詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェイソン・ライトマン監督「マイレージ、マイライフ」(★★)

2010-03-21 13:21:14 | 映画

監督・脚本 ジェイソン・ライトマン 出演 ジョージ・クルーニー、ジェイソン・ベイトマン、ヴェラ・ファーミガ
 


 出だしはたいへん快調である。小さなキャリーバッグにカッターシャツ、ネクタイ、下着などをてきぱきと詰め込む。バッグをひっぱり歩く。曲がり角。くるっ、くるっ、と最短距離で曲がる。キャリーバッグの扱いになれている。
 それもそのはず。年間320 日も出張している。ジョージ・クルーニーの仕事は、リストラ宣告である。リストラ宣告ができない気の弱い(?)上司にかわって、代理でリストラを宣告する。(へえっ、こういう仕事があるんだ。)そういう非情な仕事を、毎日毎日テキパキとこなしている。その具体的な「日常」として荷物のパッキング、キャリーバッグの使いこなしがある。こんな具合に「日常」が正確に描かれると、映画はとても活気づく。細部のアップから、生活そのものがあふれてくる。
 バーで知り合った無数のカード(優待カード)を互いにみせびらかしあって、意気投合するシーンなんかにも、その「異常」が「日常」にかわってしまう感じを絶妙に表現している。
 ジョージ・クルーニーの甘い顔、笑顔、それに丸みのある声が、非情な(異常な)仕事とアンバランスで、とてもいい。仕事の非情さ(異常さ)を隠し、非情を「日常」に変えてしまう。そこでは「異常」であればあるほど、それが「日常」なのだ。観客ができないこと、しないことが「日常」なのだ。

 「仕事を失うと、こどもから尊敬されなくなる」と訴える社員に、クルーニーは次のようなことをいう。
 そこで語られることも、一種「異常」なのだけど、クルーニーの顔からこぼれるようなひとなつっこい目が、それを「日常」に変えてしまう。(クルーニーの目を思い出しながら読んでください。)
 「こどもたちがスポーツ選手にあこがれる(尊敬する)のはなぜ? 夢を追っているからだ。あなたは、仕事をうしなうと尊敬されないというけれど、いまでも尊敬されていないのでは? 夢を追っている姿をみせていないのでは? あなたには夢がありませんか? フランス料理をつくること、シェフが夢なのではないですか? この会社にはいる前に、フランスまで行って修行している。いまこそ、その夢に向かって前進するチャンスなのではないですか?」
 あ、すごいですねえ。ぐぐっときますねえ。フランス料理をつくることはできないけれど、シェフが夢ではないけれど、そうか、夢を実現するチャンスか……。説得されてしまいますねえ。
 説得というのは、「異常」事態を「日常」として受け入れることなんですねえ。

 でも、おもしろいのは、このあたりまで。
 後半は、いったい何をやっているの? 奇妙な家族愛という「日常」がクルーニーの「異常」を告発しはじめる。ぜんぜん、おもしろくありませんねえ。映画なんて、どっちにしろ絵空事。「日常」で批判されたくないなあ。映画を見るのは、映画でしかありえない「異常」が「日常」に侵入してきて、「日常」を活性化してくれるから。ただ、それだけである。
 愛に気づくクルーニーなんて、おもしろくないねえ。せっかくの色男なんだから、色男ならこんなことができる。こんな勝手な生きかたができるという「夢」をくれなくっちゃあ。
 後半は、まあ、眠っていてください。

 でも、最後の最後、クレジットが流れているときだけは目を覚ましていてください。「異常」なことが起きます。そこに「夢」があります。本編のストーリーが終わったからといって席を立つひとは、この「夢」を知らずに映画館をでてしまうことになります。


グッドナイト&グッドラック 通常版 [DVD]

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志賀直哉(2)

2010-03-21 00:46:06 | 志賀直哉
志賀直哉「豊年虫」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)

 曲輪(くるわ)見物の部分に、次の描写がある。(正字体の漢字は、引用に当たって簡単なものに変えた。)

 新しい家(うち)は丈が高く間口が狭く、やくざに見え、古い家(いへ)は屋根が低く間口が広く、どつしりとしてゐた。

 「やくざ」ということばの使い方に、なるほど、と感じた。「どっしり」の反対。軽薄。安っぽい。きざったらしい。けばけばしい。きどった。……あれこれ、考えてみるが、なかなか「現代語」にならない。いま、私がつかっていることばにならない。ことばにならないけれど、志賀直哉が感じたものが直感的につたわってくる。
 こういう日本語に出会うと楽しくなる。

 車屋を急がせて、そばを食べたあとの描写。

 二度目の賃金を訊くと、御馳走になつたからと車夫は安い事をいつた。つまり貰ふべき賃金から蕎麦の代だけ引いていつてゐるのだ。その律儀さが可笑(をか)しくもあり気持よくもあつた。

 この「可笑しい」も、少し変わっている。おもしろい。こころを動かされる。すぐれている、かもしれない。そうなのだ。心根がすぐれている、という意味だろう。だから、それが「気持よい」。
 どんな文学も、それぞれの「国語」で書かれているが、それは「国語」であって、「国語」ではない。たとえば志賀直哉の書いている文章は、「日本語」という「国語」であるまえに、「志賀直哉」という「外国語」なのだ。
 そういうことばに出会ったとき、「日本語」は活性化する。動きだす。この瞬間が、私は好きだ。

 それから、「豊年虫」が畳の上でもがいている描写がある。

 見ると羽は完全だが、足がどうかして立てない風だつた。立つたと思ふと直ぐ横倒しになるので、蜉蝣は狼狽(あわて)てまた飛び立たうとし、畳の上を滑走した。そしてそれをどうしても離れないので、こんなに苛立つてゐるのだと思はれた。

 「それをどうしても離れないので」というのは非常にまだるっこしい感じがする。簡潔な描写が得意な志賀の文章にはふさわしくないような感じが一瞬するのだが、この部分が、私はこの小説のなかでは一番好きである。
 志賀は、ここでは蜉蝣を描写していない。客観的に見ていない。志賀直哉自身が、足の悪い蜉蝣になってもがいている。そのもがきながらの気持ち--どうしてもうまくいかない。その「どうしても」の気持ち。それが「苛立ち」にまっすぐにつながっていく。
 「どうしても」というのは、こんなふうにして使うことばだったのだ。




小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
志賀 直哉
新潮社

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北原千代「薬草園」

2010-03-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「薬草園」(「ばらいろ爪」創刊号、2010年03月21日発行)

 だれの詩でも、わからない部分がある。そして、そのわからない部分が一番おもしろい。いろいろなことを考えることができる。わからないので「意味」に縛られない。不思議な解放感がある。
 たとえば、北原千代「薬草園」。

-よく眠れますから-
薬草園の主人は言った
枯れた箒草と微かな息にもほどける綿毛
星形の花びらのひとつかみ
棒シナモンとワイン・・・
-いえ、あなたは調合など知らなくてよいのです-

飲みものは熱くひりつき喉元からふくらんでいった
ほんのすこし爪先で蹴りあげるとのぼっていった
わたしはのほっていった

 1連目は、「眠れない」と訴えた「わたし」(北原)に対し、薬草園の主人が特別な飲み物をつくってくれたということだろう。「かすかな息にもほどける綿毛」という魅力的なものも、ほどかれて、その飲み物には入っている。「星形のはなびら」のような、夢にでてきそうな美しいものも溶け込んでいる。
 それを飲んだときの、印象。「肉体」の記録としての2連目。
 熱いものが喉元でふくらむ。喉の粘膜から血管に直接染み込んでいくような描写のあとの、

ほんのすこし爪先で蹴りあげるとのぼっていった

 この1行が、とても美しい。
 「何が」のぼっていったのか。「どこへ」のぼっていったのか。2連目だけではわからない。わからないから、わかっていることをたよりにして、私の肉体は反応してしまう。
 温かい飲み物を飲んで、爪先で蹴りあげる。「なにを?」--「わたしを」。そのとき、「わたし」がのぼっていくことになるのだけれど、私には「わたし」より先に、「肉体」のなかにとけこんだ特別な飲み物そのものがのぼっていくように見える。感じられる。「どこへ?」「どこを」。「肉体」のなかを、たとえていえば「血管」のなかを。飲み込んだ温かい液体--それはまず「肉体」のすみずみにまで血管で運ばれる。「肉体」のすべてがあたたかくなり、ふくらむ。その「肉体」の一番はしっこの「爪先」。それを動かす。すると、その動きを逆流するように、血液の中のあたたかいもの、「肉体」のなかのあたかいものが、のぼってくる。「爪先」から「肉体」の上へ、上へとのぼってくる。そして、疲れた「頭」をあたたかくつつんでくれる。
 そうすると、そこに枯れた箒草、かすかな息にほどける綿毛、星形のはなびらというような、やさしいものが、「頭」のなかにも広がる。
 「肉体」のなかに広がったものが、「肉体」の印象をかかえたまま、「頭」を「肉体」の一部につつみこんでしまう。
 いいなあ、眠りに入っていくというのはこういう至福の時間だよなあ、と思う。



詩集 スピリトゥス (21世紀詩人叢書)
北原 千代
土曜美術社出版販売

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