監督・脚本 ロベール・ブレッソン 出演 フランソワ・ルテリエ
ナチスに囚われたフランス人中尉が独房から脱出する。そのときの様子をたんたんと描いている。スプーンの柄をコンクリートの床でこすって鑿を作る。その鑿で、ドアの扉のはめ込み板を少しずつ削る。削ったあとには、紙を汚して詰め込み、削ったことが発覚しないようにする。割れてしまった板をぐいと押しつけてもどす。割れ目(ひび?)の板の白い部分をちびた鉛筆で黒くする。目立たなくする。差し入れの衣類を引き裂いて、脱出用のロープをなう。そのままでは弱いので、芯には、ベッドの金網をほぐしてつかう……。
こういうことが、ただただ描写される。
途中に、他の囚人たちとのやりとりもはさまるが、そこでの会話はほとんどない。排泄物を捨て、顔を洗うときのほんの一瞬に短い会話がおこなわれ、メモがやりとりされる。その程度である。
いよいよ脱出--という寸前に、少年が独房につれこまれる。彼はほんとうに反ナチスなのか。それともナチスのスパイなのか。この緊迫感というか、このときの苦悩が唯一苦悩らしいものだが、あとは、ほんとうにひたすらたったひとりで脱出の準備をする。その手順、何をしたかが克明に描かれるだけである。
ところが、とてもおもしろい。映像に引き込まれてしまう。
「海の沈黙」に手が物語る、というせりふがあった。ことばにならないことばを手の無意識の動きが語る、ということだが、この作品でも手が語る。それは手の仕事が語るということでもある。人間は手で仕事をする。その事実が、とても生々しく伝わってくる。
ドアの板の隙間を少しずつ削る。それをするのが手なら、その削り取った板くずを集め、隠すのも手である。削るときは力を込め、集めるときは一かけらももらさないように静かに動く指。フランソワ・ルテリエは手で演技する。指の動き、指といっしょに動く腕の筋肉--そのひとつひとつが、ことばよりも雄弁である。
最後も非常におもしろい。
いよいよ脱出する、独房の外へ出る。すると、そこで初めて聞く「物音」がある。この映画に音楽はない。(なかったと、思う。脱出のときの、じゃりを踏みしめる足音をたてないように気を配る動き--そういうものも、この映画には「音」がないということを強く印象づける。)その「音」のない映画に、何かわからないが、規則的なキーキーという音が入ってくる。主人公にもわからないが、観客にも何かわからない。
屋根の上から音のありかを覗くと……。ナチスが自転車を見回りをしているのだ。何度も何度も同じところをまわっている。その錆びついた自転車の音である。自転車であるから、その往復は歩くときに比べて格段に早い。見張りが離れた隙に--ということが不可能に近くなる。
どうしようと、何時間も悩む。何をするでもなく、ただ悩む。そして、 4時の時計の音を聞いた瞬間、悩んでいてもしようがない、と決断して、屋根から屋根へ手作りのロープを張りわたし、それをつたって脱出する。
これは、あっと言う間。
その、あっという間のリズムが、なんとも不思議で、なんとも美しい。そこに、もう一度山場をもってくるとか、スローのアップで観客をどきどきさせるとか、そういうあざとい演出がない。前半のスプーンを研いで鑿をつくるような時間の停滞がない。
そのまま、さーっと緊張感から解放される。
あ、映画というのは、映像のリズムなんだなあ、とほれぼれしてしまう。靴もなく、靴下だけで、夜明け前の道を歩いていく主人公と少年。その後ろ姿の、まるまった背中、足早の、けれどけっして走らないスピード感、そのときの肉体の興奮がとてもいい。
「午前十時の映画祭」で「大脱走」が再上映されているが、「大脱走」があくまで「大」であるのに対し、この映画は「大」を完璧に拒否し、「脱走」を肉体そのものに還元している。なまなましくて、美しくて、はるかに夢がある。
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