詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中上哲夫「荒川水系 わが釣り日記より」

2010-03-10 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
中上哲夫「荒川水系 わが釣り日記より」(「現代詩手帖」2010年03月号)

 中上哲夫「荒川水系 わが釣り日記より」に少しおもしろい語法がでてきた。

 釣りが唯一の趣味のわたしは、ある夏の一日、地図を頼りにその川へ出かけて行ったのだ。郊外電車の小駅で路線バスに乗り換えて、やっとのことで田んぼの傍らの停留所に降り立つことができたのだった。意気軒高で。炎天下の青田の間の迷路のような道を歩いていくと、思いがけず緑色の大きな川へ出たのだ。すごいぞ、と。

 最後の「すごいぞ、と。」--これは中途半端な表現である。文章として完結していない。
 似たような感じのことばが、少し前に、「意気軒高で。」という形で出てくるが、これは「倒置法」といえるかもしれない。「やっとのことで田んぼの傍らの停留所に、意気軒高で、降り立つことができたのだった。」と言いなおすことができるかもしれない。ただし、そのとき「意気軒昂」は「やっとのことで」と、なんとなくそぐわない。そぐわないから、「やっとのことで」から始まる文からは弾かれる形で、それでもそのことがいいたくて付け足すような形で発せられたのだ。
 「すごいぞ、と。」は似ていて、ちょっと違う。これは「倒置法」ではなく、省略である。動詞の省略。「すごいぞ、と思った。」の「思った」が省略されているのだ。
 いや、「思った」ではなく「感じた」が省略されているのだ--という読者もいるかもしれない。けれど、わたしは「思った」だと言い張る。
 (これが言いたくて、実は、私は、中上の詩の感想を書いている。)
 なぜ、「感じた」ではなく「思った」か。
 それは、その直前に「思いがけず」ということばがあるからだ。「思いがけず」緑色の大きな川へ出た。「思いがけず」とは「思い」を裏切るというか、思いを超えてという意味だろう。そういうことがあって、その反動として、というのも変だけれど、「思った」のだ。「思った」のだけれど、その前に「思いがけず」があるので、これではなんだか「矛盾」してしまう。「思いがけず/思った」。別のことばがきっとあるはず。それは、たとえば「感じた」なのかもしれないけれど、それはそんなふうに言い換えてしまっては「矛盾」が「矛盾」ではなくなって、それはそれで困るのだ。
 中上が書きたいのは「矛盾」なのだ。「思いがけず/思った」という形の「矛盾」こそ、中上を支えている「思想」なのだ。

 「すごいぞ、と。」に類似した形の表現は、何度も出てくる。「悪意だ、と。」「まるで徒労ではないか、と。」「どういうことなのだ、と。」--これらは、すべて「思いがけず/……、と思った。」と書き直すことができる。
 書き直すことができるけれど、そうは書かない。
 なぜか。中上には、それがわかりきっていることだからである。「肉体」にしみついていることだからである。わかりきっていることは、書かない。読者にわかるかどうかは問題ではない。筆者にとってわかりきっていることは、書く必要がない。
 そして。
 これからが、ちょっとややこしい。
 書く必要はないのだけれど、書かなければならないことがある。「矛盾」。その書く必要がない部分こそが、書きたいのだ。
 人間は、なにかしら、ある瞬間、何かを「思いがけず/思う」。その「思いがけず/思う」ことこそ、そのひとの「生の」というか、だれにも譲れないほんものの、「肉体」にしみついた「思想」なのだ。「頭」で考えたことではなく、何かの拍子にどうしても噴出してきてしまう「もの」なのだ。
 その「もの」を「感情」だと想定すれば、それは「思いがけず/感じた」になる。あるいは「思考」だと仮定すれば、それは「思いがけず/考えた」になる。
 それまで思い/感じ/考えてきたことを裏切って何かが動く、「肉体」のなかから、制御しきれないものが噴出してくる。そのすべてをひっくるめて「思う」ととりえあず言うことができるかもしれないけれど、「思う」ではやっぱり違うというか、いいきれないので、その動詞を省略した--それが中上の、この詩の「文体」である。

 これは、ややこしいし、めんどうくさいし、けれども、おかしい。なんというか、そこに人間の「生きている」かなしさと、いとおしさがあるなあ。
 うーん、うまくいえない。
 最後の段落を引用しよう。そうすれば、なんとなく、中上という人間が、かわいらくし見えてくるはずだ。釣果もなく、帰宅する中上の描写である。自分自身を、次のように書いている。

 橋の上から見ると、日盛りの陽射しのもと、緑色の川がとうとうと流れ、釣人たちが静に釣糸をたれていた。バスにゆられていると、急にねむくなった。乱反射する光の水面よ。糸が高鳴り、竿が大きくしなった。入れ食いだ、と。

 この最後の「入れ食いだ、と。」は、うとうとしはじめた中上の夢の中の釣果。これもやはり、「思いがけず/入れ食いだ、と思った。」になる。ぜんぜん釣れない(現実に、そうなのだ)と思っていた、あきらめていた、それなのに「思いがけず」魚が食いついてきた、つぎつぎと。あ、まるで「入れ食いだ」と、夢のなかで「思った。」
 うとうととした夢のなかで、果たせなかった欲望を果たす。夢は、そのひとの「本心」。ね、ほんとうの、心底思っていること。「肉体」に、「こころ」にしみついた、ほんとうのこと。
 「思いがけず/思う」ことが「思想」である、というのは、こういう理由。
 「頭」で「考え抜いた」ことばの運動としての高尚な思想(たとえばフランス現代思想? あるいはカントとかヘーゲルとかの読んでもよくわからない思想?)もあるだろうけれど、私は、そういう思想よりも、中上が書いているような「思想」の方を信じている。
 「入れ食い」の夢を見るなんて、かわいいでしょ? 共感できるでしょ? 共感できなければ、それは思想ではない--というのが私の考えなのです。



エルヴィスが死んだ日の夜
中上 哲夫
書肆山田

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