詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「鉄塔と私、」

2010-03-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「鉄塔と私、」(「スーハ!」6、2010年02月25日発行)

 野村喜和夫「鉄塔と私、」を読みながら、あ、野村喜和夫ってナルシストだなあと思った。ナルシストとは、自分にみとれる、ではなくて、何か(自分以外のもの)を見ると、その見たものが自分になってしまう、という意味なのだけれど。自分以外のものが自分になるならナルシストとは逆、自己否定ではないかという見方がある。あ、たしかに、そんなふうに読めばいいのかもしれない。そんなふうに読むべきなのかもしれない。けれど、どうも違う。自分以外のものが自分になる--というのは、自分が、その見たもの(自分以外のもの)になって、その新しい自己に酔いしれるためなのだ。自己否定ではなく、自己拡張。自己拡張し、巨大になった自己に酔うのだ。
 どういうことかというと……

鉄塔と私、
そう、私は鉄塔を見上げる、

 これは作品の冒頭。視界に鉄塔がある。それを「私(野村、と仮定しておく)」が見上げる。このとき「鉄塔」は「私以外のもの」。「私以外のもの」だからこそ、見上げることができる。
 で、問題は、このときの「そう、」。
 「そう、」って何?
 念押し、だろう。でも、だれに念押し? 何のために念押し? 「鉄塔と私、」と書いて、それから「そう、私は鉄塔を見上げる、」と念押しをする。わざわざ、「私は鉄塔見上げる、」と書くのは、「見ているのは私だ」と書かないと、「私」が「私」ではなくなってしまうからだ。すでに、「私」は「私」ではなくなっている。そのことがわかっているから、それに逆らうようにして「そう、私は鉄塔を見上げる、」と書く。
 では、そのとき、野村は何になっているか。
 もちろん鉄塔である。「鉄塔のような存在」になっている。あるいは「私は鉄塔である」ということなのだが、「私は鉄塔である」というのは「矛盾である」。「私」は「私」。「鉄塔」は「鉄塔」。だから「鉄塔と私、」と書き、「そう、私は鉄塔を見上げる」と書くしかないのだが、これは、間違い。間違っている。「私は鉄塔」であり、同時に「私は鉄塔を見上げる」、ということを、野村は、次の連から書きはじめる。

 と、ここまで書いたら、面倒になったので、はしょって書くと。簡単に書いてしまうと……。

 「鉄塔」を「男根」、あるいは「勃起」にかえれば、野村の書いていることがとてもよくわかる。「男根」というよりも、まあ、「勃起」の方が勇ましくて(?)、ナルシスと向きかなあと思うので、とりあえず「勃起」ということにして書きすすめる。

勃起と私、
そう、私は勃起を見上げる、

 自分の性器を見上げるというのは、逆立ちでもしないことにはむりなことだけれど、勃起に夢中になっていれば(酔いしれていれば)、その意識のなかでは勃起は私よりも高くそびえ立っている。見上げたってかまわない。野村は「現実」を「科学的」に書いているのではなく、「現実」を「意識」の問題として書いているからである。だいたい「勃起」というのは「現象」であって、「現象」というのは「もの」ではなく「運動」なのだから、それを測る「ものさし」は大小を測る「ものさし」とは違っている。「巻き尺」なんかでは測れないものが「運動」であり、そこでは「見上げる」「見下ろす」は、ちがった基準で見なければならない。それはセンチで測れる大小ではなく、別の単位で測るべきパワーの問題なのだ。
 「私は勃起を見上げる、」ということばが成立するとき、勃起の方が私より大きく(パワーが大きく)、大きいものの方が小さいものを支配する。(これは、マッチョ思想かな?)
 勃起しているのは「私」の「男根」だというのは、「生物学的」な論理だ。そして、生物学的には「私」は「男根」の所有者であると言えるけれど、「勃起」ではどうだろう。「勃起」のパワーと「私」のパワーでは、そう言えるか。「私」は「勃起」の所有者であると言えるだろうか。野村は、そんなふうには言わない。逆に、「勃起」が「私」の所有者、支配者である、というだろう。この瞬間、立場が逆転するのだ。

そう、私は鉄塔を見上げる、

ではなく、

そう、勃起が私を見下ろす、

 なのだ。
 勃起が、私を見下ろし、私に命令する。そのとき、「私」は「性の端末」である。生物学的には(あるいは医学的には?)、「男根」は「私の肉体の端末」かもしれないが、「勃起」が主導権を握って、「私」を支配しているとき、「私」の方が「性の端末」、勃起という巨大な脳が、「私」を操作している。そして、命じるのだ。「勃起」の立つべき場所を「突き刺せ、」と。
 「私」は「勃起」の命じるままに、「接続」し、「痙攣し、」「精を放」つ。それをすべて、「突き刺せ、」という命令のせいにする。
 --せいにするふりをしながら、野村は、「勃起」を自慢できることに酔いしれている。「勃起」が暴れるときのパワーを自慢している。この能天気な責任転嫁(?)と陶酔は、とても楽しい。

 で、そのあとも、とてもおもしろい。
 もしかすると、そのあとの方がおもしろいかもしれない。
 能天気な陶酔のあと、野村は、

私は戻る、

と書く。
 そして、実際に、「私」になってしまう。

播くんじゃない、突き刺せ、
突き刺せ、と、
それだけだ、さようなら、私は戻る、
鉄塔と私に戻る、

鉄塔と私、
そう、私は鉄塔を見上げる、

 最後の2行は、冒頭の2行とまったく同じ手ある。「文字(書きことば)」としてまったく同じであるが、その「内容」はずいぶん違う。
 書き出しでは、実際には「鉄塔(勃起)」が「私」を「見下ろし」ていた。けれども、ここでは「私(野村)」は「男根(勃起の余韻)」を「見下ろし」ている。「勃起」の拒絶するできない命令から解放された瞬間、「私」は「性の端末」から「私」そのものに「戻る」。そして「性の端末」である「男根」をみつめ、その姿にかつての「鉄塔(勃起)」の余韻を感じ、それを「意識」のなかで「見上げる」。目は、実際は、「見下ろし」ている。
 これは、余韻(?)といえば余韻なのだろうけれど、もしかすると、こんなふうに余韻まで書いてしまうことろにこそ、ほんとうのナルシズムがあるかもしれないなあ。いや、間違えた。野村の「天才」があるのかもしれない。

 書くこと、書きことば。それが、能天気(?)野村の「思想」をつかみ取るときのキーワードになるかもしれない。
 私は、断片的に野村の詩の感想を書いているだけだが、いつか「書くこと」(書きことば)と野村の「思想」について書いてみたい、という気持ちがふいに生まれた。
 同じ書きことばが、最初と最後では違ってくる。そして、その最初のことばと、最後のことばのあいだにあるのは、やはり書きことばである。書くことをとおして、書いたことばをとおして野村は変化していることになる。書くことが、ことばを暴走させ、その暴走のなかでだけ獲得できる(吸収できる)エネルギーがある。だからこそ、書きつづける。そして、「私」が「私」ではなくなる。「私」が「私」を超越して、「新しい私」に生まれ変わる--そういう運動としての野村の全体を、いつかしっかりつかまえてみたいという気持ちになった。


ZOLO
野村 喜和夫
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