詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎+ウィテット・ポンニミット「詩とアニメと音楽となにか。」

2010-03-06 21:03:35 | その他(音楽、小説etc)
谷川俊太郎+ウィテット・ポンニミット「詩とアニメと音楽となにか。」(福岡市・あじびホール、2010年03月06日)

 谷川俊太郎の詩とウィテット・ポンニミットのアニメ、音楽のパフォーマンス。
 ウィテット・ポンニミットのアニメ、音楽は私にははじめて触れるもの。アニメは角のない線で、かわいいものと醜いものを同居させる。正反対(?)のものが同居してしまうのは、その基本が「シンプル」という感覚で統一されているからだろうと思った。音楽も、とてもシンプルだ。(私は音楽は判断基準を持っていないから、私のいうシンプルというのは、いまのJポップのような、面倒くささを感じない、くらいの意味である。)
 私は、詩の鑑賞方法として、朗読は苦手である。朗読を聞くのが苦手である。
 印刷物なら、好き勝手に自分のペースで読むことができる。そこに書かれていることばを、作者の思惑とは関係なく、私の好み(?)で暴走させることができる。声に出された詩では、この「私の身勝手な暴走」が封じこめられてしまう。読んでいるひとのペースでことばが動いていく。声は聞いた瞬間から消えていくので、自分勝手にあれこれ思っている時間がない。それが、どうも、私を落ち着かなくさせる。
 でも、谷川俊太郎の朗読は、谷川が朗読になれているからだろうか、だんだん気持ちよくなってきた。
 私が一番気に入ったのは「ぽぱーぺぽぴぱっぷ」(あ、これは、正確なタイトルではないね。正確なタイトルじゃなくて、谷川さん、ごめんなさい)。おかざきけんじろう(間違っているかもしれない、違っていたら、やはりごめんなさい)の明るい絵に合わせて、「ぱぴぷぺぽ」のお喋りがつづく。「意味」はあるのか、ないのか、まあ、わからない。赤ちゃん(?)が言おうとしていることが、きちんと「ぱぴぷぺぽ」に翻訳(?)されているかもしれない。
 これは、聞いていても何のことかわからない。わからないのだけれど、このあと、私は不思議なことを体験した。
 「 彗星女と惑星男」(これも正確なタイトルではない)という詩を谷川が朗読したとき、その声が「ぱぴぷぺぽ」に聞こえたのである。谷川はきちんと日本語を声にしているのだが、その声を反芻しようとすると、「ぱぴぷぺぽ」になってしまう。一種の同時通訳状態になってしまう。
 そのとき、あ、さっきの絵本はたしかに「ぱぴぷぺぽ語」だったのだとわかる。納得できる。もう一度「ぱぴぷぺぽ語」をやってくれないかなあ、と思った。そうすれば、「意味」がもしかしたらわかるかもしれない、と感じたのだ。
 これは、「黙読」では絶対にありえないことのように思えた。また、谷川以外のひとが朗読した場合でも、それは起きないだろうと感じた。谷川自身の持っている「肉体の声」が、きちんと通い合っているのだ。通い合っているから、そういうことが起きるのだ。
 谷川の朗読が終わり、ウィテットのアニメと字幕になると、その瞬間から「ぱぴぷぺぽ語」は私の耳には響かなくなった。
 これは、とてもおもしろい体験だった。

 谷川+ウィテットのパフォーマンスで、私が一番おもしろいと思ったのは、谷川が詩を読み、ウィテットがそれにあわせて絵を描くものである。
 谷川は絵を描く詩を読む。最初に地面を描いた、次に空を描いたというように、ことばがつづいていく。ことばはどんどんかわっていくが、ウィテットはただただ水平に近い形で線を引きつづける。まっすぐではなく、少し起伏がある。それも小刻みな起伏である。その線がずーっとつづいていって、なかほど。「少年を描いた」と谷川のことばがつげると、横にのびた線は、横にのびることをやめて、突然「少年」を描きはじめる。
 その瞬間。
 あ、少年は、地面と、空と、木と、雲と……、谷川が数え上げたすべてのものによってつくられている、ということがわかるのだ。谷川のことばとしてではなく、ウィテットの絵としてわかるのだ。
 そして、次の瞬間。
 そうか、シンプルとはこういうことか、と思った。ウィテットの絵を、かわいいと醜いが同居している。それはシンプルだからだと私は最初の方に書いたが、シンプルとはつながっているということだ。大地と空、海、樹木、その他なんでもいいが、一本の線のなかにすべてに通じるものがある。線が抱え込んでいるものが、あるとき大地になり、空になり、海になり、樹木になり、そういう変化が育つとそれは「少年」になる。
 「色即是空、空即是色」。そういうことばをウィテットが知っているかどうかわからない。けれど、そういうものを感じた。一のなかに多があり、多のなかに一がある。この矛盾した関係を具現化するとき、そこに「シンプル」というものが誕生する。
 そして、その新しく誕生は、谷川とウィテットの「いのち」が結びついて生み出したものだ。
 いい「比喩」ではないかもしれないが、谷川とウィテットの「いのち」の結婚が、「シンプル」という新しい子供になって生まれる--そういう感じ。
 谷川とウィテットのパフォーマンスは、祝祭にあふれている。とてもいいコンビだと思った。



 アンコール(?)に、谷川が「鉄腕アトム」を歌った。あ、なつかしい。私は1コーラスしか記憶にないので「みなさんもいっしょに」と誘われたのに歌えなかった。それが残念。谷川のパフォーマンスを見に行く(聞きに行く)ときは「鉄腕アトム」を練習していこうね。






ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店

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佐藤恵「カメラ・オブスキュラ」

2010-03-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤恵「カメラ・オブスキュラ」(「スーハ!」6、2010年02月25日発行)

 佐藤恵「カメラ・オブスキュラ」は文字通り、カメラ・オブスキュラを描いている。暗い部屋のなかで見るはじめての世界。その世界は知っている世界だけれど、知っている世界と違っている。

ひかりは
ぬるい吐息のように吹き込んできた。
伏せていた影が黒蝶となって舞い交い、眩しさに追いつめられた姿で壁に展翅される。
わたしたちは暗箱のすみに身を寄せちいさく膝を抱いて
投射される逆さの校庭や家並を見ていた。
どこかで「あけて!あけて!」と声がする。

 小さな穴から入ってきた光が、逆さまの映像を映す。その現象。それを「ひかりは/ぬるい吐息」と呼ぶとき、それはもう「光」ではない。物理の、あるいは光学の現象ではない。「肉体」そのものの現象、「肉体」とカメラ・オブスキュラが溶け合っている。暗い部屋、暗い箱のなかに「わたしたち」はいるのだが、その暗い部屋はそのまま「肉体」であり、その「肉体」のなかに「ひかりは/ぬるい吐息」となって入ってきて、「肉体」のなかに逆さまの映像を繰り広げる。
 そして、そのとき、

どこかで「あけて!あけて!」と声がする。

 この「声」は、どこに存在するのか。どこから発せられるのか。
 暗い部屋にいる「わたしたち」のだれかが発した声なのか。それとも、暗い部屋の壁に映しだされた「家並」のなかから聞こえるのか。映像をつたえるだけのカメラ・オブスキュラ。それなのに、もし、「家並」のなかで発せられる「声」が聞こえるとしたら、それはどういうことだろう。
 映像は「音」をもっている。
 ある映像に触れた瞬間、音楽が聞こえる--そういう体験は誰もがすることだけれど、これは、どういうことなのだろう。「音」は発せられてはいない。けれど、「音」を聞いてしまう。「肉体」のなかで、「音」が生まれているのだ。
 その「音」は「家並」から聞こえるようであって、実は、暗い部屋にいる「わたしたち」の「肉体」が発したものなのだ。それを佐藤は聞いている。「わたし」の「肉体」であると同時に「わたしたち」の「肉体」、共有される「肉体」の「声」として。
 ここから世界は逆転する。あるいは、区別がなくなる。暗い部屋、暗い箱は、外の世界とうちの世界を区切る(区別する)「壁」をもっているはずだが、その壁は「暗い」ゆえに、見えない--つまり「視力」のなかで消滅し、その消滅に合わせ、また何かが消えていく。

聞き耳を立ててひかる家々の窓は
それぞれの中庭の花を映すだけで鏡面をかたく張り窓枠をふるわせもしなかった。

 「わたしたち」の「肉体」は「あけて!あけて!」と叫んでいる。それは「外へ出して」と同じ意味をもっているが、その「声」を「家々」は聞かない。拒絶している。
 「わたしたち」はカメラ・オブスキュラの箱のなかで、外の世界を隠れてのぞいているのではなく、外の世界、家々が「わたしたち」の「肉体」、その「内部の声」を、「わたしたち」を暗い部屋に閉じ込めることで聞いているのだ。拒絶しながら--つまり、それがどんな「声」であろうとけっして助けたりはしない冷徹な残酷さ(ぬるい吐息とは対極的なもの)、あるいは潔癖な美しさ(花を映すだけの鏡)で。

外ではコスモスが細い頸をひねり
空は隅から青く焼けていった。
花壇の向こうでささやき声に湿った耳がしだいに染まり
うつむいたまま頷く一瞬が、砂絵のような粗さで映し出される。
わたしたちは声も出さずに目を凝らして
あらゆるものを見た。

 「あらゆるもの」のなかには「わたしたち」が含まれる。というより、「見た」もの、「見えるもの」は、結局、「外」ではなく、「わたしたち」の「内部」を含んでいるのだ。だから、「声も出さず」は「声も出せず」でもある。
 緊密な「外」と「内」、「世界」と「肉体」の融合が、ていねいなことばの動きで書かれた詩だ。

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