詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィリップ・クローデル監督「ずっとあなたを愛してる」(★★)

2010-03-07 12:00:00 | 映画
監督 フィリップ・クローデル 出演 クリスティン・スコット・トーマス、エルザ・ジルベルスタイン、セルジュ・アザナヴィシウス 

 クリスティン・スコット・トーマスがむずかしい役どころをこなしている。就職の面接官に「あなたの気持ちはわかります」と言われて、瞬間的に怒りだすときの絶望感がすごい。とてもいいのだけれど、と書いて、私は書くことがなくなった。
 というのも……。「あなたの気持ちはわかります」と言われて、瞬間的に怒りだすときの絶望感がすごい--このすごさは、たしかにクリスティン・スコット・トーマスの演技によって映像になっているけれど、「文学」の領域に属するものだ。瞬間のなかにある永遠。それは現実では、たとえ瞬間であっても、とても長い時間に感じられる。その「長さ」の表現が映画にはむいていない。映画は長い時間を短い時間として描くのにはむいているが、逆は、かなり難しい。文学は短い時間を長く描くことが得意である。こころは何も考えていないようでもいつも何かを考えている。「一瞬」のあいだに、「一瞬」ではいいきれないことを考えている。この「一瞬」のあいだに「一瞬」をこえることを考えてしまうことが「長さ」なのだが、どんなにクリスティン・スコット・トーマスが名演技をしても「一瞬」でしかない。彼女の心の中にある「長い」時間が表現しきれない。
 なぜか。
 映像は反芻しないからだ。映像は光なのだ。それはただ駆け抜ける。ところがことば--文学は駆け抜けない。反芻する。何度で何度でも反芻する。「一瞬」に考えることはできないことを、延々と書きつらね、それを「一瞬」と言い張ることができる。2000枚の原稿用紙にかかれたことばも「一瞬」に考えたことだと、言い張ることができる。ことばというのは、そのことばを発しているあいだも、その裏側(?)で別なことばを考えることができるからである。ことばはことばになることでまったく違うことばをその内部に隠しつづけることができる。その隠したものを剥ぎ取りつづければ、それがどんなに長くなっても「一瞬」。
 こういうことを、まあ、この映画は、映像として狙っている。それはわかるけれど、あ、つらいなあ。それは映像になるというよりも、役者の「演技」になる。「芝居」になる。「芝居」なら、それは映画になるか--というと、私は、ちょっと違うと思う。「芝居」にはなっても、これは「映画」にはならないのだ。
 「芝居」というのは、たとえ3階の桟敷席で見ていても、役者の生の肉体を見ることである。そして、その役者のたとえば指先を見ているときでも、全身を知らない内に見ている。ところが映画はフレームのなかで切り取られた肉体しか見ることができない。肉体の全体がいつもあるわけではない。だから、何かが違う。
 芝居は、役者の肉体の全体を知らずに見ることで、現実そのものになる。「一瞬」が肉体のさまざまな「場」で反芻され、「一瞬」をこえるのを知る。ところが、映画ではその「肉体」の反芻、いま、なにごとかが起きていることを別の場所で別のものが反芻しているということを伝えられない。
 文学(ことば)、芝居(なまの肉体)ができることが、映画ではできない。
 それをやりたい気持ちと、意欲はわかるけれど、まあ、つらい。きびしい。
 (途中、日本映画、アジア映画に対する批判が、登場人物の「声」として出てくるけれど、これは、フランス映画が、そういう「文学」路線であるのに対して、日本映画は違うと言っているのである。フランス人にとっては(フランスのある種の映画愛好家にとっては)映画は「文学」なのである。--わかるけれど、私はその気持ちには与しない。)

 救いはラストシーン。雨が窓を叩いている。そのガラスの明るさ。外の景色が見えるわけではない。ただ緑があることだけはわかる。その緑の新鮮な美しさ。ガラスを叩く雨のせいで、ゆがむ映像。そこにあるのは形ではなく、色と光だけ。そして、それがとても透明感にあふれている。美しい。もっと見たい--と思った瞬間、ぱっとエンディング。
 ことばになる前のものが、ことばを超越して描かれている。
 この1分間だけのためにある映画なのかもしれない。このシーンだけなら★5個。このシーンで、クリスティン・スコット・トーマスの、閉じ込められていた「一瞬」の「長さ」が消える。ことばを超越した放心の豊かさのなかで、解きほぐされる。
 あ、でも、こういう感想こそ「文学的」かもしれない、とも反省してしまうなあ。
 
 


灰色の魂
フィリップ・クローデル
みすず書房

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佐々木洋一「少女」、柿沼徹「反響」

2010-03-07 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「少女」、柿沼徹「反響」(「この場所 ici 」2、2009年12月05日発行)

 佐々木洋一「少女」は、少女のことばを聞いているひとのことを書いている。

「ホットドックがたべたいな」

少女が言う

そのまま信じていいものか

風の勢いで唇を切ったと告げる少女の頬はなぜか腫れている

腫らしたままでいいものか

そっと冷やして上げる

少女は風の勢いについて話し出す

「怒り風 隙ま風 猛り風 狂い風 破れ風 扱(しご)く風 逆さ風
 叩く風 犯す風」

たくさんの風にさらされている

「ホットドックがたべたいな」

少女がつぶやく

そのままさりげなく信じていいものか

 「少女」と作者がどういう関係になるか、はっきりとはわからない。わからないけれど、(わからないから?)私は勝手に想像してしまう。
 少女の頬には殴られた跡がある。腫れている。けれど少女はその「腫れ」を風の勢いで唇を切ったせい、という。そのくれ、その風には「怒り」「狂い」「叩く」「犯す」というような、ぶっそうなものがまじっている。
 人間には、正直には語れないことがある。語るということは、自分が体験したことをもういちどことばで体験しなおすということである。そこには、どうしたって繰り返したくないことがある。だから、「正直」にはなれない。その正直になれないということが、人間の正直の悲しさなのである。
 こういうとき、人は、その「語り」に対して、どう向き合うことができるだろうか。
 むずかしいね。
 佐々木は、ことばをはさまず、ただ黙って聞いている。黙って聞いているけれど、その黙っていることのなかには、佐々木のことばがつまっている。
 3行目の「そのまま信じていいものか」と、最終行「そのままさりげなく信じていいものか」のあいだの「さりげなく」のなかで、佐々木は苦悩している。どんな反響をかえすにしろ、それは「さりげなく」でないと、またひとつの「風」になってしまう。
 語れないことばの前で、佐々木だけが「ことば」に復讐されている。その復讐を受け止める佐々木の強さが静に滲む詩である。



 柿沼徹「反響」は用水路にかかる鉄橋を思い出す詩である。

電車が去ったあとは
その何倍もの静寂が立ちあがるのだ
復讐でもするかのように
(静寂のなかで
(どんな言葉を言ったのか
記憶にすぎないものは
耳鳴りにちかい

 この連の7行が私は好きだ。まるで、恋が過ぎ去って、いま、孤独、孤独という沈黙に復讐されている--そう書いているように読める。(そんなふうに、読みたい。)
 対話する相手は、恋人ではなく、「ぼく(柿沼)」自身である。「ぼく」が「ぼく」に語ることばは、それがどんなものであれ、恋人に語ることばと対比するとき、それは「耳鳴り」であるだろう。「耳鳴り」は「静寂」の「何倍もの」沈黙なのだ。
 「復讐」ということばが、とても美しい。美して、痛烈である。

 けれども、私は、この作品の他の部分は嫌いである。

 (冒頭からやりなおそう

 という行が、先に引用した部分のあとに、独立した1行として存在する。その孤立感も嫌いではないが、それにいたるまでのことばが、なんとも気持ちが悪い。

用水路のなかに
鯉の背中が動くのが見えた
どちらかが最初に見つけ
ながいあいだ
ふたりで眺めた
ゆるりと動く水の音が
耳に届くくらい静だった
(それが記憶であることは
(付言するまでもない

ときおり電車が通過した
ガード下に立つと
轟音に包まれることができた
電車が近づくたびに
ふたりでガード下に駆け込み
轟音の響きにまみれた
(それも記憶であることは
(付言するまでもない

 「(付言するまでもない」というもったりしたことばに、ぞっとしてしまう。自分の記憶のことじゃないか、もったいぶるなよ、といいたくなるのである。
 けれども。
 あ、これが詩のむずかしいところなんだろうなあ。文学の複雑なところなんだろうなあ。この「もったりした」、言わずもがなの部分を、あえて言ってしまう。そして、その言ってしまったことば、(ほんとうは書いてしまったことば、と書くべきか……)、そのことばのなかに淫していってしまう。そういうことばのなかに、書くひとをひきずりこんでしまうというのが、文学なんだろうなあ。
 柿沼のこの詩を読んで、満足するひとの数、あるいは読者の満足の総量より、きっとこういう詩を書くことに満足している柿沼の満足の量方がはるかに大きい。

(冒頭からやりなおそう

用水路に沿った歩道を歩いていた…

 柿沼は、そう書いて、1連目へ戻るのである。

用水路に沿った歩道を歩いていると
ぼくたちの先に
鉄道の高架が
低く横切っていた
(その情景を
(今日は憶いだしたのだが

 「記憶」と「現実」の「反響」。たぶん、柿沼は、そういうことを書きたいのだろうけれど、「反響」は、やっぱりおもしろくない。「復讐」でないと。
 「反響」では、「現実」も「記憶」も、どちらも存在していることが条件としてひつようになる。「復讐」はどちらかがどちらかを殺してしまうこと。どちらかを殺してしまわないと終わらない。先へ進まない。まあ、「復讐」には怨念みたいなものかあって、それが嫌いというひとがいるかもしれないが、どちらかを殺して決着をつけるなんて、さっぱりしていていいなあ、と思う。
 「復讐」がいやなら、「付言するまでもない」というような念押しはせずに、佐々木のように「さりげなく」、じっと耳をすませばいいのだと思う。
 でも、まあ、「付言するまでもない」なんて、「付言」したくてしようがないから書いているのだから、これは無理な注文だね。「付言」したくてしようがない、書きたくてしようがないという気持ちのなかにこそ、詩、文学があるのだから、これは注文してはいけない注文だね。
 わかっているけどね。


みたことのある朝
柿沼 徹
詩学社

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