監督 ジャン=ピエール・メルヴィル 出演 ニコール・ステファーヌ、ハワード・ヴァーノン、ジャン=マリー・ロバン
室内劇である。ドイツ人将校がひとりでしゃべり、老人と若い女性は無言で聞いている。ふたりは何も話さない。ふたりは沈黙を守ることでドイツ人将校に「抵抗」抵抗しているのである。いわゆるアクションは何もない。はげしいうごき、人間の肉体はこんなふうに動くのかという驚きはない。ことばも、将校が一方的にしゃべり、老人と女がことばをかえさないのだから、動きようがない。何も変わらない。--こう書いてしまうと、とても映画には見えない。
けれど、映画でしかありえない。
何も変わらない、と書いたけれど、その何も変わらないところが映画でしかありえない。ひとが3人顔をつきあわせるわけだから、何も変わらないはずがない。それを変わらないとみせかける(装う)ところに、はげしい動きがある。動きを抑えるという動きがある。
ドイツ人将校はフランスの文化に敬意を払っている。とりわけ文学に対して、つまりことばの運動に対して敬意を払っている。だからこそ、ことばを話しつづける。フランス文学、哲学の力について語りつづける。
その話を聞くうちに、老人と娘は、将校が単なる侵略者ではないということに気がつく。侵略者であるのは間違いないのだが、人間として共有できるものがあるということに気がつく。でも、同じものを共有している、同じ人間であるということを出発点にして、その将校に接近していくことは、侵略されているフランス人という立場からはできないことなのだ。だから、将校がどんなに人間的に共感できることを語ったとしても、同感してはならない。絶対に同感しない--それが老人と女の暗黙の了解であり、ふたりは共感を絶対に表に出さない。肉体として表現しない。
そのとき、こころが動く。
このとき、そのこころの動きをどう映画に定着させるか。
たとえば、まなざしの小さな動き。顔を動かさないけれど、視線だけ動かすときの眼球、そしてまぶたにあらわれる動き。芝居(舞台)では、けっして見えないもの。また小説(ことば)では、少し動いたとしかいいようのないものが、スクリーンでは拡大され、くっきりと刻印される。見開いた目。目の輝き。陰り。それは、とりわけそういう目の表情にあらわれる。目は口ほどにものを言う、というのは確かである。
あるいは手の動き。かすかな指の動き。それもまた舞台や小説の表現には限度がある。映画が、肉体を拡大し、そこだけを取り出してしまうカメラ、そのアップがあって可能な表現である。
そして、もしそれだけなら、それは何もこの映画だけにかぎったことではない。あらゆる映画が、そういう表現をこころみている。肉体の細部の動きによって、こころを表現するというのは、どの映画もやっていることである。この映画の特徴にはならないだろう。この映画が特別優れているということにはならないだろう。
この映画は、肉体の小さな動きをとおしてこころを表現すると簡単に言ってしまえる「映画文法」を超えている。
どうやって?
動かないことによって。--と書くと、繰り返しになってしまうけれど、老人と女のことばを動かさないことによって、一方的にドイツ人将校のことばを動かすことによって。
ことばを動かすだけなら、文学(小説)ではないか、ということになるが、小説と違うところは、ことばが動くとき、かならずそこに動かない肉体がある、という点が小説と違う。小説は老人も女も動かないと書けばそれで終わりだが、映画では、その動かない肉体を役者が具体化する。かならずそこに肉体がある。観客はかならず役者の肉体を見る。そして、それを動かさないという「意思」を見る。「意思」を抽象的に感じるのではなく、「肉体」という具体的な「もの」として見てしまう。
動き回るドイツ人将校のことば、そして肉体。それに対して、動かないふたりのことば、ふたりの肉体。その対比のなかで、動かない、動かさないという「意思」が肉体として浮き上がってくる。
「肉体」というのは不思議なもので、それを見るとき、その「肉体」が体験している「痛み」を自然に受け入れてしまう。道端に誰かが倒れて、腹を抱えて呻いていたら、あ、この人は腹が痛いんだとわかってしまう。自分の痛みではないのに、他人の痛みがわかってしまう。そういう「感覚」だけではなく、人は、他人の「意思」さえも、「肉体」をとおしてわかってしまうのだ。
観客は知らないうちに、自分の肉体を「動かない」状態にして、つまり老人や女の「肉体」にしてしまって、ドイツ人将校のことばを聞く。すると、ドイツ人将校がフランス文学に対して敬意を払っていることがわかる。また、フランス文学だけではなく、こんなふうにしてドイツ人将校を受け入れている二人を、敬意をもって眺めていることがわかる。ふたりの「こころ」動きが、観客の「こころ」のなかで動きはじめる。「肉体」を動かさないので、「肉体」のことはほっぽりだして、ただ「こころ」の動きだけが重なる。そして、増幅する。そして、こころが動いていることがわかるからこそ、その動きを否定しようとする意志の動きがわかる。その意志の動きが、役者の肉体を超越して、観客の肉体に乗り移ってしまう。
これは、その前に、役者の肉体がなまなましく拡大されるからこそ可能なことなのだ。実際の肉体より拡大し、スクリーンからあふれる肉体。たとえば、若い女の目のアップ。そういう大きな目は実際にありえない。そのありえないまでに拡大する肉体が、スクリーンを超えて、観客に押し寄せ、観客の肉体をつつみこむ。役者の拡大する肉体、拡張する肉体が観客を乗っ取ってしまう。そして、「意思」をも乗っ取ってしまう。
いや、逆に言う方がいいかもしれない。
「こころ」のうちのことは、ほんとうはだれにもわからない。ドイツ人将校のフランス文学に対する敬意--それを聞いて、老人と女は怒っているかもしれない。何もわからないくせに、とか、その部分は間違っていると軽蔑しているかもしれない。けれど、観客は(いや、私は)、あ、このドイツ人将校は他のナチスとは違っていると感じる。フランス文学が好きなのだ、敬意を払っているのだと思う。そして、その「思った」ことを、老人と女の「肉体」、スクリーンをとおして見える「肉体」に覆いかぶせ、彼らがそう感じていると感じ、二人の態度に共感と反発を感じ揺さぶられてしまうのである。拡大する肉体に乗っ取られるふりをしながら、あるいは肉体を乗っ取られることをいいことに、観客は自分の「こころ」を役者の「こころ」にもぐりこませてしまう。
そして、その瞬間、とても変なことが起きる。
あなたたちの「意思」はわかった。とてもよくわかった。その「抵抗」は立派である。だが、ばかやろうである。将校が好きになったんだろう。好きと言え。愛していると言え。「アデュー」と力なく唇を動かす前に、キスしてしまえ。
そんなことはできないのはわかっている。わかっているからこそ、そういう気持ちにさせられる。
じれったくなるのである。動かない肉体が無性に憎たらしくなるのである。肉体を動かそうとはしない意志の頑固さが、とても悲しくなるのである。切なくなるのである。
「反戦映画」(反ナチス映画)なのに、この最後に押し寄せてくる感情--それは、とても変なものだと思う。ドイツ人将校が憎い、とか、「抵抗」したふたりは立派であるという感じではなく、ああ、なんと人間というのは愚かなんだろう、と思ってしまう。誰かが好きになる、そのひとの本質は「ナチス」そのものではないとわかっても、その「わかった」ものに従うことはできない。「わかる」のに自分の気持ちを抑え、それを裏切らないといけないときがある。
「肉体」のなかに、矛盾した気持ちを矛盾したまましっかりと抱え込まないといけないときがある。「いけないとき」ではなく、正確には、それしかできないときがある、なのかもしれない。
この矛盾を、気持ちの問題だけではなく、肉体そのものの問題であるかのように、この映画は具体化している。肉体として感じさせる。ねえ、ほら、女が「アデュー」と唇を動かすとき、その小さな声が、こころを切り裂く大きな悲鳴に聞こえるでしょう。女が、この世でたったひとりの、絶世の美女に見えてくるでしょ? 目の前に、その顔が、その肉体があると感じてしまうでしょ? 「感情」「意思」の前に、その顔、その目、その肉体がある。
それをねじまげてしまうのが、戦争なんだなあ。--そう気がついたとき、それは「反戦映画」になるのかもしれないけれど、まあ、こんなことはうるさくなるから、きっと気にしなくていい。