詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・リー・ハンコック監督「しあわせの隠れ場所」(★★)

2010-03-02 21:25:08 | 映画


監督 ジョン・リー・ハンコック 出演 サンドラ・ブロック、ティム・マッグロウ、クイントン・アーロン、キャシー・ベイツ

 私はサンドラ・ブロックが嫌いである。と、書いたら、もう書くことはない。何が嫌いかといえば、顔が嫌いだ。顔の何が嫌いかといえば、表情が乏しい点である。どんな表情が乏しいかといえば、色気がない。知的とか、冷静という見方があるかも知れないが、私は知的、冷静にも色気があると思う。たとえば「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスター。「ハンニバル」のジュリアン・ムーア。色気とは、表情の変化だと思う。サンドラ・ブロックには、表情に動きがない。目の色というか、目の輝きの変化だけがあるけれど、私には、その変化がよく分からない。「黒い眼」ではないからかもしれない。
 物語の始まりの方。サンドラ・ブロックが冬の街を半そでで歩く少年を見つける。自宅に泊めることを決意する。その様子を車の中から見ていた夫が「あれは何かを決めた時の顔だ」と言う。まあ、いいんだけれど、そんなことを「ことば」で説明しなくてもわかるのが演技っていうものじゃないだろうか。わざわざ「ことば」をつかっているのは、「ことば」なしでは、アメリカ人にもサンドラ・ブロックの演技が(肉体表現が)わからないという証拠(?)じゃないかな。それでもアカデミー賞候補? 変だねえ。賞の候補に挙がっているのは、サンドラ・ブロックへの賞賛というより、実在のモデルへの賞賛なのだおると思う。
 サンドラ・ブロックに比べると、その娘の演技。アフリカ系の少年が家に同居していることで、学校で「いじめ」が起きているらしい。そのときのことをサンドラ・ブロックと話し合う。その表情。少女の方は、しっかりと学校で問題が起きている、けれど私は大丈夫ということを顔で伝える。そこには少女らしい潔癖さが漂う。図書館で少年を見つけたとき、仲間を離れて少年のデスクに行く時の顔。きちんと意思が伝わってくる。
 サンドラ・ブロックが演技らしい演技を見せるのは、少年にアメフトのディフェンスの役割を「家族」を例に説明する部分など、「ことば」で思いを伝える部分だけ。いつも「ことば」におんぶしている。演技ではなく、モデルになった女性の「ことば」がサンドラ・ブロックにかわってスクリーンのなかで演技している。それが、私にはおもしろくないなあ。
 一か所笑ったシーンがある。大学をどこにしようか迷うっているとき、少年が怖がりと知っている家庭教師、キャシー・ベイツがテネシー大のフィールドには幽霊が出る、とうそをつく。おびえた少年がミシシッピー大を選ぶ。そのばかばかしさ。でも、これも「ことば」なんだけれど。
 感心したのは、モデル一家とサンドラ・ブロックら役者の顔が似ていること。役者がその役を演じられるかどうかではなく、似ているかどうかでキャスティングしたのだろう。しかし、これでは演技賞というより「そっくり賞」だね。「そっくり賞」を「演技賞」と思う単純さ、それにのっかったサンドラ・ブロック――というのが、この映画なのかな。


 

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有田忠郎「風に聞く」、富岡郁子「オレンジの皮」

2010-03-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
有田忠郎「風に聞く」、富岡郁子「オレンジの皮」(「乾河」57、2010年02月01日発行)

 「乾河」の同人たちには、なにか気分的に通い合うものがある。いや、通い合わせているふうをして、ほんとうは違っているという、不思議な関係を持っている。私はときどき、感想を書こうとして、あれ、どの作品の感想を書こうとしていたのかな、何を書くつもりだったのかな、とわからなくなるときがある。

 有田忠郎「風に聞く」は楽しい詩である。

霧子の夫は樵をしていた
森の木を伐り 風の道をつくり
夕べに斧をおいて
小屋にかえる
あたたかいたべものは
霧子の手で用意され
簡素な皿に盛られた

風に聞いた話である

 「きりこ」「きこり」「きをきり」「つくり」「おの」「おいて」という音の響きあいがおもしろい。とても軽い。あ、有田もこういう詩を書くのか、と思いながら読んだ。
 これは、つぎのように変わっていく。

いまは二人で
じゃこめ亭という
レストランを開いている
ろぐはうすの小さなレストラン
テエブル三つ
椅子六つ

風に聞いた話である

 「じゃこめ亭」というのは、まあ、霧子か樵だった夫の趣味(?)か知らないが、あ、このきざったらしさ(?)いやだなあ、と思っていたら。

森の落葉の爽やかな
水をわたしは思う その水は
空のなかにも流れている
ひかりのしずく 散るしぶき

飴のいちにち
書店や画廊めぐり
探し歩いて
キリコの作ったオブジェを見つけ
夫妻に贈った 実は
ちいさな画集だが
タブロウはほとんどオブジェ
と言ったのは
ジャコメッティではなかったか

 「霧子」「キリコ」「じゃこめ亭」「ジャコメッティ」。最初の遊び(音楽)が、最後にもう一度あらわれる。
 そして、それは音の遊びだけではなく、ちょっとおもしろいことも考えさせてくれる。

テエブル三つ
椅子六つ

 この「三つ」とその倍数の関係が、とてもいろいろ考えさせてくれる。「キリコ」「ジャコメッティ」は2人。3人目はだれ? 「三つ」なるための「3人目」はだれ? 「夫(樵)」かな? ではなくて、私は「わたし(有田)」だと思う。
 「霧子」を知っている「わたし」は「じゃこめ亭」を知っている。そして「キリコ」を知っている「わたし」は「ジャコメッティ」も知っている。「わたし」と「わたし」はほんとうは1人だけれど、何を知っているかで違う人間と考えると、3×2=6という算数が成り立つね。
 「わたし」と「わたし」は違う--というのは、まあ、こじつけみたいなものだけれど、そのこじつけのために「森の落ち葉の爽やかな」からはじまる4行がある。ひとは、なんでも思うことができる。そして、その思ったことを知っていることに結びつけると、そこに知っていたことがちょっと違った形であらわれてくる。
 「霧子」が「キリコ」に、「じゃこめ亭」が「ジャコメッティ」のように。
 でも、まあ、それは「風の噂」(風に聞いた話)のように、ふわふわとした軽いなにかなのだけれど、ね。
 この軽い楽しさ--これが今回の有田の詩のおもしろさだ。



 富岡郁子「オレンジの皮」には、また別の芸術家が登場してくる。

アポリネールが三十八歳で死ぬ五日前の新聞記事で
オレンジの皮について書いている
戦争がオレンジの皮を一掃したと

おぼえているだろう
かつては
道ばたに階段に
オレンジの皮が捨てられていた
すべった思い出が一つや二つはあるだろう
踏み外したことがあるだろう
滑って転ぶ
踏み外して迷ってしまう
なんてすてきな無駄遣いの時間だろう

 この「無駄遣いの時間」が、私には「霧子」「キリコ」「じゃこめ亭」「ジャコメッティ」という「遊び」につながっているように感じられるのである。そんなものを結びつけて遊ぶのは「むだ」。けれどその「むだ」はすてき「音楽」。

光を集める果実
おいしいオレンジ
手にとって触ってる人を見たことがあるだろう
セザンヌの絵の中の果実でなく
皮をむいて食べる
したたる果汁を吸う
手がオレンジの味になる
それ
欲しくなったら買って即食べる
それ

 この連で繰り返される「それ」が、私には「無駄」と同じものにみえる。「それ」というのは「意識」になじんだもの、いちいちことばで説明しなくてもいいなにか--他人と共有できるなにか。「手がオレンジの味になる」が特に「無駄」っぽくていいなあ。ねえ、手がオレンジの味になったからといって手を食べれるわけじゃない。けれど、楽しいねえ。うれしいねえ。食べたって感じ、満足感につながるねえ。
 「無駄」というのは、きっと「満足」ということとも関係している。
 「霧子」「キリコ」「じゃこめ亭」「ジャコメッテイ」を結びつけるなんて「無駄」、でも、そういう遊びをすると「満足」しない?

 富岡の詩は、このあとちょっと変わっていく。

街はきれいになった
自分の部屋よりきれいになった
オレンジの皮はもう落ちていない
じゃ聞く
人はどこで
踏み外し
転ぶんだろう

形を変え言葉を変えもっと大きなイクサが
今 ある

 「無駄」「無駄」の満足を奪いさっていくイクサが、いま、ここにある、と富岡はいいたいのだろう。「戦争」と「イクサ」のあいだにはいって、「イクサ」が「戦争」になってしまわないようにするために、ことばは何ができるか。
 などということまでは、私は、ちょっと考えたくない。
 重要な問題なのかもしれないけれど、「乾河」の二人の作品で、私は「遊び」「無駄」が人間にとって欠かせないものであるという感覚を受け止めた--ということだけで、あ、詩を読んでよかったなあ、と「満足」したのである。




光は灰のように
有田 忠郎
書肆山田

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