「二人は歩いた」。この詩のなかに、とても好きなことばがある。
キノコとキチラガイナスとが人間の最後の象徴に達していたことを発見して
二人はひそかによろこんだ
この男の友は蝶々の模様のついた縮緬の
シャツを着ていた
ハイヒールの黒靴をはいたおめかけさんの着ている
tea-gownのようで全体として
けなるいものだ
「けなるい」。この形容詞は現代ではあまりつかわないように思う。広辞苑には「けなり・い」という形容詞と、「けなり・がる」という自動詞が載っている。例文は、狂言と西鶴の胸算用から引用されている。
この形容詞を、私の田舎では、私の子どもの頃はごくふつうに使った。うらやましい。ごくふつうに、と書いたけれど、自分で「あれが、けなるい」とはあまり言わず、「何をけなるがっているのだ」と他人をたしなめるときによくつかった。他人は他人。自分は自分。比較してはいけない。--いけないといわれると、なおのこと、そのことをしてしまうのが子どもというものだから、そんなふうにたしなめることが効果的かどうかはわからない。わからないけれど、そのことばを通して、私は「他人」というものをはじめて知ったと思った。「他人」というか、「他人」と「自分」の違いというか……。
西脇は、たんに「うらやましい」というだけの意味でつかっているのかもしれないが、うらやましいけれどことばにしては言わず(友には語らず)、ただ詩に書き留めただけかもしれない。きっと声に出して、「そのシャツがけなるい」とは言わなかっただろうと思う。「けなるいものだ」という1行の言い切りかた、そのリズムに、そういうことを感じた。声に出していってしまってはいけない感情だから、書くにしても、できるかぎりの凝縮のなかに、そのことばを置いている--そんなことを感じた。
そして、その抑制(?)のリズムは、次の部分と呼応する。
自転車に乗つて来た女の子から道をきいて
エコマの上水跡をさぐつた
玉川の上水でみがいた色男とは江戸の青楼の会話にも出てくることだが二人は心にかくした
「心にかくした」。
ことばを動かしているのは、あらわしたいものがあるからだが、一方で隠したいものがあってことばを動かすこともある。こういう気持ちは矛盾しているとしかいえないけれど、矛盾しているからこそ、おもしろいのだと思う。
そして、この矛盾のつくりだす「リズム」というものが、きっとことばを貫いている--と私はひそかに感じている。
「けなるいものだ」は詩のことばとして書かれている。けれど、それは「玉川の上水でみがいた色男」か、あるいは「青楼の会話」か、あるいはそのふたつをあわせたものかはわからないが、そのことばを「心にかくした」ように、実際には、その場ではあきらかにされなかったことばである。
その、実際には(現実には)、声としてだされなかった「思い」としてのことば--それが、ふいに噴出しながら詩をいきいきさせるのだと思う。
また、そういうことと「二人」、あるいは「ふたつ」ということが、どこかで関係しているとも感じる。「ひとつ」ではなく「ふたつ」。そのとき、何かしらの「対立」がある。その「ふたつ」(ふたり)は、たとえある場所をめざしていっしょに歩いていても「ひとつ」にはならない。「ふたつ」のままである。そのことがつくりだす「リズム」がある。
西脇は、人間とは、融合しない。「他人」とは「ひとつ」にはならない。「他人」に共感するときも、「他人」に対して、というよりも、他人の「何か」に対してのことである。たとえば、「蝶々の模様のついた縮緬の/シャツ」とは「ひとつ」になりたい、という気持ち「けなるい」が生まれるが、そのシャツを着ている男そのものにはなろうとはしない。「気持ち」を隠したまま、いっしょに歩く。
そのときの「わざと」そうするこころ、それが、そのままリズムとなって詩を動かす。
西脇順三郎詩集 (岩波文庫)西脇 順三郎岩波書店このアイテムの詳細を見る |