詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

キャロル・リード監督「第三の男」(★★★★★)

2010-03-15 16:36:04 | 午前十時の映画祭

監督 キャロル・リード 出演 ジョゼフ・コットン、オーソン・ウェルズ

 何度見ても好きなシーンというものがある。「第三の男」の、オーソン・ウェルズが初めて顔を見せるシーンもその一つ。柱の陰に隠れている。2階から窓の明かりが照らし出す。その瞬間の困ったような、にたっと笑う顔。悲しげで、ふてぶてしい。この、オーソン・ウェルズの顔から、この映画は突然生々しくなる。オーソン・ウェルズならではの存在感だね。
 その美しい恐怖、悪夢のような輝きと、夜のウィーンの陰影の美しさがとても似合っている。石畳の作りだす光と影の諧調のなかに足音が音楽として響く。いいなあ。
 このシーンに限らず、この映画はモノクロ特有の光と影をたくみに使っている。後半の下水道のシーン。カラーだと下水道の汚さが厳しく迫ってくるだろうけれど、モノクロだと汚くない。光の反射は、汚いどころかきれいである。水のつややかさ。追跡の光。逃走する影、追いかける影。肉体の生々しさではなく、シルエットの拡大された動きの素早さ。まるで夢を見ているようだ。
 こんな光と影の交錯は現実にはあり得ないのだろうけれど、その非現実性が、映画っぽくていい。モノクロ特有のウソが快感である。
 冒頭の、ジョゼフ・コットンが「ハリー」の家へたずねて行くシーンの、壁の影もほんとうはあり得ない。階段の壁に、ジョゼフ・コットンのコートを着た影が何倍もの大きさで投影される。これがカラーだと、絶対に変に見える。モノクロだと、光と影の記憶だけが引き出され、影がどんなに大きくても異様に見えない。(この拡大された影が、後半のサスペンスへ自然につながっていく。)
 傑作だなあ、とつくづく思う。
 この映画では、光と影の楽しさのほかに、もう一つ不思議な工夫がされている。カメラが水平に構えていない。柱、扉、天井などが、水平、垂直にならないシーンが次々に出てくる。現実が微妙に歪んでいる。その歪みの中で、歪んだ人間(?)というか、犯罪と、正義が交錯する。正義の追及に突っ走るのではなく、犯罪に身をすりよせる部分、まあ、恋愛なのだけれど、というものが、粘着力のある感じでまじるのだが、その不思議な歪みが、水平、垂直ではない室内の感じとからみあってとてもおもしろい。

 映像の面白さとは別に。昔は気がつかなかったこと。
 ジョゼフ・コットンが文化講演会(?)に呼ばれる。作家なので、小説について質問を受ける。「意識の流れ」についてどう思うか。あ、ジョイスだ。と、思う間もなく、「ジョイスをどのように位置づけるか」。ジョゼフ・コットンは作家といっても大衆作家なので、なんのことか分からない。うーん。この映画が作られた1949年当時、どれくらいこの話題について行ける観客がいたんだろう。日本ではどうだったのだろう。よくわからないが、イギリス文学にとっては大変な衝撃だったことがわかる。社会的出来事だったから、映画にまで顔を出しているのだ。
 あ、ジョイスをもう一度読もう――と、私は丸谷才一の「若い芸術家の肖像」の新訳を買ってしまった。




第三の男 [DVD] FRT-005

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若い藝術家の肖像
ジェイムズ ジョイス
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伊藤啓子「上の湯にて」、長嶋南子「眠れ」

2010-03-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤啓子「上の湯にて」、長嶋南子「眠れ」(「きょうは詩人」15、2010年02月18日発行)

 伊藤啓子「上の湯にて」は、共同浴場でのおばあさんたちとの会話を描いている。

あとから入ってきたわたしのために
ひとりずつ詰めてくれた
横に動くたびに
たっぷりしたお乳やおなかが
順繰りにゆさゆさ揺れ
わたしの風邪ひきそうな体つきでは
気後れしてしまう
まだまだ生きていないという気になる

腰だの足だの
痛むところを順繰りに披露している
隣のおばあさんに
どこからきた 会社が休みかと訊かれた
父の葬式を終えたばかりでというと
んじゃ まだ骨が痛いなといわれ
ほかのおばあさんたちもうなずいている
この地方の
骨折り、のような言い方なのだろうか

湯に浸かっていても温まらない
からだの芯が冷え冷えする
そう言われてみれば
ものすごく骨が痛む気がする

 「そう言われてみれば」が気持ちがいい。とても自然だ。人間は不思議なことに、自分の気持ちがわからない。自分のからだがわからない。自分のことを語ることばは、いつでも自分ではみつけだせない。それは他人がもってきてくれる。
 他人のことばはもちろん他人のことばであって、自分のことばではないから、それがそのまま自分の感じていることになるわけではない。そこに「思う」(想像する)が入ってくる。そうすると、何かが「ずれ」る。
 「骨が痛い」とは、「この地方の/骨折り、のような言い方なのだろうか」。そう思いめぐらしてみると、何気なくつかっていた「骨折り」(苦労)ということばが新しく見えてくる。その「新しい何か」がずれ。
 伊藤が書いているのは、それ。

 そして。

 私は、いつでも、作者が書いていないことを読んでしまう。書いていないのに、それが書かれるはずということを考えてしまう--つまり、「誤読」をするのが大好きなので、ここからちょっと「誤読」してみる。伊藤が書きたかったのは、ふと伊藤をすくってくれた「ずれ」なのだと思うけれど、それはそれとして、ちょっと別なことばで、わたしの感じたことを書きたくなった。
 この詩、父の死を書き、その「骨折り」を書いてる--けれど、こっけいでしょ? なんとなく、笑ってしまうでしょ? おばあさんたちの「大内やおなか」の動きもそうだし、「まだまだ生きていないという気になる」という伊藤の思いもそうだし、なによりも、「そう言われてみれば/ものすごく骨が痛む気がする」の、自分のことなのに、自分のことじゃないみたいな、ぼんやりした感じが「くすくす」という感じを呼び覚ましませんか?
 なぜなんだろう。
 ことばは他人からやってくる--ということと関係があると思う。
 「骨が折れる」は日常的につかっている。そのことばの「骨」には意味がない。「骨が折れる」には意味があるけれど、その「骨」には意味がない。それが、「骨が痛い」といわれると、急に「骨」が意識される。
 そして、そのとき。
 「骨が折れる」というのは、「骨」ではなく、「こころ」の苦労なのだけれど(まあ、肉体的な苦労も含まれはするけれど)、その肝心な「こころ」が一瞬忘れ去られてしまう。「骨が折れる」というのは「こころ」が苦しむではなく、「骨」に負担がかかるということなのだと考え直してしまう。「骨」のまわりに筋肉があって、まあ、からだ全体を動かす。「骨」がいつも中心になって、からだが動く。
 この「中心」ということばを手がかりにすれば、そこから「こころ」までの距離はほとんどないのだけれど……。
 そこまで、いかない。そこへいくちょっと手前で一呼吸休んでみる。
 「笑い」というのは、その一呼吸なんだね。
 何かわからないことがある。ここでは「骨が痛い」がちょっとわからない。それはどういうことだろう、と考える。そのとき、ふっと、いままで考えていたことがずれる。その考えは、つきつめれば、論理として完結するかもしれないけれど、(そして自分のことばになんてしまうかもしれないけれど)、そんなふうになってしまうのは、ある意味では「他人」になってしまうことでもあるので、その手前で、ちょっと立ち止まり、全体を見渡す。そのときに、世界の「すきま」みたいなものがのぞいて見える。
 それが、軽い笑い。ユーモア。
 それによって、伊藤は伊藤自身をほぐしている。それが、疲れたからお風呂でもはいるか……というような感じで休んでいるのがとてもいい。



長嶋南子「眠れ」の作品もユーモアがある。そして長嶋のユーモアは、「他人」がほんとうの「他人」ではなく、長嶋のなかから生まれてくる「他人」によって引き起こされる。

わたしには息子がいないようでも
いるようでもあり
おまえが息子のお面をかぶって
自分の胸をつついているのだろう
と声がする
母が眠れないのはかわいそうといって
針を引き抜き
わたしをほどいて縫い直している
母だと思っていたら
おまえは母の仮面をかぶっているのだろう
なにも縫えないくせに
手元を見ればわかる
と別の声がする
これらのことは
本当は眠っているのに
眠れない夢を見ているのだと
自分に言い聞かせる
眠れよ
わたし

 伊藤の詩では他人のことばが伊藤を動かした。伊藤のこころを解きほぐした。長嶋は、自分のことばで「他人」をつくりだし、その「他人」に語らせている。そして、そこから「対話」している。
 長嶋の笑いの余裕は、そういう自己対話ができるところから生まれている。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社

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