監督 ジョン・リー・ハンコック 出演 サンドラ・ブロック、ティム・マッグロウ、クイントン・アーロン、キャシー・ベイツ
私はサンドラ・ブロックが嫌いである。と、書いたら、もう書くことはない。何が嫌いかといえば、顔が嫌いだ。顔の何が嫌いかといえば、表情が乏しい点である。どんな表情が乏しいかといえば、色気がない。知的とか、冷静という見方があるかも知れないが、私は知的、冷静にも色気があると思う。たとえば「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスター。「ハンニバル」のジュリアン・ムーア。色気とは、表情の変化だと思う。サンドラ・ブロックには、表情に動きがない。目の色というか、目の輝きの変化だけがあるけれど、私には、その変化がよく分からない。「黒い眼」ではないからかもしれない。
物語の始まりの方。サンドラ・ブロックが冬の街を半そでで歩く少年を見つける。自宅に泊めることを決意する。その様子を車の中から見ていた夫が「あれは何かを決めた時の顔だ」と言う。まあ、いいんだけれど、そんなことを「ことば」で説明しなくてもわかるのが演技っていうものじゃないだろうか。わざわざ「ことば」をつかっているのは、「ことば」なしでは、アメリカ人にもサンドラ・ブロックの演技が(肉体表現が)わからないという証拠(?)じゃないかな。それでもアカデミー賞候補? 変だねえ。賞の候補に挙がっているのは、サンドラ・ブロックへの賞賛というより、実在のモデルへの賞賛なのだおると思う。
サンドラ・ブロックに比べると、その娘の演技。アフリカ系の少年が家に同居していることで、学校で「いじめ」が起きているらしい。そのときのことをサンドラ・ブロックと話し合う。その表情。少女の方は、しっかりと学校で問題が起きている、けれど私は大丈夫ということを顔で伝える。そこには少女らしい潔癖さが漂う。図書館で少年を見つけたとき、仲間を離れて少年のデスクに行く時の顔。きちんと意思が伝わってくる。
サンドラ・ブロックが演技らしい演技を見せるのは、少年にアメフトのディフェンスの役割を「家族」を例に説明する部分など、「ことば」で思いを伝える部分だけ。いつも「ことば」におんぶしている。演技ではなく、モデルになった女性の「ことば」がサンドラ・ブロックにかわってスクリーンのなかで演技している。それが、私にはおもしろくないなあ。
一か所笑ったシーンがある。大学をどこにしようか迷うっているとき、少年が怖がりと知っている家庭教師、キャシー・ベイツがテネシー大のフィールドには幽霊が出る、とうそをつく。おびえた少年がミシシッピー大を選ぶ。そのばかばかしさ。でも、これも「ことば」なんだけれど。
感心したのは、モデル一家とサンドラ・ブロックら役者の顔が似ていること。役者がその役を演じられるかどうかではなく、似ているかどうかでキャスティングしたのだろう。しかし、これでは演技賞というより「そっくり賞」だね。「そっくり賞」を「演技賞」と思う単純さ、それにのっかったサンドラ・ブロック――というのが、この映画なのかな。
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