水島潮香「もちのひ」(「こどもの詩」読売新聞2010年03月08日朝刊)
「現代詩」は「わざと」ことばを動かす。ことばがどこまで動かせるか、自由に動ける力をことばのなかからどれだけ引き出すか――そういうことを試みる。
一方、「こどもの詩」にあるのは、「わざと」ではない。ほんとうは「間違っている」のだけれど、その「間違い」が、おとなの視線を洗い流すというものがある。花びらに残った雨粒を見て、「お花が泣いている」というようなもの。私は、そうした「いい間違い」の詩は好きではない。時に、おとなの「作為」が入り込んだ作品があるからだ。「比喩」、それも「美しい比喩」を「あ、いいな、いいな」と評価することで、「こどもは純粋で美しい」という視線でこどもを固定化してしまいそうな気がするからである。
また、そうしたものとは別のものもある。「比喩」ではなく「事実」の発見がある作品。そんな作品に出合ったとき、私は嬉しくなる。
水島潮香「もちのひ」には「事実」の発見がある。
長田弘は「一つぶ一つぶの小さがお米が何つぶ集まって、あんなになめらかな一つのお餅になるのだろう?」と書いている。
あ、私の感じていることと違っている。(笑い)
長田の書いている「事実」はすごく「科学的」。いいかえると「教科書的」。これって、おもしろくない。
私は、小さな米粒が集まって一つになった――と思わなかった。一粒が、機械でたたかれて(?)、成長して一個の餅になった。それが「すごい」と叫んでいるのだと「誤読」したのだ。私の理解の仕方は「科学的」あるいは「合理的」ではないのだが、「科学的」「合理的」じゃない方が、「発見」という気がしない?
私は、どうもあまのじゃくで、「科学的」「合理的」(教科書的)なことなら、ことばにする必要がないような気がしているのだ。
一粒の米が、機械の中で、どんどん大きくなって餅にあるって、ナンセンスで、面白くない? こんなむちゃくちゃ(?)、私には考えられない。だからこそ、それを「事実」として、受け止め、遊んでしまいたい。
「現代詩」は「わざと」ことばを動かす。ことばがどこまで動かせるか、自由に動ける力をことばのなかからどれだけ引き出すか――そういうことを試みる。
一方、「こどもの詩」にあるのは、「わざと」ではない。ほんとうは「間違っている」のだけれど、その「間違い」が、おとなの視線を洗い流すというものがある。花びらに残った雨粒を見て、「お花が泣いている」というようなもの。私は、そうした「いい間違い」の詩は好きではない。時に、おとなの「作為」が入り込んだ作品があるからだ。「比喩」、それも「美しい比喩」を「あ、いいな、いいな」と評価することで、「こどもは純粋で美しい」という視線でこどもを固定化してしまいそうな気がするからである。
また、そうしたものとは別のものもある。「比喩」ではなく「事実」の発見がある作品。そんな作品に出合ったとき、私は嬉しくなる。
水島潮香「もちのひ」には「事実」の発見がある。
すごい
きかいで
あんなにちいさな
おこめだったのに
まあるいおもちになりました
長田弘は「一つぶ一つぶの小さがお米が何つぶ集まって、あんなになめらかな一つのお餅になるのだろう?」と書いている。
あ、私の感じていることと違っている。(笑い)
長田の書いている「事実」はすごく「科学的」。いいかえると「教科書的」。これって、おもしろくない。
私は、小さな米粒が集まって一つになった――と思わなかった。一粒が、機械でたたかれて(?)、成長して一個の餅になった。それが「すごい」と叫んでいるのだと「誤読」したのだ。私の理解の仕方は「科学的」あるいは「合理的」ではないのだが、「科学的」「合理的」じゃない方が、「発見」という気がしない?
私は、どうもあまのじゃくで、「科学的」「合理的」(教科書的)なことなら、ことばにする必要がないような気がしているのだ。
一粒の米が、機械の中で、どんどん大きくなって餅にあるって、ナンセンスで、面白くない? こんなむちゃくちゃ(?)、私には考えられない。だからこそ、それを「事実」として、受け止め、遊んでしまいたい。