詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉「山鳩」

2010-03-14 08:29:30 | その他(音楽、小説etc)
志賀直哉「山鳩」(『志賀直哉小説選 三』岩波書店、昭和62年05月08日発行)

 きのうの志賀直哉を読んだつづき。ついつい、ページをめくってしまった。「山鳩」は書き出しに惹かれた。

 山鳩は姿も好きだが、あの間のぬけた太い啼聲も好きだ。

 ででっぽっぽー、と思わず書いてしまう。カタカナでは、間のぬけた感じがしなくなるからだが、そういう感覚の奥へ深く入り込んでくることばの、短く、剛直な感じがとてもいい。「あの」ということばもいいなあ。山鳩の鳴き声は誰もが知っている。だから「あの」なのだが、「あの」によって、有無を言わさず鳴き声を思い出させる力がある。
 この書き出しの1行だけで、この短編は読む価値があると思うが、最後もまた、とてもおもしろい。
 熱海の山荘は山の中にある。山鳩が2羽で飛んでいるのをよく見る。あるとき、福田蘭童がやってきて、猟をした。獲物は山鳩など、野鳥である。翌日、2羽で飛んでいるはずの山鳩が1羽で飛んでいる。「気忙(きぜわ)しい感じ」で飛んでいる。どうやら福田が撃ち落としたのは志賀が見ていた2羽のうちの1羽らしい。
 次の猟期。

 可恐(こはい)のは地下足袋の福田蘭童で、四五日前に来た時、
 「今年は此辺はやめて貰はうかな」といふと、
 「そんなに気になるなら、残つた方も片づけて上げませうか?」
と笑ひながら云ふ。彼は鳥にとつては、さういふ恐しい男である。

 なんだか笑ってしまうのだが、最後の「恐しい」ということばが、とてもいい。あ、「恐ろしい」ということばはこんなふうに使うんだ、と奇妙に(奇妙に、というのも変だけれど)納得してしまう。
 書き出しの「あの間のぬけた」も同じだが、誰もがつかっていることばなのに、それがぴったりと文章におさまって、動かない。それ以外のことばが考えられない。独特の、ことばの定まり方である。
 志賀直哉は名文家である--というあたりまえのことを、あらためて思った。



志賀直哉小説選〈3〉
志賀 直哉
岩波書店

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小林稔「髀肉之嘆(ひにくのたん)」

2010-03-14 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 小林稔「髀肉之嘆(ひにくのたん)」(「ヒーメロス」13、2010年03月05日発行)

 小林稔「髀肉之嘆」のことばには「既視感」がある。

私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。

私が読み耽る書物は乱丁ばかりであった。

私の歩みは追憶に過ぎぬのであれば足跡と呼びうるものをうしろ向きに消していくことであろう。

 技巧的な短編小説にでてきそうなことばばかりである。
 でも、この既視感は、この作品の場合、欠点ではなく、長所となっている。
 タイトルの「髀肉之嘆」は「故事」。戦場に行けない日々がつづいて、ももの肉がついて太ってしまうことを嘆くこと。小林は、その「故事」をいわば語りなおしている。独自の「物語」を重ね合わせることで、換骨奪胎という語り直しをやっている。
 そういう「既成の物語(故事)」へむけて、ことばを動かすときのことばは、「新しい」ものであるより、「聞いたことがある」方がいい。「聞いたことのあることば」の方が「うそ」というか、「故事」というか、つまり「いま」「ここ」にあることではないということが明確になるからだ。(「うそ」とは「いま」「ここ」にないことを語ることばである。そして、「故事」とは「いま」「ここ」ではないできごとである。「いま」「ここ」にはない、ということでいえば「うそ」と「故事」は重なり合う。)
 「新しいことば」では、それが「うそ」か「ほんとう」かわからない。安心できない。「うそ」か「ほんとう」かわからないということは、「故事」が「故事」でなくなってしまうということである。そこで語られることが、新しい「事件」(できごと)になってしまうことである。「新しさ」、「新しい生々しさ」が、読者を(私を)、「新しい物語」へひっぱっていく。「物語」はそのとき「故事」ではなくなる。それでは、わざわざ「故事」を冒頭にかかげる必要はない。

 「故事」には新しくないことばが必要なのだ。

 でも、もし、そうであるなら、なぜ、この作品は書かれなければならないのか。この作品が「詩」である理由は何なのか。新しいことばがまったくない作品、既視感のあることばをただ積み重ねるだけの作品が詩になりうるのか。

 実は、ひとつ、「新しいことば」がひそんでいる。小林は一回だけ書いている。

 遠い日の木霊であった貧者の私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。

 「思う」。これが、新しい。そして、その「思う」が小林の「肉体」であり、「思想」である。
 なぜ、「思う」が思想なのか。
 少し脱線してみる。
 日本の昔話の、はじまりの定型。「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」これは、いわば「うそ」のはじまりである。「いま」「ここ」とは関係ないことの「はじまり」のことばである。これから語られるのは「いま」「ここ」とは関係ないこと、つまり「うそ」がはじまります、と宣言することばである。
 もし、これに「思う」がついていたら、どうなるだろう。
 「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいたように思う。」
 とたんに「うそ」が消えてしまう。
 そのあと、どんな「物語」がはじまろうが、それは、常に「思う」をひきずってしまう。どんなに奇想天外のことが起きようが、それは「思ったもの」(思われたことがら)である。
 そして、そこには、「思う」という「真実」だけがある。
 これは「故事」についても同じである。小林はこの作品で、戦場に行かないために、ももの肉が肥えてしまったことを嘆くという「故事」を語りなおしているのだが、それに「思う」を追加した瞬間から、そこに書かれていることがらではなく、ただ「思う」ということばだけが存在するのだ。

 「思う」ことだけが、人間の存在意義なのだ。

 「思う」ということばを印象づけるために、小林は、あえて既視感のあることばを書きつらねるのだ。「思う」は一回しか登場しないが、それは、小林があえてそうしているのである。ほんとうは、あらゆることばの最後に「思う」が存在しているが、そのことに気がついているか、と小林は問いかけているのかもしれない。
 「思う」というこころの動き--それは「真実」としてゆるぎがない。小林の書きたいのはそれなのである。「思う」ことのゆるぎなさ。「我思う、ゆえに我あり」とは小林のためのことばかもしれない。
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