと間を置いて「愛撫する特技が(間)ありますね」なんて、手相占いの呼吸だね。(知らないけれど--私の感想は、いいかげんだねえ。)手相占いなんて、ことばは、その場その場で選ばれるものだろう。相手の反応をちらちら見ながら、このひとはどんなことばを求めているのだろう、何を言ってもらいたくて(聞きたくて)ことばを待っているのだろう--という呼吸をはかりながら、ことばを動かす仕事だと思うけれど、その雰囲気の、一種の「でたらめ」のなかに、ことばの自由がある。「真実」かどうかは、受け手が考えればいい。どんな「意味」があるかは、受け手が考えればいい。ことばとことばの脈絡を切断し、ことばを自由に動かしてやればいい。
 そして、詩というのは、その脈絡を切断されたことばが無軌道な(流通言語からみると無軌道な、という意味だけれど)結合を繰り返し、その結合の運動そのもののエネルギーになってしまえば、それでいいのである。

 神尾の詩の印象は、ユーモアを書きながら、どこか粘着力があり、苦しい感じが残っていたが、「たんぼのことば」「その手」には、いつもの「苦しさ」が隠れている。たぶん、3行ほどずつの「連」という構成が粘着力を窮屈に感じさせないのだろう。空白、1行あきの呼吸が、ことばの脈絡を軽くする。脈絡はあっても、それが「飛躍」になっている。それが楽しさを呼び込んでいる。

 粘着力を保ちながら、その粘着力がおかしい(楽しい)作品も、もちろんある。「むずかしい顔」「蚊の手帳」が愉快だ。「蚊の手帳」の方を引用しよう。

単純な
手帳である
刺したのは
やわらかい肉だったのか かたい肉だったのか
吸った血は
うまかったのか まずかったのか
ただ その二種類の
報告だけが
饂飩のように綴られていく

 なぜ、「饂飩」? 何、これ? 神尾は何を書いている?
 たぶん、この詩を「朗読」で聴いたら、そう思うだけだろう。けれど、「読む」と違うねえ。私は、声をあげて笑ってしまった。
 うどん、って、すするよね。「すする」は「啜る」。ほら、「綴る」そっくり。音もにていないことはないけれど、文字はそっくり。
 神尾は、ほんとうに「蚊」のことを書きたかったのかなあ、それとも「啜る」と「綴る」という文字が似ていることを発見して、それを書いてみたかっただけなのかなあ。わからない。わからないし、まあ、そんなことは関係ないね。ただおかしい。
 突然の「うどん」の飛躍がおかしいし、なぜわざわざ「饂飩」などというむずかしい漢字をかいたのかなあ、というと、「綴る」「啜る」の文字を「頭」のなかに呼び込むためだったんだねえ、ということもわかる。
 饂飩のあとの展開もおかしいよ。

情けないほどまでに とぼしい筆圧を
ともなって
哺乳類誕生の歴史を 祝う
正しい
手帳でもある

 なぜ「哺乳類」なのかなんて、まあ、どうでもいいな。(私にとっては、という意味ですよ。)「饂飩」「情けない」「とぼしい」。そこから、なんとういか、「蚊」ではなくて、人間が見えてくるでしょ? 「とぼしい筆圧」なんて、人間っぽいねえ。人間的な、人間的な、あまりに人間的な--という感じ。
 神尾は、この人間的な、あまりに人間的な、かなしいおかしさを書きたいんだなあということが伝わってくる詩である。
 この詩(「蚊の手帳」)は、「たんぼのことば」のように、短い連の構成ではできないないが、それぞれの行が短く、それがリズムを軽くしている。軽いリズムを獲得したとき、神尾の詩は楽しさが倍増する--そんなことも思った。





七福神通り―歴史上の人物
神尾 和寿
思潮社

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