監督 フィリップ・クローデル 出演 クリスティン・スコット・トーマス、エルザ・ジルベルスタイン、セルジュ・アザナヴィシウス
クリスティン・スコット・トーマスがむずかしい役どころをこなしている。就職の面接官に「あなたの気持ちはわかります」と言われて、瞬間的に怒りだすときの絶望感がすごい。とてもいいのだけれど、と書いて、私は書くことがなくなった。
というのも……。「あなたの気持ちはわかります」と言われて、瞬間的に怒りだすときの絶望感がすごい--このすごさは、たしかにクリスティン・スコット・トーマスの演技によって映像になっているけれど、「文学」の領域に属するものだ。瞬間のなかにある永遠。それは現実では、たとえ瞬間であっても、とても長い時間に感じられる。その「長さ」の表現が映画にはむいていない。映画は長い時間を短い時間として描くのにはむいているが、逆は、かなり難しい。文学は短い時間を長く描くことが得意である。こころは何も考えていないようでもいつも何かを考えている。「一瞬」のあいだに、「一瞬」ではいいきれないことを考えている。この「一瞬」のあいだに「一瞬」をこえることを考えてしまうことが「長さ」なのだが、どんなにクリスティン・スコット・トーマスが名演技をしても「一瞬」でしかない。彼女の心の中にある「長い」時間が表現しきれない。
なぜか。
映像は反芻しないからだ。映像は光なのだ。それはただ駆け抜ける。ところがことば--文学は駆け抜けない。反芻する。何度で何度でも反芻する。「一瞬」に考えることはできないことを、延々と書きつらね、それを「一瞬」と言い張ることができる。2000枚の原稿用紙にかかれたことばも「一瞬」に考えたことだと、言い張ることができる。ことばというのは、そのことばを発しているあいだも、その裏側(?)で別なことばを考えることができるからである。ことばはことばになることでまったく違うことばをその内部に隠しつづけることができる。その隠したものを剥ぎ取りつづければ、それがどんなに長くなっても「一瞬」。
こういうことを、まあ、この映画は、映像として狙っている。それはわかるけれど、あ、つらいなあ。それは映像になるというよりも、役者の「演技」になる。「芝居」になる。「芝居」なら、それは映画になるか--というと、私は、ちょっと違うと思う。「芝居」にはなっても、これは「映画」にはならないのだ。
「芝居」というのは、たとえ3階の桟敷席で見ていても、役者の生の肉体を見ることである。そして、その役者のたとえば指先を見ているときでも、全身を知らない内に見ている。ところが映画はフレームのなかで切り取られた肉体しか見ることができない。肉体の全体がいつもあるわけではない。だから、何かが違う。
芝居は、役者の肉体の全体を知らずに見ることで、現実そのものになる。「一瞬」が肉体のさまざまな「場」で反芻され、「一瞬」をこえるのを知る。ところが、映画ではその「肉体」の反芻、いま、なにごとかが起きていることを別の場所で別のものが反芻しているということを伝えられない。
文学(ことば)、芝居(なまの肉体)ができることが、映画ではできない。
それをやりたい気持ちと、意欲はわかるけれど、まあ、つらい。きびしい。
(途中、日本映画、アジア映画に対する批判が、登場人物の「声」として出てくるけれど、これは、フランス映画が、そういう「文学」路線であるのに対して、日本映画は違うと言っているのである。フランス人にとっては(フランスのある種の映画愛好家にとっては)映画は「文学」なのである。--わかるけれど、私はその気持ちには与しない。)
救いはラストシーン。雨が窓を叩いている。そのガラスの明るさ。外の景色が見えるわけではない。ただ緑があることだけはわかる。その緑の新鮮な美しさ。ガラスを叩く雨のせいで、ゆがむ映像。そこにあるのは形ではなく、色と光だけ。そして、それがとても透明感にあふれている。美しい。もっと見たい--と思った瞬間、ぱっとエンディング。
ことばになる前のものが、ことばを超越して描かれている。
この1分間だけのためにある映画なのかもしれない。このシーンだけなら★5個。このシーンで、クリスティン・スコット・トーマスの、閉じ込められていた「一瞬」の「長さ」が消える。ことばを超越した放心の豊かさのなかで、解きほぐされる。
あ、でも、こういう感想こそ「文学的」かもしれない、とも反省してしまうなあ。
クリスティン・スコット・トーマスがむずかしい役どころをこなしている。就職の面接官に「あなたの気持ちはわかります」と言われて、瞬間的に怒りだすときの絶望感がすごい。とてもいいのだけれど、と書いて、私は書くことがなくなった。
というのも……。「あなたの気持ちはわかります」と言われて、瞬間的に怒りだすときの絶望感がすごい--このすごさは、たしかにクリスティン・スコット・トーマスの演技によって映像になっているけれど、「文学」の領域に属するものだ。瞬間のなかにある永遠。それは現実では、たとえ瞬間であっても、とても長い時間に感じられる。その「長さ」の表現が映画にはむいていない。映画は長い時間を短い時間として描くのにはむいているが、逆は、かなり難しい。文学は短い時間を長く描くことが得意である。こころは何も考えていないようでもいつも何かを考えている。「一瞬」のあいだに、「一瞬」ではいいきれないことを考えている。この「一瞬」のあいだに「一瞬」をこえることを考えてしまうことが「長さ」なのだが、どんなにクリスティン・スコット・トーマスが名演技をしても「一瞬」でしかない。彼女の心の中にある「長い」時間が表現しきれない。
なぜか。
映像は反芻しないからだ。映像は光なのだ。それはただ駆け抜ける。ところがことば--文学は駆け抜けない。反芻する。何度で何度でも反芻する。「一瞬」に考えることはできないことを、延々と書きつらね、それを「一瞬」と言い張ることができる。2000枚の原稿用紙にかかれたことばも「一瞬」に考えたことだと、言い張ることができる。ことばというのは、そのことばを発しているあいだも、その裏側(?)で別なことばを考えることができるからである。ことばはことばになることでまったく違うことばをその内部に隠しつづけることができる。その隠したものを剥ぎ取りつづければ、それがどんなに長くなっても「一瞬」。
こういうことを、まあ、この映画は、映像として狙っている。それはわかるけれど、あ、つらいなあ。それは映像になるというよりも、役者の「演技」になる。「芝居」になる。「芝居」なら、それは映画になるか--というと、私は、ちょっと違うと思う。「芝居」にはなっても、これは「映画」にはならないのだ。
「芝居」というのは、たとえ3階の桟敷席で見ていても、役者の生の肉体を見ることである。そして、その役者のたとえば指先を見ているときでも、全身を知らない内に見ている。ところが映画はフレームのなかで切り取られた肉体しか見ることができない。肉体の全体がいつもあるわけではない。だから、何かが違う。
芝居は、役者の肉体の全体を知らずに見ることで、現実そのものになる。「一瞬」が肉体のさまざまな「場」で反芻され、「一瞬」をこえるのを知る。ところが、映画ではその「肉体」の反芻、いま、なにごとかが起きていることを別の場所で別のものが反芻しているということを伝えられない。
文学(ことば)、芝居(なまの肉体)ができることが、映画ではできない。
それをやりたい気持ちと、意欲はわかるけれど、まあ、つらい。きびしい。
(途中、日本映画、アジア映画に対する批判が、登場人物の「声」として出てくるけれど、これは、フランス映画が、そういう「文学」路線であるのに対して、日本映画は違うと言っているのである。フランス人にとっては(フランスのある種の映画愛好家にとっては)映画は「文学」なのである。--わかるけれど、私はその気持ちには与しない。)
救いはラストシーン。雨が窓を叩いている。そのガラスの明るさ。外の景色が見えるわけではない。ただ緑があることだけはわかる。その緑の新鮮な美しさ。ガラスを叩く雨のせいで、ゆがむ映像。そこにあるのは形ではなく、色と光だけ。そして、それがとても透明感にあふれている。美しい。もっと見たい--と思った瞬間、ぱっとエンディング。
ことばになる前のものが、ことばを超越して描かれている。
この1分間だけのためにある映画なのかもしれない。このシーンだけなら★5個。このシーンで、クリスティン・スコット・トーマスの、閉じ込められていた「一瞬」の「長さ」が消える。ことばを超越した放心の豊かさのなかで、解きほぐされる。
あ、でも、こういう感想こそ「文学的」かもしれない、とも反省してしまうなあ。
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