詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マイケル・カーティズ監督「カサブランカ」(★★★)

2010-03-08 12:00:00 | 午前十時の映画祭
監督 マイケル・カーティズ 出演 ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン、ポール・ヘンリード、クロード・レインズ、コンラート・ファイト

 この映画がなぜこんなに人気なのか私は実のところよくわからない。「午前十時の映画祭」のラインアップに入っている。ふつうは1回の上映が12時からもあり、1日計回。多くのひとが映画館にくるのはいいことだけれど(うれしいことだけれど)、なんだか不思議。
 この映画は、映像というよりも、まるで「恋愛」の「定型」を見せられている気持ちになってしまう。(映像としては、ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマンという役者そのものの「映像」くらいしか見るものがない、と私は思う。)
 男がいて、女がいて、ほんとうは好きなのだけれど、その好きな相手を選ばない。違う相手、違う選択をする。そのときの、「やせ我慢」。恋愛は、その「やせ我慢」のなかで輝く。互いに「やせ我慢」していることを知っていて、その「やせ我慢」を貫く。まあ、「悲恋」といえば、悲恋になるんだろうなあ。
 この「やせ我慢」の対極に、「きみの瞳に乾杯」というような気障なせりふがある。甘い甘い感情がある。「やせ我慢」と、その対極の「めろめろ」の振幅の大きさが、恋愛をいきいきさせる。
 それに戦争という障害がはさまれば、なおのこと、感情は研ぎ澄まされ、きらきらと一瞬一瞬動き回る。
 これはまあ、「恋愛の教科書」なのかもしれない。女を口説くときはこんなふうにいう。こんなふうに「やせ我慢」をしなければ、絶世の美女のこころはつかめない。そうなんだろうなあ。
 でも。
 いまから見ると、やはり時代が違ってしまった、というしかない。恋愛はもっと複雑になっている。気障な「やせ我慢」は、夢の夢。リアリティーがなさすぎる。
 それがいいといえば、いいのかもしれない。映画は現実ではない。リアルではない。リアルでは実現できないことこそ、映画で実現すべきである。もし、そうであるなら、この映画がこんなに人気なのは、この「やせ我慢」の男の美学--その結晶としての恋愛の絶対的な美しさ、それをいま、ひとが求めているということなのかもしれない。



 最後にぽつり。
 ハンフリー・ボガートの憂鬱な視線、硬くて暗い声が、私は苦手だ。イングリッド・バーグマンは「ガス燈」の方が美人だなあ。クロード・レインズ、帽子を阿弥陀にかぶればフランス人なのかねえ。ポール・ヘンリード。着こなしがケイリー・グラントに似ていると思ったのは私だけ?


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ファーストトレーディング

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平野宏「アルベロルベッロは気持ちいい」

2010-03-08 00:00:00 | 詩集
平野宏「アルベロルベッロは気持ちいい」(「水盤」6、2010年02月20日発行)

 平野宏「アルベロベッロは気持ちいい」は、音を声に出したときの、肉体の反応を書いている。

アルベロベッロは気持ちいい
アルベロベッロ
何回も言ってみたくなる
ンゴロンゴロはにやにやする
んだなんだばとうなずいて
風にふかれている

 「アルベロベッロ」は「ベロベロ」の繰り返しのなかに促音が紛れ込んできて、音が強くなることろがたしかに楽しい。「ベロベーロ」でも楽しいかも、と思うが、いずれにしろ、同じに見えて同じではないという微妙な変化が、発声器官をくすぐるのだと思う。
 「ンゴロンゴロはにやにやする/んだなんだばとうなずいて」も楽しい。「ンゴロンゴロ」と「んだなんだば」のなかにリズムが交錯する。そして「ン」「ん」が「うなずいて」の「う」につながっていく。音は繰り返すとき響きあい、ふくらんで行く。
 私の好みでいうと「んだなんだば」よりも「んだばなんだば」と途中に「ば」があった方が、肉体が反応しやすい。読みやすい。声に出しやすい。音読するわけではないが、黙読のとき、発声器官がどうしても動いてしまうのだが、そのときの肉体の内部の快感の「度合い」が微妙に違うのだ。これは、まあ、人それぞれがどんな音を聞いてきたかということと関係してくるので、ほんとうに好みだけのことなのかもしれないが。
 でも、せっかくそういう「音」の楽しみの最中に変なものが紛れ込んでくる。

マサイマラは
デカそうだと思って失敗した
思った後では
どうしてもマラのほうにいってしまうのだ

 これは先に引用した部分につづく5行だが、ここではもう「音」は存在していない。「音」の繰り返しがない。強いて繰り返しを上げれば「マ」が繰り返されているけれど、平野はその「マ」を繰り返しから引き剥がしてしまって、「マラ」にいってしまう。その「マラ」は「音」ではなく「魔羅」という漢字の意味になってしまっている。
 そして、そのことと「思う」ことが重なってしまう。「思う」とき「音」は「音」を失い、別の物になる。
 「音」を遊んでいるのではなく、「意味」を遊んでいる。「音」を借りて、「音」のなかで「意味」がずれることを遊ぶことになってしまう。それは「音」の遊び、「発声器官」(肉体)の遊びではなく、「意味」の、頭の遊びである。
 「音」が「音」であるためには、「思う」ことは排除されなければならないのだ。
 これは平野も感じたのだろう、次に「意味」を拒絶する長い長い「音」を持ってくる。
スチェバントロフィーモヴィッチヴェルホーヴェンスキーを
イワンイワノビッチイワノブさんが転がす

 この工夫はいいけれど、何か変わっていない? これはカタカナ難読症の私だけが感じることなのかもしれないのだけれど、それまでの「音」が「言ってみたくなる」(3行目)だったのに対し、これはどう? 一読して言える音? 言えるようになればそれでいいけれど、言えるようになる前に、「聞く」ための「音」になっていだね。
 「思う」ことによって、「思う」ことが挟まってしまったことによって、「音」の性質そのものが変わってしまった。

 あ、これでは、ことばの「音楽」が違ってしまう、と思ってしまうのだ。
 谷川俊太郎と比べてはいけないのかもしれないけれど、6日(土曜日)に、谷川俊太郎の「ぱぴぷぺぽ」というひらがなの音を聞いたあとなので、なんだかがっかりしてしまうのだ。こういう「音楽」の変質に出会うと。
 谷川の詩は、朗読する人は朗読する人で、かってに「音楽」を楽しむ。読む、声に出すという楽しみを一貫して持っている。聞く人は聞く人で、ずーっと聞く楽しみを味わいつづけ、あんまり楽しいので、次は自分も声に出してみようかな、谷川の朗読の声にあわせて声を出せるかな、と引き込まれる。無意識の内に「合唱」してしまう。
 でも、平野の詩では、それはむり。「思い」がねじまげてしまった「音」には、平野の作為しかない。
 「スチェバントロフィーモヴィッチヴェルホーヴェンスキー」が「合唱」になるためには、それに先行する行で、「ヴァヴィヴゥヴェヴォ」「チャチュチョ」「シャシュショ」などの「音」が見え隠れしていないと……。
 この「転調」は強引すぎる。
 「転調」にどうしても「頭」というものを感じてしまうのだ。「頭」の存在を感じてしまうのだ。
 それは最後にもあらわれる。

マチュピチュはこそばゆい
ペペハラミジョってなんか可笑しい
ヒラノヒロシってなんか可笑しい

 最後の行は、「平野宏」をわざわざカタカナにして「音」を装っている。「マサイマラ」の「マラ」を漢字にして「失敗した」と言っていたので、今度は逆にしてみました--ということなのかもしれないが、「ヒラノヒロシ」って、ほんとうに「音」?
 「マチュピチュ」も「ペペハラミジョ」も固有名詞で、単なる「音」ではないが、その存在はまず「音」として入ってくる。そのあとで固有の存在がやってくる。ところが「ヒラノヒロシ」は? 逆じゃない? 固有の人間がいて、それに対して親が「ひらのひろし」と名づける。「音」はあとからやってくる。「マチュピチュ」も「ペペハラミジョ」も、もちろん人間が「名づけ」たものだけれど、そのあらわれかたは、平野にとって「ヒラノヒロシ」という音のあらわれかたと同じ? 違うでしょ?
 ここにあるのは「音」を装った「カタカナ」だね。「思う」によって「音」が変わってしまったように、最後は「視覚」によって強引に「音」がゆがめられている。そこでは「発声器官」は動かないことによって、「視覚の音楽」が捏造されている。
 ほんとうに「視覚の音楽」が狙いなら、もっと違う形じゃないと、たんなる「だまし」に終わってしまう。
 「頭の作為」というのは、実は、「頭」を「肉体」としてつかわないということでもあるんだなあ、とも思った。平野は「音」を書きながら、ほんとうは発声器官をつかわずに最後の行を書いている、と思った。
 こういう作為は、私は嫌いだ。

 
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