詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(117 )

2010-03-18 20:12:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「六月の朝」には、とても変なところがある。

ひじり坂と反対な山に
暗い庭が一つ残つている
誰かが何時種を播いたのか
コスモスかダリヤが咲く。

 タイトルは「六月の朝」。6月に、コスモスやダリヤが咲く? コスモスかダリヤというけれど、コスモスとダリヤは見間違えるような花? まさかねえ。
 どうしたんだろう。西脇は何を書きたかったのだろう。
 ぜんぜん、わからない。(西脇ファンの人、教えてくださいね。)
 西脇の名前がなかったら、この4行で、私はこの詩を読むのをやめていると思う。でも、西脇の全集のなかに入っているので、私は読みつづける。
 そして、まあ、私はいいかげんな人間にできているらしく、いまさっき、これはいったい何? と思ったことを忘れて、やっぱり西脇のことばの動きは楽しいなあ、と引き込まれていく。

ヴェロッキオの背景に傾く。
イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。

 ヴェロッキオ、イボタ。前者はイタリアの彫刻家・画家。後者は日本の(?)、初夏の白い花。ぜんぜん関係ないものが、カタカナの音のなかで交錯する。「意味」ではなく、「音」そのものが楽しい。濁音が意識を攪拌する。
 そして、この音は、その前の「コスモスかダリヤが咲く。」の濁音と呼応しているのだ。「コスモスかダリヤ」というのは「実景」ではなく、この詩のことばの音楽を活性化するために、わざと書かれたことばなのだ。
 「ひじり坂」「反対な山」「暗い庭」。この日本語たっぷりの音。そこから脱出するための、音の飛躍。そこにどんな植物が書かれていようが、それは「視力」を楽しませるものではなく、「聴力」を楽しませるためのものなのだ。だからこそ、せせら笑いが「きこえてくる。」なのだ。「繁み」に女を隠し、女を隠すことで、それまで見たもの、コスモス、ダリヤ(ほんとうは存在しない)を隠す。そこには何かを「隠す」繁みと、その奥から聞こえてくる「音」だけがある。
 そういう操作をしたあとで。

      よくみると
ニワトコにもムクの気にも実が
出てもう秋の日が悲しめる。

 もう一度、「視力」にもどる。そのときは、濁音は隠れてしまう。清音が、いま、ここを、いま、ここから引き剥がしてしまう。秋へ。しかも、秋の日の「悲しみ」へと。
 ここには視覚と聴覚の、すばやい交錯、錯乱、乱丁がある。

 あ、乱調と書くつもりが、「乱丁」か。
 私は脱線してしまうが、「乱丁」の方がいいかもしれないなあ。入り乱れて、それを無意識にととのえようとする精神がかってに動く。そのときの、軽い美しさ。美しさの軽さ。--西脇のこの詩には、そういうものがある。
 それは、次々に展開している。音を遊びながら。

キリコ キリコ クレー クレー
枯れたモチの大木の上にあがつて
群馬から来た木樵が白いズボンをはいて
黄色い上着を着て上から下へ
切つているところだ キリコ
アーチの投影がうつる。キリコ
バットを吸いながら首を動かして
切りつづけている。

 キリコ、クレー(画家)と木樵。「キリコ」「きこり」。かけ離れたものが、ことばの、その音のなかで交錯する。出会う。「群馬」「バット」というのはほんとうかな? ほんとうは違っているかもしれないけれど、ここでも「音」が選ばれている--と私は感じる。
 音優先の、ことばの動き。それは、まだまだつづく。

        おりてもらって
二人は樹から樹へと皮の模様
をつかつて永遠のアーキタイプをさがした。
会話に終りたくない。
彼はまた四十五度にまがつている
古木へのぼつていつた。
手をかざして野ばらの実のようなペンキを塗つた
ガスタンクの向うにコーバルト色の
鯨をみたのか
      アナバースの中のように
海 海 海
群馬のアテネ人は叫んだ
彼のためにランチを用意した
ヤマメのてんぷらにマスカテルに
イチジクにコーヒーに
この朽ちた木とノコギリのために--。

 いま、ここにある風景と、いま、ここにない風景が音のなかで出会い、動く。衝突のたびに、「永遠」がきらめく。永遠とは、不可能、あるいは、不在そのものかもしれないが、そういう意識を笑うように、最後にあらわれる「ノコギリ」。
 あ、その音のなかに「キリコ」がいて「木樵(きこり)」がいる。まるで、「ノコギリ」というのは、「キリコ」と「きこり」「の・コギリ」みたい。「の」というのは「助詞」です、はい。



旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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ウェイン・ワン監督「千年の祈り」(★★★)

2010-03-18 12:00:00 | 映画

監督 ウェイン・ワン 出演 ヘンリー・オー、フェイ・ユー

 離れてしまった家族のこころ。それを回復しようとする試み。中華鍋を買って、一生懸命、料理する老いた父が悲しい。その、料理そのものの、あじけない冷えた感じがとても悲しい。中華料理は世界一おいしい料理だというけれど、それがおいしいのは食べる人がしあわせであってはじめて生まれるおいしさだ。食べる人が、楽しくなければ、どんなに豪華でもおいしくはない。楽しい、とは、こころが通い合っているということだ。
 こころを通い合わせるためには、語り合うことが不可欠だ。
 父の部屋と娘の部屋。ふたつの部屋の扉が開かれている。壁をはさんで、父と娘が背を向けている。そういうシーンがあったが、このシーンが、この映画の父と娘の関係を象徴している。どんなに扉が開かれていても、そのあいだを「空気」がどれだけ自在に行き来しても、こころが通じ合うとはかぎらない。見える「空気」そのものが、部屋を区別する壁よりも強靱なのだ。分厚いのだ。
 一方、ことばが通じなくても、語り合うことでこころを通わせるというシーンもこの映画にはある。父と娘ではなく、父とイラン人の老女性。互いにカタコトの英語で、ジェスチャーをまじえながら話しあう。その時間を楽しみに、ふたりは公園へやってくる。ベンチに腰掛ける。
 けれど、それもまた、はかない幻。
 懸命に語りあいながら、ほんとうのことを隠してしまう。家族の関係を隠してしまう。家族に愛されていな--ということを、こころを打ち明けて語ることができない。だから、父とその老女性は、ふいに別れてしまうことになる。
 語る。そのとき大切なのは、「真実」を語るということである。しかし、その真実を語るということは苦しい。苦しいけれど、それを語るしかない。その一点にたどりつくまでを、この映画はていねいに描いている。
 このていねいさは、たぶん脚本を読むともっとわかるかもしれない。そして、舞台の方がもっと切実につたわってくるかもしれない。舞台にのせれば、とてもいい芝居になると思う。そう思うけれど……。あ、映画では、苦しいねえ。映画独自の、映像で納得させるという部分が少ない。父親の、猫背を矯正するコルセット(?)のように、変になまなましい肉体にせまる描写もあるのだけれど、なんだかなあ……。
 芝居で、目の前で役者が動く--そういう形で見れば、たぶん、もっともっと作品の抱えているものが切実に迫ってくるだろうなあ、と、そういうことばかり考えた。

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志賀直哉「沓掛にて-芥川君のこと-」

2010-03-18 09:26:57 | 志賀直哉
志賀直哉「沓掛にて-芥川君のこと-」(『志賀直哉小説選 三』岩波書店、昭和六十二年五月八日発行)

 志賀直哉は教科書の印象しかない。「好き」という感じはなかったのだが、読みはじめるとおもしろい。ことばは、やはり子どものときは、おもしろさがわからない。文学は大人になってしら読むものなのだ、とあらためて思った。
 「沓掛にて-芥川君のこと-」は芥川が自殺したあとの文章である。いわば「追悼文」ということになるのだが、とてもかわっている。芥川の思い出を書いているには書いているのだが、えっ、追悼文にこんなことを書いてしまうの? というようなことを書いている。「妖婆」について触れたくだり。(旧字、正字はめんどうなので、いま使われている漢字で引用する。をどり文字も適当になおした。)

二人は夏羽織の肩を並べて出掛けたといふのは大変いいが、荒物屋の店にその少女が居るのを見つけ、二人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあつた。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写と思ふが、二人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭も其方(そのほう)へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がゴタゴタして愉快でなく、作者の技巧が見えすくやうで面白くないといふやうな事もいつた。

 芥川の小説の、どの部分が気に食わないか--そんなことを、わざわざ書いている。そういうことを芥川に指摘したと書いている。
 こういうことは、私は書かないだろうなあ。追悼文には書かないだろうなあ。でも、志賀は書いている。
 この正直さが、とても気に入った。とてもおもしろいと思った。

 ことばに対して正直なのである。芥川の小説について書きはじめたら、そのことばに対する気持ちを抑制できなくなる。芥川が自殺したか、生きているかということより、文学のことばはどういうものであるべきか、ということばに対する気持ちの方が優先してしまう。
 ひと(他人)に対する配慮よりも、ことばに対して真摯である。うそをつかない。その正直さ--あ、これは美しい。

 志賀のことばは簡潔だが、その簡潔さは、うそを削ぎ落としてたどりついた簡潔さ、正直がたどりついた簡潔さなのだと、いまごろになって気がついた。




小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
志賀 直哉
新潮社

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神尾和寿『地上のメニュー』

2010-03-18 00:00:00 | 詩集
神尾和寿『地上のメニュー』(砂子屋書房、2010年02月20日発行)

 神尾和寿『地上のメニュー』に驚いた。いや、正確に言うと、冒頭の「たんぼのことば」に頭を殴られたような衝撃を受けた。えっ、神尾和寿って、こういう詩人だった? めったにしないことだが、思わず5回ほど、読み返してしまった。私の知っている神尾とはまったく別の神尾がいる。私はいままで神尾を読んでいたのだろうか、と不思議な気持ちになった。
 そして、私は、まだほかの詩を読んでいないのだが、ともかくこの詩に夢中になってしまった。

ふかい緑の田圃に 見え隠れして
はるか向こうに
電柱が 一本

こちら側にも もう一本が立っていて
鳥も寄せつけずに
先端が 潤んだ空に突き刺さりながら

一方で 電線はといえば非常にゆるく
わたっている
電線のなかでは 電気がいそがしく走り回り

その電気とは かつては言葉だった
とのこと
命令やうわさ話や絶大なる賞讃、同じ賞讃のなかでも本音と建前 それから

呪いと祝福 ある時には
決闘を申し込む
言葉も とどく

受けてやろうじゃないか
斧を握り上げて とろけるような団欒から抜け出た
わが弟 は

一万年たった 今も帰らない
敵は強かったのか、命を取るまで残酷だったのか
それとも
敵には いまだ巡り会っていないの
かしら

 読むと、目の前に田んぼが広がってくる。夏の、緑の盛んな田んぼ。見渡すかぎりの緑。風が吹くと葉裏が光る。ゆらゆらと、風の道をつくることもある。そこに電柱が立っている。
 電柱は道に沿って立っていることが多いが、田舎へ行くと、曲がりくねった道に沿って電柱を立てるより、田んぼを突ききってまっすぐに電柱を並べる方が経済的なのだ。そういう田舎の風景である。そういう電柱、電線は、まだ電気がはじめて集落に(家庭に)やってきたときの記憶を内部に抱え込んでいる。
 「電気は明るいなあ、電気は便利だなあ」
 そういう声を遠くで聞きながら、電柱は(電線は)誇らしげである。だから、鳥なんか寄せつけない。電柱の誇りが、「おれを、そんじょそこらの木といっしょにするな」と見栄を切らせている。
 もうそういう時代ではないから、まあ、電柱はそういう声を内部に秘めていることになる。
 ここに書かれているのは、現実であり、過去であり、記憶であり、歴史なのだ。といっても、それはけっして教科書に書かれるような歴史ではないし、また、過去でもない。ただ、そこに暮らしたひとの内部にだけ存在する過去であり、記憶であり、歴史である。

一方で 電線はといえば非常にゆるく
わたっている
電線のなかでは 電気がいそがしく走り回り

 電柱、電線の、見かけと内部(?)の違いのように、あらゆるものには見かけ(外部)と内部がある。建前と本音もある。田舎の暮らしにも、そういう二面性がある。それは、田舎だけではなく、あらゆる人間の暮らしにあることだ。
 「ゆるく/わたっている」
 これは電柱と電柱のあいだに張り渡された電線の描写である。すこしたわんで、その線がぴんと張り詰めたものではないことを、この2行は語っているが、この「ゆるく」のなかに、神尾の思想が凝縮している。
 電線の内部で電気が忙しく走り回れば回るほど、電線は「ゆるく」なければならない。忙しさ、緊張をつつむ「ゆるさ」。それがあって、世界は成り立っている。神尾は、緊張に満ちた世界を「ゆるさ」で包み、そこに静かな笑いを引き起こす。
 --と書いていけば、それはそのまま、私の知っている神尾につながるのだが、あ、こんなふうに自然にそのことを実感したことがなかった。神尾は彼が向き合っているものを「ゆるく」包みこみ、その「ゆるさ」のなかで他者を引き受けている、とこんなに自然に感じたことはなかった。

 田舎には、田舎から飛び出してどこかへいってしまった人間がいる。いまも、大量にいる。いや、いま、田舎は、田舎を飛び出して行ったひとのために、電気がはじめてその村にきたときのことを知っている人しか残されていない、という状況に近い。
 電柱と、電線のなかには、とおい「栄光」の記憶があるだけだ。
 あの「栄光」から1万年?

一万年たった 今も帰らない
敵は強かったのか、命を取るまで残酷だったのか
それとも
敵には いまだ巡り会っていないの
かしら

 この誇張のなかにある悲しみ。寂しさ。けれど、それを「敵には いまだ巡り会っていないの/かしら」とつつみなおす温かさ。
 それは、日本の風景のやさしさ、風土のやさしさかもしれない。「土地」にねづいて生きるやさしさかもしれない。電柱のように、そこに立ったまま、どこへも動いていかない暮らしの(生きかたの)やさしさかもしれない。
 神尾は、そういう風景を生きている。




七福神通り―歴史上の人物
神尾 和寿
思潮社

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