監督 キャロル・リード 出演 ジョゼフ・コットン、オーソン・ウェルズ
何度見ても好きなシーンというものがある。「第三の男」の、オーソン・ウェルズが初めて顔を見せるシーンもその一つ。柱の陰に隠れている。2階から窓の明かりが照らし出す。その瞬間の困ったような、にたっと笑う顔。悲しげで、ふてぶてしい。この、オーソン・ウェルズの顔から、この映画は突然生々しくなる。オーソン・ウェルズならではの存在感だね。
その美しい恐怖、悪夢のような輝きと、夜のウィーンの陰影の美しさがとても似合っている。石畳の作りだす光と影の諧調のなかに足音が音楽として響く。いいなあ。
このシーンに限らず、この映画はモノクロ特有の光と影をたくみに使っている。後半の下水道のシーン。カラーだと下水道の汚さが厳しく迫ってくるだろうけれど、モノクロだと汚くない。光の反射は、汚いどころかきれいである。水のつややかさ。追跡の光。逃走する影、追いかける影。肉体の生々しさではなく、シルエットの拡大された動きの素早さ。まるで夢を見ているようだ。
こんな光と影の交錯は現実にはあり得ないのだろうけれど、その非現実性が、映画っぽくていい。モノクロ特有のウソが快感である。
冒頭の、ジョゼフ・コットンが「ハリー」の家へたずねて行くシーンの、壁の影もほんとうはあり得ない。階段の壁に、ジョゼフ・コットンのコートを着た影が何倍もの大きさで投影される。これがカラーだと、絶対に変に見える。モノクロだと、光と影の記憶だけが引き出され、影がどんなに大きくても異様に見えない。(この拡大された影が、後半のサスペンスへ自然につながっていく。)
傑作だなあ、とつくづく思う。
この映画では、光と影の楽しさのほかに、もう一つ不思議な工夫がされている。カメラが水平に構えていない。柱、扉、天井などが、水平、垂直にならないシーンが次々に出てくる。現実が微妙に歪んでいる。その歪みの中で、歪んだ人間(?)というか、犯罪と、正義が交錯する。正義の追及に突っ走るのではなく、犯罪に身をすりよせる部分、まあ、恋愛なのだけれど、というものが、粘着力のある感じでまじるのだが、その不思議な歪みが、水平、垂直ではない室内の感じとからみあってとてもおもしろい。
映像の面白さとは別に。昔は気がつかなかったこと。
ジョゼフ・コットンが文化講演会(?)に呼ばれる。作家なので、小説について質問を受ける。「意識の流れ」についてどう思うか。あ、ジョイスだ。と、思う間もなく、「ジョイスをどのように位置づけるか」。ジョゼフ・コットンは作家といっても大衆作家なので、なんのことか分からない。うーん。この映画が作られた1949年当時、どれくらいこの話題について行ける観客がいたんだろう。日本ではどうだったのだろう。よくわからないが、イギリス文学にとっては大変な衝撃だったことがわかる。社会的出来事だったから、映画にまで顔を出しているのだ。
あ、ジョイスをもう一度読もう――と、私は丸谷才一の「若い芸術家の肖像」の新訳を買ってしまった。
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