詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(4)

2010-03-24 23:47:14 | 志賀直哉

 「池の縁」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)

 こどもの様子(ことば)を活写している。連作のうち「赤帽子・青帽子」。志賀直哉は気分屋で家族が困ったらしい。それで、気分がいいときは「青帽子」、悪いときは「赤帽子」をかぶって知らせてくれればいいのに、と家族が言い合っているらしい。それを聞いた9歳になる直吉が志賀直哉の顔色をうかがいながら、きょうは「赤かな? 青かな?」と志賀直哉の顔をのぞきこむ。
 そして、志賀直哉とあれこれやりとりをして、うるさがられる。
 それでも、直吉はやめない。
 
 「いまは青だが、おまえがさう煩さくすると直ぐに赤になるんだ」
 「さうかな? 少し笑つてゐるぞ。眼が笑つてゐるぞ。本統に赤の時は眼が笑はないよ」
 「煩さい。降りてろ。そろそろ桃色になつて来た」
 「笑はなくなつたな。笑はなくても未だ青らしいぞ」
 「本統によせ。さう煩くされると、青から一つぺんに赤くなるぞ」
 「早く帽子を作らないから悪いんだよ。さうすれば一々訊かなくても分つて便利なんだ」
 「だから口ではつきり云つてゐる」
 「それが嘘だつたら、どうする?」
 子供は程といふ事を知らない。
 「うるさい奴だ。男はさうべたべたするものぢやない」私は邪険に直吉を膝から押して降した。母や妻が笑つた。

 地の部分に、ぱっと1行書かれている「子供は程といふ事を知らない。」という1行が、非常に強い。地の部分なのだが、説明という感じがしない。それは、まるでその場にいあわせた母や妻に対して語った「大人向け」の会話のように聞こえる。声には出さなかったが、実際、志賀直哉は、母や妻に対して、そう言ったのだろう。
 そういう調子がそのまま生きているので、直吉と志賀直哉の「会話」のあいだに挿入されているのに、その会話の調子を壊さないのだ。「私は邪険に直吉を膝から押して降した。母や妻が笑つた。」という文章と比較すると、その違いがとてもよくわかる。
 これは、とても巧みだ。
 会話と会話のあいだの説明は会話の調子を維持すると、会話を邪魔しない、ということが常識かどうか知らないが、あ、うまい。すごい。と、ただ感心する。



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ガイ・リッチー監督「シャーロック・ホームズ」(★★)

2010-03-24 21:09:48 | 映画

監督 ガイ・リッチー 出演 ロバート・ダウニー・Jr、ジュード・ロウ、レイチェル・マクアダムス

 アーサー・コナン・ドイルの原作に同じストーリーのものがあるのかどうか、私は知らない。知らないのだけれど……。
 あ、映画で「文学」はやらないでくださいね。しかも「大衆文学」ではなく「純文学」は。武術家シャーロック・ホームズや、きっと「現代版」をつくりそうなストーリー展開は「大衆」向け風だけれど、映像の「文体」(映画では、なんていうのだろう)が、こってりとしています。
 影が単に影ではなく、闇につながっていくときの色調がスクリーン全体を多い、軽やかさがない。あえて、そういう「映像」に処理しているのだけれど、こういう色調の統一の仕方は私はあまり好きではない。だって、簡単でしょ? 実際の色彩に手を加えて色調に統一感を出すなんて。手を加えずに、色調の統一感を出してもらいたいなあ。
 この色調操作に、ロバート・ダウニー・ジュニアの影の多いというか、明暗のはっきりした顔が重なるのだから、重たいねえ。苦しいねえ。見ていて気分が晴れない。そういう感じも「純文学」という感じ。(一昔前の純文学かもしれないが。)
 「推理」も、たしかに伏線としての映像はきちんと描かれているのだけれど、見たとき、それが伏線とはわからないねえ。あとからフラッシュバックで「過去」を映像として見せるんだけれど、ことばの説明がついてまわっている。これでは「小説」だねえ。ページをめくって、あ、そうだったのか、のかわりにフラッシュバック。安直じゃない?
 あ、これはおもしろいなあ、と思ったのが、しかし一か所ある。
 ロバート・ダウニー・ジュニア(シャーロック・ホームズ)がボクシングをするシーン。どんなふうにして攻めるか。それを「推理」する。相手の動きを「推理」して攻撃方法を組み立てる。その「頭のなかの映像」をまずスローモーションで映し出し、それをそのあと速いスピードで再現する。「推理」というか「頭のなかでの動き」がそのまま現実になる。
 これ、いいじゃないか。
 この方式で、事件を解決してほしかったなあ。ロバート・ダウニー・ジュニアが、犯人の行動を「推理」する。その「推理」どおりに犯人は動いていくのだけれど、「推理」より犯人の行動の方がほんの少し速い。「推理」がおいつかないために、犯罪が起きてしまう。
 繰り返し繰り返し、そういうことをやっていると、だんだん「犯行」と「推理」の時間差が縮まってくる。ほら、「肉体」が動くにはけっこう時間がかかる。 100メートルを10秒で走れる人間は少ないけれど、10秒で走ったと頭で考えるのはだれでもできる。頭のスピードは肉体のスピードを上回るからね。
 そして、ついに最後は、「推理」(頭の動き)が「犯行」(肉体の動き)を追い越す。つまり、ロバート・ダウニー・ジュニアが犯行の前に立ちふさがり、犯行を阻止する。ね、これを映像でやると、おもしろいでしょ?
 次の作品、遠隔操作がテーマの犯罪のときは、ぜひ、そうしてね、ガイ・リッチー監督さん。(と、遠隔操作しているつもりの、私。)





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神山倫『こころえ』

2010-03-24 00:00:00 | 詩集
神山倫『こころえ』(ミッドナイト・プレス、2009年06月25日発行)

 「二つの円」という短い作品がある。

二つの円を
重ねると
多少のズレができる

このズレは
「孤独」じゃなくて
「あたたかさ」なんだ

完全な一致なんて
「無」に等しいだろう

 神山の「主張」が凝縮している。3連目の2行は、神山がいいたいことのすべてだろう。でも、私は、この2行を「思想」とは思わない。感じない。抽象的すぎて、「肉体」がない。
 けれども、私はこの作品に「思想」を感じる。あ、いいなあ、と思う。
 それは、この詩には不思議な部分があるからだ。たとえば、1連目。
 なぜ、二つの円を重ねるとズレができる? 半径10センチに設定されて、コンパスで描かれた円。それはいくつ重ねようとズレない。それが、だれの書いた円でもぴったり一致する。そうしないと「半径10センチの円」にはならない。また、たとえばパソコンのなかに半径10センチのハードディスクがあったとする。それは同じ機種のパソコンなら寸分の狂いなく半径10センチのハードディスクである。少しでもズレがあったら困ってしまう。
 --と、書いてくるとわかるのだが、神山がここで書いているのは、数学の素材としての「円」ではない。教科書に出てくる円ではない。また、工業製品の設計図に出で来る円、それが商品化された円でもない。それは人間が書いた円、しかも手で書いた円である。ここには「手で描いた」ということが書いてないけれど、それが書かれていないのは、神山にとっては、あらゆる存在は「人間の肉体」をとうしてそこに存在するということが自明のことだからである。神山にはそのことがわかっている。わかりすぎているので、書かなかった。こういう、作者自身の「肉体」にしみついて、「肉体」になってしまっている「ことば」はけっして書かれることがない。作者にとって、それは「ことば」ではなく「肉体」だから、「ことば」として書くことができないのだ。(書くことがあるとすれば、そのことばを差し挟まないと、どうにも説明が不可能なときである。)
 神山が描いているのは「人間が手で描いた円」である。だからこそ、2連目には、その「人間」の「こころ」が登場する。神山が描いた円をなぞるようにして、誰か(たとえば私)が円を描く。そこにはどうしてもズレが出る。神山の肉体の癖と、私の肉体の癖は違うから、完全に一致することはない。そうしたすれ違い、一致しない部分を「孤独」じゃない、とまず、神山は言う。このときから、神山は「円」を「比喩」(あるいは象徴)として語っている。「円」のかわりに、たとえばある本の感想を語り合う。あるできごとについて語り合う。そうすると、神山と私の感想は何かちがったものを含んでいて、そこが重ならない。ときには、そのズレから会話が弾まなくなるどころか、怒りが爆発することがあるかもしれない。そうすると、何か「孤独」のようなものを感じる。自分の感じていることがわかってもらえない寂しさ。こんなふうに感じ、考えるのは私だけなんだという寂しさが生まれるときがある。
 でも、それは「孤独」じゃないんですよ。「あたたかさ」なんだよ、と神山は言う。
 え、どうして? ひとと意見が合わなかったり、ときには喧嘩までしてしまう。ひとと一致しないことがなぜ「あたたかさ」?
 わからないね。
 その説明を、神山は3連目で、完全に一致すると「無」になる、と抽象的に書いているだけである。
 そして、抽象的にしか書けなかったことを、実は、神山は他の試作品で少しずつ語っている。手書きの「円」のズレが少しずつであるのと同じように、具体的なことは少しずつしか語れない。
 どんなふうにして、それを語るか。要約してしまうと、ちょっと味気なくなるかもしれないけれど、ひとが感じる「孤独」、その「孤独」を感じることができる力(肉体)こそが「あたたかさ」のはじまり、誰かにそっと触れはじめるはじまり、触れると、ほら「手から」相手のあたたかさが伝わってくる。そのとき、「わたし」のあたたかさも、きっと相手につたわる……。
 そういうことの繰り返し。
 誰かが円を手書きする。それに合わせて別なひとが円を手書きする。そのズレ。ズレをズレとして認めて(誰かと私はちがった存在である、それぞれに「孤立」している、と認識して)、そこからそのズレそのものへそっとは近づいていく。そうすると、そこに「あたたかさ」が生まれてくる。ズレそのものはあたたかくはないけれど、あたたかさが生まれる「場」なのだ。
 「貼り紙」という作品では、そのことが行方不明になった老人、それをさがす家族を描くことで書かれている。
 「おじいさんをさがしています」という貼り紙を神山は見つける。読む。それは最初の「円」。猫や犬でもないのに、こんな貼り紙ははじめて、と思う神山。そこに、もうすでに「円」のズレがある。やがて、貼り紙は破れ、神山はおじいさんのことを忘れる。ズレは大きくなる。そして、

しばらくたって
貼り紙が新しくなっていた。
《警察から遺体の身元確認の連絡がきました》
と書いてある。
となり町の歩道橋に倒れていたという。
おじいちゃんと悲しい対面になりましたが
家族としては結果がわかりほっとしています、
貼り紙を見て心配してくださった方たちには
たいへん感謝しております、
と書かれている。

 新しい「円」が、また書かれた。それは最初の「円」に重ね書きされたものだけれど、はげしいズレがある。そして、そのズレのなかに「孤独」(かなしみ)があると同時に、家族の「あたたかさ」(くやしさも)がある。貼り紙を読んでくれたひと、心配してくれたひとがいると想像し、感謝するこころ(あたたかさ)がある。
 この新しい「円」に神山は、また「円」を自分自身で書いてみる。

わたしは急に申し訳ない気持ちで一杯になって
その場で頭を下げた。

 あ。
 思わず涙が出てくる。
 神山は何もできなかった。何もできなかったどころか、おじいさんのことを忘れさえした。家族の「円」と神山の「円」はズレるどころか、完全に分離してしまっていた。そのことを「申し訳ない」と思う。そして、頭をさげる。頭をさげることで、少しだけ「家族」に近づいていく。分離してしまった「円」を、もう一度重ね合わせようとする。重ならないことはわかっているけれど、その重ならない部分がせめてズレにまでもどるようにと頭をさげる。
 そのとき。
 私は思う。そのとき、「神山の円」と「家族の円」はズレているからこそ、あ、重なった、という感じが生まれる。コンパスで書かれた半径10センチの円なら、重なってもなんの不思議もない。けれど違っていたものが少しずつ近づいてゆき、違いが小さくなる。近づいてい行く瞬間に、あ、重なる、重なる、重なった、と「こころ」が叫ぶ。
 そして、あたたかないなあ、と実感する。神山の「ことば」ではなく、頭を下げるという、神山の「肉体」そのものが。



 

こころえ―神山倫詩集
神山 倫
ミッドナイト・プレス

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