詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(116 )

2010-03-16 10:02:18 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「二人は歩いた」。この詩のなかに、とても好きなことばがある。

キノコとキチラガイナスとが人間の最後の象徴に達していたことを発見して
二人はひそかによろこんだ
この男の友は蝶々の模様のついた縮緬の
シャツを着ていた
ハイヒールの黒靴をはいたおめかけさんの着ている
tea-gownのようで全体として
けなるいものだ

 「けなるい」。この形容詞は現代ではあまりつかわないように思う。広辞苑には「けなり・い」という形容詞と、「けなり・がる」という自動詞が載っている。例文は、狂言と西鶴の胸算用から引用されている。
 この形容詞を、私の田舎では、私の子どもの頃はごくふつうに使った。うらやましい。ごくふつうに、と書いたけれど、自分で「あれが、けなるい」とはあまり言わず、「何をけなるがっているのだ」と他人をたしなめるときによくつかった。他人は他人。自分は自分。比較してはいけない。--いけないといわれると、なおのこと、そのことをしてしまうのが子どもというものだから、そんなふうにたしなめることが効果的かどうかはわからない。わからないけれど、そのことばを通して、私は「他人」というものをはじめて知ったと思った。「他人」というか、「他人」と「自分」の違いというか……。
 西脇は、たんに「うらやましい」というだけの意味でつかっているのかもしれないが、うらやましいけれどことばにしては言わず(友には語らず)、ただ詩に書き留めただけかもしれない。きっと声に出して、「そのシャツがけなるい」とは言わなかっただろうと思う。「けなるいものだ」という1行の言い切りかた、そのリズムに、そういうことを感じた。声に出していってしまってはいけない感情だから、書くにしても、できるかぎりの凝縮のなかに、そのことばを置いている--そんなことを感じた。
 そして、その抑制(?)のリズムは、次の部分と呼応する。

自転車に乗つて来た女の子から道をきいて
エコマの上水跡をさぐつた
玉川の上水でみがいた色男とは江戸の青楼の会話にも出てくることだが二人は心にかくした

 「心にかくした」。
 ことばを動かしているのは、あらわしたいものがあるからだが、一方で隠したいものがあってことばを動かすこともある。こういう気持ちは矛盾しているとしかいえないけれど、矛盾しているからこそ、おもしろいのだと思う。
 そして、この矛盾のつくりだす「リズム」というものが、きっとことばを貫いている--と私はひそかに感じている。
 「けなるいものだ」は詩のことばとして書かれている。けれど、それは「玉川の上水でみがいた色男」か、あるいは「青楼の会話」か、あるいはそのふたつをあわせたものかはわからないが、そのことばを「心にかくした」ように、実際には、その場ではあきらかにされなかったことばである。
 その、実際には(現実には)、声としてだされなかった「思い」としてのことば--それが、ふいに噴出しながら詩をいきいきさせるのだと思う。

 また、そういうことと「二人」、あるいは「ふたつ」ということが、どこかで関係しているとも感じる。「ひとつ」ではなく「ふたつ」。そのとき、何かしらの「対立」がある。その「ふたつ」(ふたり)は、たとえある場所をめざしていっしょに歩いていても「ひとつ」にはならない。「ふたつ」のままである。そのことがつくりだす「リズム」がある。
 西脇は、人間とは、融合しない。「他人」とは「ひとつ」にはならない。「他人」に共感するときも、「他人」に対して、というよりも、他人の「何か」に対してのことである。たとえば、「蝶々の模様のついた縮緬の/シャツ」とは「ひとつ」になりたい、という気持ち「けなるい」が生まれるが、そのシャツを着ている男そのものにはなろうとはしない。「気持ち」を隠したまま、いっしょに歩く。
そのときの「わざと」そうするこころ、それが、そのままリズムとなって詩を動かす。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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嵯峨恵子『定本 おかえり』

2010-03-16 00:00:00 | 詩集
嵯峨恵子『定本 おかえり』(ふたば工房、2010年02月23日発行)

 嵯峨恵子『定本 おかえり』は病で倒れた母を、父と嵯峨のふたりが介護する日々をつづっている。「お別れ会」が一番こころに残った。

お母ちゃんの葬式の件やけど
父がさりげなく切り出す
まだ頭がしっかりしてる頃
あの人献体するって
お医者さんの前ではっきりゆうたんだよ
だから 葬式じゃないから
まあ お別れ会だな
話題の主はといえば
今日も口を開けて寝ている
涼しくなると寝やすくなるのか
食事と排泄以外やる事もないからか
一日の大半を寝ることに費やしている
あんまり寝てばかりいると頭が働かなくなるよ
とほっぺたをぺたぺた叩いても
しぶい顔をして目も開けてくれない
こうして毎日
死ぬ練習をし
着々と
本人は本番に備えているのかもしれない
そうして
母のいなくなった日
私たちはいなくなった母を囲むのだろう
お茶や着付け、お花のお弟子さんたち
近所のおばさん
親戚の人たち
母を知っていた人たちばかりが
わが家に集まるのだ
お別れ会
それいいね
それでいこう
私もさりげなく応える

 母が「死ぬ練習」をしているのだとしたら、嵯峨と父は「死を迎える練習」をしているのだろう。それはつらい練習だけれど、練習ができるまでになった、その一種の「やすらぎ」のようなものがこの詩をつらぬいている。
 「やすらぎ」と言ってしまってはいけないのかもしれないのだけれど。ほんとうは、とても苦しいことなのかもしれないのだけれど。
 その苦しみは2行目と最終行の「さりげなく」に書かれている。
 嵯峨と父は「死を迎える」準備をしている--と書いたけれど、その前に、死を迎える前の準備の準備をしている。「お母ちゃんの葬式の件やけど」と父が口にするまでに、父は何度、そのことばを練習しただろう。実際に声に出したかどうかはわからないが、何度も何度も、頭のなかで繰り返したに違いない。どういう反応を娘(嵯峨)はしめすだろうか。こういう反応をしたときはこんなふうに応え、別の反応をしたときはあんなふうに……とあれこれ考えたに違いない。そして、実際に、それをことばにするとき、また不安が襲ってくる。どういう反応があるだろう。また、ふいに悲しみも襲ってくる。生きているのに、こんなことを言わなければならないなんて……。
 あふれる感情をおさえ、なんでもないことのように、「さりげなく」言う。もちろん、それは「さりげなく」どころではない。そして、それが「さりげなく」どころではないということは、長い間いっしょに生きてきた娘なら、すぐにわかる。父が無理をしていることがすぐにわかる。
 わかるから、その父のことを思い、父が「さりげなく」切り出したと書くのだ。
 それに応える娘(嵯峨)も「さりげなく」を装う。悲しみをおさえ、むしろ、それが「よろこび」にかえられるように懸命にこころを動かす。

お別れ会
それいいね

 「いいね」。それが「いい」はずはない。「いい」のは母が死なずに生きていることである。わかっているけれど、その最良の「いい」をあきらめ、その次の「いい」を受け入れるために、嵯峨はこころを動かす。
 その練習を何度も何度も、こころのなかで繰り返す。その様子を、こころに描いてみる。そうして、自分自身に「それいいね」と納得させる。
 それから、その納得をするために、どれだけ涙をこらえたか、それを悟られないように、「さりげなく」応える。

 ふたりの「さりげなく」にはむりがある。ふたりの「さりげなく」は「わざと」よそおわれた「さりげなく」である。
 だから、そこに詩がある。思想がある。人間のいのちをととのえる力がある。





私の男―Mon homme
嵯峨 恵子
思潮社

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