神山倫『こころえ』(ミッドナイト・プレス、2009年06月25日発行)
「二つの円」という短い作品がある。
二つの円を
重ねると
多少のズレができる
このズレは
「孤独」じゃなくて
「あたたかさ」なんだ
完全な一致なんて
「無」に等しいだろう
神山の「主張」が凝縮している。3連目の2行は、神山がいいたいことのすべてだろう。でも、私は、この2行を「思想」とは思わない。感じない。抽象的すぎて、「肉体」がない。
けれども、私はこの作品に「思想」を感じる。あ、いいなあ、と思う。
それは、この詩には不思議な部分があるからだ。たとえば、1連目。
なぜ、二つの円を重ねるとズレができる? 半径10センチに設定されて、コンパスで描かれた円。それはいくつ重ねようとズレない。それが、だれの書いた円でもぴったり一致する。そうしないと「半径10センチの円」にはならない。また、たとえばパソコンのなかに半径10センチのハードディスクがあったとする。それは同じ機種のパソコンなら寸分の狂いなく半径10センチのハードディスクである。少しでもズレがあったら困ってしまう。
--と、書いてくるとわかるのだが、神山がここで書いているのは、数学の素材としての「円」ではない。教科書に出てくる円ではない。また、工業製品の設計図に出で来る円、それが商品化された円でもない。それは人間が書いた円、しかも手で書いた円である。ここには「手で描いた」ということが書いてないけれど、それが書かれていないのは、神山にとっては、あらゆる存在は「人間の肉体」をとうしてそこに存在するということが自明のことだからである。神山にはそのことがわかっている。わかりすぎているので、書かなかった。こういう、作者自身の「肉体」にしみついて、「肉体」になってしまっている「ことば」はけっして書かれることがない。作者にとって、それは「ことば」ではなく「肉体」だから、「ことば」として書くことができないのだ。(書くことがあるとすれば、そのことばを差し挟まないと、どうにも説明が不可能なときである。)
神山が描いているのは「人間が手で描いた円」である。だからこそ、2連目には、その「人間」の「こころ」が登場する。神山が描いた円をなぞるようにして、誰か(たとえば私)が円を描く。そこにはどうしてもズレが出る。神山の肉体の癖と、私の肉体の癖は違うから、完全に一致することはない。そうしたすれ違い、一致しない部分を「孤独」じゃない、とまず、神山は言う。このときから、神山は「円」を「比喩」(あるいは象徴)として語っている。「円」のかわりに、たとえばある本の感想を語り合う。あるできごとについて語り合う。そうすると、神山と私の感想は何かちがったものを含んでいて、そこが重ならない。ときには、そのズレから会話が弾まなくなるどころか、怒りが爆発することがあるかもしれない。そうすると、何か「孤独」のようなものを感じる。自分の感じていることがわかってもらえない寂しさ。こんなふうに感じ、考えるのは私だけなんだという寂しさが生まれるときがある。
でも、それは「孤独」じゃないんですよ。「あたたかさ」なんだよ、と神山は言う。
え、どうして? ひとと意見が合わなかったり、ときには喧嘩までしてしまう。ひとと一致しないことがなぜ「あたたかさ」?
わからないね。
その説明を、神山は3連目で、完全に一致すると「無」になる、と抽象的に書いているだけである。
そして、抽象的にしか書けなかったことを、実は、神山は他の試作品で少しずつ語っている。手書きの「円」のズレが少しずつであるのと同じように、具体的なことは少しずつしか語れない。
どんなふうにして、それを語るか。要約してしまうと、ちょっと味気なくなるかもしれないけれど、ひとが感じる「孤独」、その「孤独」を感じることができる力(肉体)こそが「あたたかさ」のはじまり、誰かにそっと触れはじめるはじまり、触れると、ほら「手から」相手のあたたかさが伝わってくる。そのとき、「わたし」のあたたかさも、きっと相手につたわる……。
そういうことの繰り返し。
誰かが円を手書きする。それに合わせて別なひとが円を手書きする。そのズレ。ズレをズレとして認めて(誰かと私はちがった存在である、それぞれに「孤立」している、と認識して)、そこからそのズレそのものへそっとは近づいていく。そうすると、そこに「あたたかさ」が生まれてくる。ズレそのものはあたたかくはないけれど、あたたかさが生まれる「場」なのだ。
「貼り紙」という作品では、そのことが行方不明になった老人、それをさがす家族を描くことで書かれている。
「おじいさんをさがしています」という貼り紙を神山は見つける。読む。それは最初の「円」。猫や犬でもないのに、こんな貼り紙ははじめて、と思う神山。そこに、もうすでに「円」のズレがある。やがて、貼り紙は破れ、神山はおじいさんのことを忘れる。ズレは大きくなる。そして、
しばらくたって
貼り紙が新しくなっていた。
《警察から遺体の身元確認の連絡がきました》
と書いてある。
となり町の歩道橋に倒れていたという。
おじいちゃんと悲しい対面になりましたが
家族としては結果がわかりほっとしています、
貼り紙を見て心配してくださった方たちには
たいへん感謝しております、
と書かれている。
新しい「円」が、また書かれた。それは最初の「円」に重ね書きされたものだけれど、はげしいズレがある。そして、そのズレのなかに「孤独」(かなしみ)があると同時に、家族の「あたたかさ」(くやしさも)がある。貼り紙を読んでくれたひと、心配してくれたひとがいると想像し、感謝するこころ(あたたかさ)がある。
この新しい「円」に神山は、また「円」を自分自身で書いてみる。
わたしは急に申し訳ない気持ちで一杯になって
その場で頭を下げた。
あ。
思わず涙が出てくる。
神山は何もできなかった。何もできなかったどころか、おじいさんのことを忘れさえした。家族の「円」と神山の「円」はズレるどころか、完全に分離してしまっていた。そのことを「申し訳ない」と思う。そして、頭をさげる。頭をさげることで、少しだけ「家族」に近づいていく。分離してしまった「円」を、もう一度重ね合わせようとする。重ならないことはわかっているけれど、その重ならない部分がせめてズレにまでもどるようにと頭をさげる。
そのとき。
私は思う。そのとき、「神山の円」と「家族の円」はズレているからこそ、あ、重なった、という感じが生まれる。コンパスで書かれた半径10センチの円なら、重なってもなんの不思議もない。けれど違っていたものが少しずつ近づいてゆき、違いが小さくなる。近づいてい行く瞬間に、あ、重なる、重なる、重なった、と「こころ」が叫ぶ。
そして、あたたかないなあ、と実感する。神山の「ことば」ではなく、頭を下げるという、神山の「肉体」そのものが。