詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロベール・ブレッソン監督「抵抗 死刑囚の手記より」(★★★★)

2010-03-31 11:38:33 | 映画


監督・脚本 ロベール・ブレッソン 出演 フランソワ・ルテリエ

 ナチスに囚われたフランス人中尉が独房から脱出する。そのときの様子をたんたんと描いている。スプーンの柄をコンクリートの床でこすって鑿を作る。その鑿で、ドアの扉のはめ込み板を少しずつ削る。削ったあとには、紙を汚して詰め込み、削ったことが発覚しないようにする。割れてしまった板をぐいと押しつけてもどす。割れ目(ひび?)の板の白い部分をちびた鉛筆で黒くする。目立たなくする。差し入れの衣類を引き裂いて、脱出用のロープをなう。そのままでは弱いので、芯には、ベッドの金網をほぐしてつかう……。
 こういうことが、ただただ描写される。
 途中に、他の囚人たちとのやりとりもはさまるが、そこでの会話はほとんどない。排泄物を捨て、顔を洗うときのほんの一瞬に短い会話がおこなわれ、メモがやりとりされる。その程度である。
 いよいよ脱出--という寸前に、少年が独房につれこまれる。彼はほんとうに反ナチスなのか。それともナチスのスパイなのか。この緊迫感というか、このときの苦悩が唯一苦悩らしいものだが、あとは、ほんとうにひたすらたったひとりで脱出の準備をする。その手順、何をしたかが克明に描かれるだけである。
 ところが、とてもおもしろい。映像に引き込まれてしまう。
 「海の沈黙」に手が物語る、というせりふがあった。ことばにならないことばを手の無意識の動きが語る、ということだが、この作品でも手が語る。それは手の仕事が語るということでもある。人間は手で仕事をする。その事実が、とても生々しく伝わってくる。
 ドアの板の隙間を少しずつ削る。それをするのが手なら、その削り取った板くずを集め、隠すのも手である。削るときは力を込め、集めるときは一かけらももらさないように静かに動く指。フランソワ・ルテリエは手で演技する。指の動き、指といっしょに動く腕の筋肉--そのひとつひとつが、ことばよりも雄弁である。
 最後も非常におもしろい。
 いよいよ脱出する、独房の外へ出る。すると、そこで初めて聞く「物音」がある。この映画に音楽はない。(なかったと、思う。脱出のときの、じゃりを踏みしめる足音をたてないように気を配る動き--そういうものも、この映画には「音」がないということを強く印象づける。)その「音」のない映画に、何かわからないが、規則的なキーキーという音が入ってくる。主人公にもわからないが、観客にも何かわからない。
 屋根の上から音のありかを覗くと……。ナチスが自転車を見回りをしているのだ。何度も何度も同じところをまわっている。その錆びついた自転車の音である。自転車であるから、その往復は歩くときに比べて格段に早い。見張りが離れた隙に--ということが不可能に近くなる。
 どうしようと、何時間も悩む。何をするでもなく、ただ悩む。そして、 4時の時計の音を聞いた瞬間、悩んでいてもしようがない、と決断して、屋根から屋根へ手作りのロープを張りわたし、それをつたって脱出する。
 これは、あっと言う間。
 その、あっという間のリズムが、なんとも不思議で、なんとも美しい。そこに、もう一度山場をもってくるとか、スローのアップで観客をどきどきさせるとか、そういうあざとい演出がない。前半のスプーンを研いで鑿をつくるような時間の停滞がない。
 そのまま、さーっと緊張感から解放される。
 あ、映画というのは、映像のリズムなんだなあ、とほれぼれしてしまう。靴もなく、靴下だけで、夜明け前の道を歩いていく主人公と少年。その後ろ姿の、まるまった背中、足早の、けれどけっして走らないスピード感、そのときの肉体の興奮がとてもいい。

 「午前十時の映画祭」で「大脱走」が再上映されているが、「大脱走」があくまで「大」であるのに対し、この映画は「大」を完璧に拒否し、「脱走」を肉体そのものに還元している。なまなましくて、美しくて、はるかに夢がある。




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鈴木正枝『キャベツのくに』

2010-03-31 00:00:00 | 詩集
鈴木正枝『キャベツのくに』(ふらんす堂、2010年03月08日発行)

 「四月」という作品がある。その書き出し。

埋めました
護ろうとして
護りたかったから
同時に
私も埋まりました

 この「同時に/私も」に鈴木正枝の「思想」が結晶していると思う。「同時に/私も」の「も」が、特に印象に残る。「私は」ではなく「私も」。常に何かによりそう。それは、この詩のことばを借りて言えば「護る」ということになる。自己主張ではなく、自己がなくなってもいいと覚悟して、他者によりそい、他者を護る。そのとき、他者は護られ、同時に「私も」護られる。私のなかで護りたかった「私」が護られる。
 「も」をとおして、「私」は「ほんとうの私」を発見する。
 護りながら、護られる。そして、あたらしい自分(ほんとうの自分)を見つけ出し、生きはじめる。そのこと、その相互作用のようなものに感謝をこめながら、鈴木はことばを動かしている。そう感じた。

 「四月」は、たぶん球根を埋める、球根を育てるという詩である。球根を土に埋める。冬のあいだは土にうまっている。そのあいだも球根は生きている。そして、

温度が上がり光が満ち
護られていたはずのものがざわめきだし
ぶつかり合いながら
地表に飛び出してしまったのです
我慢できずに
光の中にみるみる拡散していく
膨大な不安
忘れたふりさえできなくなりました
見守っていたのです
ひと時も眼を離さずに
飛び散った芽が伸び茎になって
やがて花は咲く
のどの奥は
いまにもつぶれそうなほどの悲鳴で
いっぱいです

 これは、四月になり、芽を出し、茎をのばし、花を咲かせるチューリップか何かを比喩的に書いたものだと思って読むと、情景がわかりやすくなる。
 ただし、それは単なるチューリップではない。チューリップになった「私(鈴木)」でもある。
 チューリップがその球根の中に護っていたいのち、それが春になって騒ぎだし、芽を出し、茎をのばし、花を開く。そのとき、鈴木が鈴木の肉体のなかでまもっていた愛が、ふとざわめきだす。外へ出たがる。そして、実際に外へ出てしまう。こころが肉体を捨てて、あふれだしてしまう。あふれだしたこころは、肉体を離れてしまって、不安である。不安はどこまでも広がる。そして、愛は不安を内部に秘めているから輝く。不安の形で花開きながら輝く。
 その不安によりそう肉体。肉体が、その不安によりそうとき、肉体の中に不安が育つ。それはのどまであふれてくる。のどは悲鳴でいっぱいになる。けれど、声は出ない。声にならないものを秘めて、肉体はそのとき輝く。
 「も」のなかで、鈴木はチューリップと一体になる。区別がつかなくなる。姿形は鈴木とチューリップは違うけれど、ことばのなかで、ひとつになる。そのときの大切なことばが「も」なのだ。

 鈴木の作品は、そこに「私も」ということばがないときがある。ないときがあるけれど、ほんとうは、それは隠れているだけである。「私も」を補ってみると、鈴木という詩人がとてもよく見えてくる。
 たとえば「にんげん」。

美術館に
大きなにんげんが届いたので
自転車をとばして
毎日見に行く
今日は少し動いただろうか
かっちりと粘土で固められたにんげんは
背筋をまっすぐに伸ばし
右手を少し挙げて
立っている
堂々と
影もちゃんと立っていいるんだ
ガラス戸の反対側の
同じ位置に
同じ傾斜で太陽をあびて
大きいねえ 山のよう
動かない
ちょっとだけ触ってごらん
こんなに堂々と
こんなになったかいんだよ にんげんだからね
同じかたちを真似して並んでみると
同時に私も
にんげんになった気がする
立っている気がする

 終わりから3行目、「同時に私も」は、鈴木の詩にはない。私がかってに挿入してみたものだ。かってに挿入してみたものだが、私はここに、鈴木の、ことばにならなかったことば「同時に/私も」があると実感してしまう。
 鈴木はもちろん最初から人間なのだが、美術館にやってきた彫像(にんげん)に触れることで、その彫像が具現化している「堂々」を自分のものにするのだ。ここでは「四月」とは逆に、「にんげん」が鈴木(私)を護るもの、よりそうものなのだが、よりそえば、どちらがどちらによりそっているということは問題ではなくなる。互いによりそい、互いに支えあい、互いに育っていく。単によりそうだけではなく、「触れば」なおさらである。
 ところで、その「触る」だが、「大きいねえ 山のよう/動かない/ちょっと触ってごらん」は、誰が誰に対して言ったことばか。鈴木は誰かといっしょに美術館へ行ったとは書いてはいない。ひとりで言っているのだ。
 この「触ってごらん」は鈴木が、鈴木の内部にいる「私」に向かって言っている。そして、その「にんげん」に触るのは、鈴木のなかの、まだ「にんげん」になっていない(人間の自覚のない)「私」である。その「私」が「にんげん」に触ることで、それまでの「私」を突き破って、外に出てくる。チューリップの球根から芽が出て、茎が伸びて、花が咲くみたいに。そして「にんげん」になって、そこに立つ。

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