詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水島潮香「もちのひ」

2010-03-09 12:10:47 | 詩(雑誌・同人誌)
水島潮香「もちのひ」(「こどもの詩」読売新聞2010年03月08日朝刊)

 「現代詩」は「わざと」ことばを動かす。ことばがどこまで動かせるか、自由に動ける力をことばのなかからどれだけ引き出すか――そういうことを試みる。
 一方、「こどもの詩」にあるのは、「わざと」ではない。ほんとうは「間違っている」のだけれど、その「間違い」が、おとなの視線を洗い流すというものがある。花びらに残った雨粒を見て、「お花が泣いている」というようなもの。私は、そうした「いい間違い」の詩は好きではない。時に、おとなの「作為」が入り込んだ作品があるからだ。「比喩」、それも「美しい比喩」を「あ、いいな、いいな」と評価することで、「こどもは純粋で美しい」という視線でこどもを固定化してしまいそうな気がするからである。
 また、そうしたものとは別のものもある。「比喩」ではなく「事実」の発見がある作品。そんな作品に出合ったとき、私は嬉しくなる。
 水島潮香「もちのひ」には「事実」の発見がある。

すごい
きかいで
あんなにちいさな
おこめだったのに
まあるいおもちになりました

 長田弘は「一つぶ一つぶの小さがお米が何つぶ集まって、あんなになめらかな一つのお餅になるのだろう?」と書いている。
 あ、私の感じていることと違っている。(笑い)
 長田の書いている「事実」はすごく「科学的」。いいかえると「教科書的」。これって、おもしろくない。

 私は、小さな米粒が集まって一つになった――と思わなかった。一粒が、機械でたたかれて(?)、成長して一個の餅になった。それが「すごい」と叫んでいるのだと「誤読」したのだ。私の理解の仕方は「科学的」あるいは「合理的」ではないのだが、「科学的」「合理的」じゃない方が、「発見」という気がしない?
 私は、どうもあまのじゃくで、「科学的」「合理的」(教科書的)なことなら、ことばにする必要がないような気がしているのだ。
 一粒の米が、機械の中で、どんどん大きくなって餅にあるって、ナンセンスで、面白くない? こんなむちゃくちゃ(?)、私には考えられない。だからこそ、それを「事実」として、受け止め、遊んでしまいたい。





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キャスリン・ビグロー監督「ハート・ロッカー」(★★)

2010-03-09 12:00:00 | 映画


監督 キャスリン・ビグロー 出演 ジェレミー・レナー、アンソニー・マッキー

 ふと、「バックドラフト」を思い出してしまった。消防隊員の映画。消火が仕事なのだけれど、その仕事を選んだのは、火が好きだから。火事は起きない方がいいけれど、火事がないと仕事がない。好きなものが、ない……。
 「ハート・ロッカー」はイラクにおける米兵を描いている。主役の男の任務は爆弾処理。彼もまた、爆弾が好きなのだ。間違えれば爆発する。爆発はあらゆるものを破壊する。その「力」が好きなのだ。
 主人公そのものの描写ではないけれど--彼が登場する前の描写だけれど。
 前任者が爆弾処理の過程で死亡する。そのときの映像が「美しい」。爆風によって、こわれた車の上の埃、錆がびりびりびりっと震える。震えながらはがれる。そして、爆弾が炸裂するとき、いっしょに飛び散る。背後で、土が噴水のように噴き上がり、処理に当たっていた男も吹き飛ばされる。
 ひんしゅくをかってしまうに違いない譬えなのだが、あの9・11のツインタワーのビルの崩落の映像のように、私は、それに引き込まれてしまう。そこには「美」がある。
 主人公が実際にそういう「美」について語るわけではないが、監督が主人公の登場の前に、そういう「美」を提出するのは、この映画の基本に、爆弾の「美」があるからだ。
 主人公がひとりで爆弾のうまっている場所へ突き進んで行くときの、不思議な高揚感。それに酔っているような足どり。他人を無視して、自分だけの世界に没入する、その喜び。危険だから、だれもやってこない。世界を独り占めする感覚。そのとき、主人公はひとりの人間ではなく、1個の爆弾なのかもしれない。自分自身を爆弾と感じているのだろう。そういう異様さが映像に満ちている。
 1個、と思って地中に埋まっている爆弾を処理したあと、その爆弾のリード線(?)をひっぱると何個もの爆弾が、地中からずるりと出てくるシーン、そして、それを恍惚の表情で眺める主人公にも、爆弾の、その力を「美」と感じる本能のようなものを感じる。スクリーンは、兵士が異動するとき、しきりに手振れするのに、爆弾の処理のときは、全体的な強さで固定され、その固い映像のなかで、導線が切断され、信管が取り外される。そのとき、爆弾の「力」が主人公に乗り移り、彼自身が「爆弾」そのもの「美」になってしまう。
 だからこそ、主人公自身は、爆発を防いだときの爆弾の部品を大事にコレクションしている。爆弾に対する「偏愛」がある。その「偏愛」と、彼が登場する前のシーンが、私には重なって見える。
 でも、その「偏愛」が、「人間爆弾」の少年の死体から、プラスチック爆弾を取り出すところまでいってしまうと、うーん、醜悪だなあ。理解を超える。一方で、「人間爆弾」に仕立て上げられた少年を愛し、一方でその死体を切り開いて爆弾を取り出し、それを持ち帰るというのは、私にはわからない。
 命懸けのきびしい任務のなかで、主人公の性格が変わっていく。主人公が爆弾処理にのめりこんで行く、爆弾しか愛せなくなって、ふたたび戦場にもどるしかなかった。この人間のむごたらしい変化を、戦争告発するものとしてとらえなおせば、それはそれで意味を持つかもしれないけれど……。
 私は、この映画には与することはできない。
 帰国し、温かい家庭に帰ったはずの兵士が、ふたたびイラクにもどってしまうシーンを、実際に爆弾処理の任務にあたったアメリカ兵はどんな気持ちでみつめるだろう。
 人間の悲しさ、弱さを、どこかで、この映画は踏みにじっていないだろうか。


 
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テラサキミホ「くどがんしょ」

2010-03-09 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
テラサキミホ「くどがんしょ」(「酒乱」4、2009年02月04日発行--奥付の間違い?)

 テラサキミホ「くどがんしょ」は方言で書かれた詩である。

泣がんしょやれ
泣がんしょよ
清々(せいせ)となるまで吐ぎださんしょよ
私(オレ) あんだの愚痴(くどぎ)
笑わねいぞ
まっつぐ聴ぐたげ
笑わねぞい

 ここに書かれている「濁音」は美しい。私は昔から清音よりも濁音の方が豊かで美しいと感じていたが、こういうことばを読むと、その美しさが「発声器官」に広がる。
 映画「フラガール」では映画のなかに出てくる少女たちが「私」を「オレ」と言っていた。その映画の役者たちのことばが、どれだけ忠実な方言になっているかわからない。私が聞いたことがある「私」を「オレ」と発音する方言はそれだけである。だから私は、実際の「音」がどんなものか、知らない。私の「耳」は、ここに書いてある文字を読んでも、その「音」を聞き取ることはできない。
 けれど。
 私の発声器官(喉、舌、口蓋、鼻腔)などは、その「音」をたどろうとする。そして、そのとき、「もっと泣きなさい」というときの「声」とはちがった部分が動く。肉体にかかる圧力がちがう。それは、喉とか、舌とかだけではなく、体全体にかかる圧力のちがいとして、体全体を組み立てなおす感じである。
 そういうことがあるので、たとえば「泣がんしょやれ」の「が」は鼻濁音ではなく破裂音なのだと思うけれど、その破裂音の「が」さえも、なんだかこころを揺さぶるのである。

 あ、きっと、何を書いているか、わからないなあ。私自身、どう書いていいのかよくわからないので、それはまあ、しようがない。

 濁音を発音するとき、私は、その音が体の外へ出ていくと同時に、発声器官にせきとめられて、肉体の内部へ音が帰ってくる感じを覚えるのだ。「泣がんしょやれ」の「が」の破裂音さえ、鼻濁音が鼻腔のなかでやわらかく響きあうように、体の内部の何かと共振しているのを感じるのだ。
 清音では、すべての音が体の外へ出てしまって、体のなかに何もたまらない。けれども、濁音の場合は、何かが発声器官に押しとどめられて体のなかにたまる。そのたまったものが、次の濁音のとき、共鳴して、濁音そのものを豊かにする。

 なんといえばいいのだろうか。

 言い残したものがある。だれでも何かを言おうとして、そのすべてを言い切れない。その言い切れなかったものが、不透明なまま、体のなかにたまりつづける。濁音は、そのたまりつづけた何かと共鳴して、不透明な音を響かせる。その不透明さのなかに、不思議な豊かさ、不透明であることの美しさを感じる。

 それは、この詩に書かれていることとも通じる。泣く、愚痴をこぼす。そして、そのことばは「濁る」--つまり、まじりあって、今までは存在しなかったものになる。ほんとうはちがうものかもしれないものが、同じ「音」のなかでとけあって、たとえば「愚痴(くどぎ)」は「口説き(くどぎ)」になる。
 あ、そうなのだ。愚痴を言うことは、自分の愚痴の正しさを、口で説明しているのだ。「わかってください」と訴えることが「愚痴」なのだ--そんなことが、瞬間的にわかる。肉体が、それを納得する。
 不透明さがことばを「ひとつ」にするのだ。その「不透明さ」のなかにこそ、詩があるのだ。

 あれこれ書いても、きっと何も書いたことにならないなあ。「愚痴」と「口説く」が融合する、2、3連目を引用しよう。

のぼせだがい
おだったがい
なんたべ ほれもいいごどだべした
私(オレ) あんだの口説き(くどぎ)
笑わねよ
ほれぼれ聴ぐたげ
笑わねよ

おらほのまじない
「口説キ(くどぎ) 愚痴レバ(くどげば)
              愚痴レド(ぐどげど) 口説ケ(くどげ)」
ほりゃ 口動(くっちゃい)がせ バカ(ばが)になれ
良いんだて ほんじも生ぎられる
唱えつづげで まんま
死なっちゃら
御の字ばんばん 極楽(ごくらぐ)だ

 あとは、「酒乱」で読んでください。私は黙読しかしないが、その黙読のなかで、「音」が肉体のなかに沈み込み、浮かび上がり、だんだん体が軽くなる。つまり(変かな、この「つまり」は……)、こころが軽くなる。
 ただ、声に出して、ことばにならないこと、愚痴にしかならないくだくだを言ってしまえばいい。ことばにしてしまえば、ことばにならなかったことも、きっと解放されて透明になる。発せられたことばが不透明であればあるほど、何かが透明になる。

 そんなことを思った。

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