詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン=ピエール・メルヴィル監督「海の沈黙」(★★★★★)

2010-03-29 17:10:48 | 映画


監督 ジャン=ピエール・メルヴィル 出演 ニコール・ステファーヌ、ハワード・ヴァーノン、ジャン=マリー・ロバン

 室内劇である。ドイツ人将校がひとりでしゃべり、老人と若い女性は無言で聞いている。ふたりは何も話さない。ふたりは沈黙を守ることでドイツ人将校に「抵抗」抵抗しているのである。いわゆるアクションは何もない。はげしいうごき、人間の肉体はこんなふうに動くのかという驚きはない。ことばも、将校が一方的にしゃべり、老人と女がことばをかえさないのだから、動きようがない。何も変わらない。--こう書いてしまうと、とても映画には見えない。
 けれど、映画でしかありえない。
 何も変わらない、と書いたけれど、その何も変わらないところが映画でしかありえない。ひとが3人顔をつきあわせるわけだから、何も変わらないはずがない。それを変わらないとみせかける(装う)ところに、はげしい動きがある。動きを抑えるという動きがある。
 ドイツ人将校はフランスの文化に敬意を払っている。とりわけ文学に対して、つまりことばの運動に対して敬意を払っている。だからこそ、ことばを話しつづける。フランス文学、哲学の力について語りつづける。
 その話を聞くうちに、老人と娘は、将校が単なる侵略者ではないということに気がつく。侵略者であるのは間違いないのだが、人間として共有できるものがあるということに気がつく。でも、同じものを共有している、同じ人間であるということを出発点にして、その将校に接近していくことは、侵略されているフランス人という立場からはできないことなのだ。だから、将校がどんなに人間的に共感できることを語ったとしても、同感してはならない。絶対に同感しない--それが老人と女の暗黙の了解であり、ふたりは共感を絶対に表に出さない。肉体として表現しない。
 そのとき、こころが動く。
 このとき、そのこころの動きをどう映画に定着させるか。
 たとえば、まなざしの小さな動き。顔を動かさないけれど、視線だけ動かすときの眼球、そしてまぶたにあらわれる動き。芝居(舞台)では、けっして見えないもの。また小説(ことば)では、少し動いたとしかいいようのないものが、スクリーンでは拡大され、くっきりと刻印される。見開いた目。目の輝き。陰り。それは、とりわけそういう目の表情にあらわれる。目は口ほどにものを言う、というのは確かである。
 あるいは手の動き。かすかな指の動き。それもまた舞台や小説の表現には限度がある。映画が、肉体を拡大し、そこだけを取り出してしまうカメラ、そのアップがあって可能な表現である。
 そして、もしそれだけなら、それは何もこの映画だけにかぎったことではない。あらゆる映画が、そういう表現をこころみている。肉体の細部の動きによって、こころを表現するというのは、どの映画もやっていることである。この映画の特徴にはならないだろう。この映画が特別優れているということにはならないだろう。
 この映画は、肉体の小さな動きをとおしてこころを表現すると簡単に言ってしまえる「映画文法」を超えている。
 どうやって?
 動かないことによって。--と書くと、繰り返しになってしまうけれど、老人と女のことばを動かさないことによって、一方的にドイツ人将校のことばを動かすことによって。
 ことばを動かすだけなら、文学(小説)ではないか、ということになるが、小説と違うところは、ことばが動くとき、かならずそこに動かない肉体がある、という点が小説と違う。小説は老人も女も動かないと書けばそれで終わりだが、映画では、その動かない肉体を役者が具体化する。かならずそこに肉体がある。観客はかならず役者の肉体を見る。そして、それを動かさないという「意思」を見る。「意思」を抽象的に感じるのではなく、「肉体」という具体的な「もの」として見てしまう。
 動き回るドイツ人将校のことば、そして肉体。それに対して、動かないふたりのことば、ふたりの肉体。その対比のなかで、動かない、動かさないという「意思」が肉体として浮き上がってくる。
 「肉体」というのは不思議なもので、それを見るとき、その「肉体」が体験している「痛み」を自然に受け入れてしまう。道端に誰かが倒れて、腹を抱えて呻いていたら、あ、この人は腹が痛いんだとわかってしまう。自分の痛みではないのに、他人の痛みがわかってしまう。そういう「感覚」だけではなく、人は、他人の「意思」さえも、「肉体」をとおしてわかってしまうのだ。
 観客は知らないうちに、自分の肉体を「動かない」状態にして、つまり老人や女の「肉体」にしてしまって、ドイツ人将校のことばを聞く。すると、ドイツ人将校がフランス文学に対して敬意を払っていることがわかる。また、フランス文学だけではなく、こんなふうにしてドイツ人将校を受け入れている二人を、敬意をもって眺めていることがわかる。ふたりの「こころ」動きが、観客の「こころ」のなかで動きはじめる。「肉体」を動かさないので、「肉体」のことはほっぽりだして、ただ「こころ」の動きだけが重なる。そして、増幅する。そして、こころが動いていることがわかるからこそ、その動きを否定しようとする意志の動きがわかる。その意志の動きが、役者の肉体を超越して、観客の肉体に乗り移ってしまう。
 これは、その前に、役者の肉体がなまなましく拡大されるからこそ可能なことなのだ。実際の肉体より拡大し、スクリーンからあふれる肉体。たとえば、若い女の目のアップ。そういう大きな目は実際にありえない。そのありえないまでに拡大する肉体が、スクリーンを超えて、観客に押し寄せ、観客の肉体をつつみこむ。役者の拡大する肉体、拡張する肉体が観客を乗っ取ってしまう。そして、「意思」をも乗っ取ってしまう。

 いや、逆に言う方がいいかもしれない。

 「こころ」のうちのことは、ほんとうはだれにもわからない。ドイツ人将校のフランス文学に対する敬意--それを聞いて、老人と女は怒っているかもしれない。何もわからないくせに、とか、その部分は間違っていると軽蔑しているかもしれない。けれど、観客は(いや、私は)、あ、このドイツ人将校は他のナチスとは違っていると感じる。フランス文学が好きなのだ、敬意を払っているのだと思う。そして、その「思った」ことを、老人と女の「肉体」、スクリーンをとおして見える「肉体」に覆いかぶせ、彼らがそう感じていると感じ、二人の態度に共感と反発を感じ揺さぶられてしまうのである。拡大する肉体に乗っ取られるふりをしながら、あるいは肉体を乗っ取られることをいいことに、観客は自分の「こころ」を役者の「こころ」にもぐりこませてしまう。
 そして、その瞬間、とても変なことが起きる。
 あなたたちの「意思」はわかった。とてもよくわかった。その「抵抗」は立派である。だが、ばかやろうである。将校が好きになったんだろう。好きと言え。愛していると言え。「アデュー」と力なく唇を動かす前に、キスしてしまえ。
 そんなことはできないのはわかっている。わかっているからこそ、そういう気持ちにさせられる。
 じれったくなるのである。動かない肉体が無性に憎たらしくなるのである。肉体を動かそうとはしない意志の頑固さが、とても悲しくなるのである。切なくなるのである。

 「反戦映画」(反ナチス映画)なのに、この最後に押し寄せてくる感情--それは、とても変なものだと思う。ドイツ人将校が憎い、とか、「抵抗」したふたりは立派であるという感じではなく、ああ、なんと人間というのは愚かなんだろう、と思ってしまう。誰かが好きになる、そのひとの本質は「ナチス」そのものではないとわかっても、その「わかった」ものに従うことはできない。「わかる」のに自分の気持ちを抑え、それを裏切らないといけないときがある。
 「肉体」のなかに、矛盾した気持ちを矛盾したまましっかりと抱え込まないといけないときがある。「いけないとき」ではなく、正確には、それしかできないときがある、なのかもしれない。
 この矛盾を、気持ちの問題だけではなく、肉体そのものの問題であるかのように、この映画は具体化している。肉体として感じさせる。ねえ、ほら、女が「アデュー」と唇を動かすとき、その小さな声が、こころを切り裂く大きな悲鳴に聞こえるでしょう。女が、この世でたったひとりの、絶世の美女に見えてくるでしょ? 目の前に、その顔が、その肉体があると感じてしまうでしょ? 「感情」「意思」の前に、その顔、その目、その肉体がある。
 それをねじまげてしまうのが、戦争なんだなあ。--そう気がついたとき、それは「反戦映画」になるのかもしれないけれど、まあ、こんなことはうるさくなるから、きっと気にしなくていい。

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フィリップ・カウフマン監督「ライトスタッフ」(2)

2010-03-29 12:00:00 | 午前十時の映画祭

監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド

 この映画は何度見ても絶対に飽きることがない。何度見ても、毎回見たい。毎日みたい。--ということは、毎日、この映画について語りたい、ということでもある。
 きのうの感想のつづき。
 なぜ、おもしろいか。
 その人には、その人にしか見えないものがある。それをこの映画はきちんと撮っている。映像にしている。サム・シェパードが初めて音速の「壁」を破る瞬間、大空にすむ悪魔に打ち勝つ瞬間、そのときの青から群青にかわる色の変化。これはサム・シェパードにしか見えない。見ることができない。その寸前の、計器のはげしい揺れや操縦桿の振動も。そういう華々しい(?)風景だけではなく、他の風景もそれぞれに、その人にしか見えないのである。
 デニス・クエイドたちが庭でバーベキューをしている。その向こうでサム・シェパードがこどもキャッチボールをしている。キャッチボールをしているサム・シェパードを見ていて、バーベキューを焦がしてしまうデニス・クエイド。それを妻が見ている。その風景も、ありきたりのようであって、実はデニス・クエイドの妻にしか見えない風景なのだ。そこには、そのときしかありえないデニス・クエイドの妻のこころがあふれている。男たちが動いている。それは男たちの風景ではなく、それを見つめる妻の風景なのである。
 そうした日常意外にも、その人にしか見ることのできない風景がある。
 繰り返し繰り返し失敗しつづけるロケット。それは「記録」であるけれど、ものの「記録」ではないのだ。それをつくり、飛べ、と祈っている科学者たちの、宇宙飛行士たちの「視線」の記録なのである。
 宇宙飛行士になるための訓練。それに先立つさまざまな肉体チェック。精子の活動状況を調べるための精液の採取。そのときのトイレ。壁越しに聞こえてくる仲間の声。そんな卑近なというか、なまなましい何かも、そうである。
 あるいは宇宙から帰還し、カプセルから脱出する。ハッチが爆発し、カプセルが沈んでいく。それを見つめる宇宙飛行士。そのときの波とカプセル。ヘリコプター。それも、その人にしか見ることのできない風景である。その、失敗(?)した宇宙飛行士の無念をそっと思いやるサム・シェパード。遠くから、テレビで、そして、ひとり部屋を抜け出して見る夜の空気--それも、彼にしか見ることのできない風景である。
 宇宙から凱旋し、ニューヨークをパレードする。記者にかこまれる。成功しても、失敗しても、押し寄せてくるマスコミ。彼らの動きさえ、宇宙飛行士でなければ見ることのできない風景である。
 どの風景も、その人にしか見ることができない。その、その人にしか見ることのできない風景を見るために、私たちは、いま、ここに、存在している。そういうことを、この映画は、剛直な、叩いても叩いてもけっしてこわれることのない剛直な映像で、まっすぐに伝えてくる。
 ラストの、サム・シェパードの失敗も、この映画には、まことにふさわしい風景である。人は誰もがその人にしか見ることのできない風景を見るために生きている。そして、見たものを誰かに伝えるために生きている。それは人間の可能性を切り開く新しい世界だけのことではない。その人にしか見ることのできない風景というのは前人未到の偉業の風景だけではない。なにごとかをなし遂げようとして、失敗する。そのときに見える風景がある。だれも飛んだことのない上空から落下する。機体のコントロールを失う。そうやって、見る風景。大地が近づく。脱出しようと、決意しながら見る風景。パラシュートが開かない。なんとかしなければ。そう思いながら見る風景。そして、かろうじて大地に帰ってきて、その無事を知って駆けつけてくる仲間の姿を見る--そのときの「風景」。
 あ、これこそ、絶対に、その人しか見ることのできない風景である。語らなければならない風景である。人は失敗する。それでも生きている。生きて、語る。そこからすべてがはじまる。
 一食抜いても見るべき映画である。


 

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駱英『小さなウサギ』(3)

2010-03-29 00:00:00 | 詩集
駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(3)(思潮社、2010年03月01日発行)

 「或いは逆に、」「同時に」だけが「絡み合う」わけではない。駱英においては、あらゆることばが多即是一、一即是多につながるのだ。
 「恐怖について」という作品。「二〇〇六年六月十日 CA九八四便四A席」というメモがついている。飛行機のなかで一気に書いたものだろう。

 二十一世紀のある黄昏に、私は恐怖を覚えた。狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた。その静けさは、海底(うなぞこ)から湧き起こってきたような、比類のない柔らかさであり、また比類のない鋭さであった。

 「また」。「柔らかさ」と「鋭さ」は一般的には相いれない。だから、この「また」は「或いは逆に、」は言い換えることができる。「或いは逆、」がいいすぎになるなら、「同時に」でいい。
 駱英のことばは「接続詞」をはさみながら、拡大する。
 その拡大の仕方は凝縮と拡散、求心と遠心がひとつになったものである。「接続詞」が世界の中心にあり、その接続詞でかけ離れたものが出会い、ぶつかり、互いの重力に飲み込まれ、凝縮しきれずに爆発する。発散する。
 (この運動に一番似ているのは、私の印象では清岡卓行である。中国語がわからないにもかかわらず、松浦の訳には、私にはちょっとついていけない部分がある。田原の詩を谷川俊太郎が訳したらどうなるだろう、という感想を持ったことがあるが、駱英の詩の場合は、清岡に訳してもらいたい。--これは、絶対に不可能なことになってしまったけれど。ふと、あ、清岡が駱英の詩を読んだらどう思うだろうかと想像してしまうのだ。求心と遠心のなかで世界をとらえた清岡なら、この駱英の詩は、いったいどうなるだろうか、と。)
 
 駱英のことばは「接続詞」をはさみながら、拡大する。--というのは、駱英の基本的なことばの運動だが、それには「副振動」のようなものがともなう。不思議な「音楽」が。先に引用した部分にもどる。

 二十一世紀のある黄昏に、私は恐怖を覚えた。狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた。その静けさは、海底(うなぞこ)から湧き起こってきたような、比類のない柔らかさであり、また比類のない鋭さであった。

 この段落は三つの文章から成り立っている。最初に「恐怖」を覚えた、と書き、次の二つで「恐怖」を言いなおしている。そして、その後者の二つの文章をつなぐことばが、とても不思議である。わかるといえばわかるが、わからないといえばわからない。だからこそ、私はここで清岡の手を借りたくなるのだ。清岡なら、何と訳しただろうか、と気になって仕方がなくなる。
 「その静けさは、」の「その」って何?
 いや、学校教科書的な「意味」でなら、わかるのだ。この「その」は、その前の「静けさに転げ落ちた」という文章ででてきた「静けさ」を引き継いでいることをあらわすための「その」である、ということはわかるのだ。「その」は、いわば英語で言う「定冠詞・the 」であることは、わかってる。
 でも、それだけじゃないでしょ?
 というか、「静けさ」が「その、定冠詞the 」でくくれる「たったひとつのもの」であったなら、それは「柔らかさ」と「鋭さ」を「同時に」もったものではありえない。
 「その」「静けさ」の「その」は、「静けさ」を飛び越して、その前の文章の「狂ったように泣き叫びたかった」を含んでいるのだ。狂ったように泣き叫びたい--というとき、そこには「静けさ」を超越した静けさがある。「音」がない静けさではなく、「音」を必死に求める沈黙、音を拒絶された沈黙がある。狂ったように叫びたい。喉は(肉体は)、その気持ちに答えられない。喉を開ける。口を開く。けれど、そこから出て行くのは「無音」の風。息。
 「その静けさは」ではじまる文章の「その」は、駱英が転げ落ちたときの「静けさ」を説明するだけではない--というより、「その静けさは」ではじまる文章は、それに先行する「狂ったように泣き叫びたかった」と「際限のない静けさに転げ落ちた」の二つの文章を言いなおしたのもなのだ。そして、その言い直しのとき、接続詞「が」は「また」に変わっているのである。
 このときの、「言い直し」。それを私は「音楽」と感じている。「副振動」による「音楽」だ。「狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた」だけでも強烈な旋律なのだが、いや、それがあまりに強烈すぎる振動だからというべきか--それを支える「副旋律」が、そのまわりに派生する。主旋律をつつみこみ、受け入れやすくする。そんなことはしなくてもいいのかもしれないが、主旋律が強靱すぎることは駱英にもわかっているというか、そのままでは、駱英自身も、その音に叩き壊されて、ことばがつながらない。だから、自然に、それを支えてくれる(受け止めてくれる)「音楽」を要求するのかもしれない。

 この詩には、もうひとつ、おもしろいことば、(ほんとうはひとつではなく、もっとあるのだけれど)、駱英のことばを運動を特徴づけることばがある。

 恐怖への欲望が沸き起こってきた。さまよう野良犬が道端でさかろうとするのを抑えきれないように。

 おもしろいことば--という本題(?)に入る前に、少し、寄り道。
 一つ目の寄り道。「静けさ」には「湧き起こる」、「欲望」には「沸き起こる」。松浦は使い分けているのだろうか。駱英は?--松浦への質問。
 二つ目の寄り道。「恐怖への欲望が沸き起こってきた。」を、駱英は「さまよう野良犬が道端でさかろうとするのを抑えきれないように。」と言いなおしている。そのとき、二つの文章のあいだには「接続詞」がない。あえてことばを補うならば「その」欲望は、さまよう野良犬が道端でさかろうとする(とき)の(欲望のように、)(それ)を抑えきれない--ということになる。
 ほら、「その静けさ」の文章と同じ構造が、「副振動」を導く構造が見えてくるでしょ?
 で、「その」とういことば(ここでは書かれていないけれど)よって「副振動」を引き起こさずにはいられないのと同じように、駱英は「あるいは逆に、」「同時に」「また」ということばで求心・遠心を繰り返さずにはいられない。それは、その欲望は、

抑えきれない

 これが駱英の思想である。
 ことばは抑えきれない。ことばは暴走するにまかせるしかない。暴走しながら、正反対のもの、たとえば、

 殺害と殺害されること、恐怖と恐怖にさらされること、存在と存在させられること、虚無と虚無にされること、肉欲と肉欲まみれにされること、偽善と偽善にされること--。 号泣と号泣されること。

 そういうものを遠心・求心のなかで、いままで存在しなかったものにかえてしまう。かえることで私自身は、「私」が「私」を超越してしまう、否定してしまう、否定して生まれ変わる--そのために、詩があらねばならないのだ。



 

小さなウサギ
駱 英
思潮社

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