監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド
「午前十時の映画祭」8本目。
何度でも見たい映画、毎日でも見たい映画である。
映画の興奮は、いままで見たこともないものを見ることである。この映画には、いままで見たこともないものしか存在しない。あらゆる映像が、見たこともないものである。映画の登場人物自身が、いままで見たこともないものを見る、いままで体験しなかったことを体験する--その記録でできているからである。
冒頭の雲と空。それは、ありふれた雲と空である。飛行機が飛ぶとき、その操縦席から見える空と雲。それは見慣れているはずである。映画で何度も見たはずである。けれども、違うのだ。この映画ではまったく違って見えるのだ。
その操縦席に座っている男は、人類未踏のスピードに挑戦している。そのとき男が見る雲、そして雲の背景(?)としての青空は、だれも見たこともない雲と空なのだ。その、だれも見たこともないものを見るのだという興奮が冒頭から伝わってくる。
いいなあ、この興奮。
この興奮を、この映画は「抽象」として描いてはいない。「具体」として描いている。それが、すごい。
サム・シェパードが始めて「音速」の壁を破る。はげしい振動を超えて、彼が操縦する飛行機が音速に突入する。そのとき、青空が、その青が、深く、巨大な固まりになる。音速の壁を超えたのに、その群青は、まるで壁である。あ、そうなのだ。サム・シェパードが人類で始めて音速を超えたとき、それは他のパイロットにとっての壁になるのだ。その深い青空、「悪魔」が住んでいる群青は、サム・シェパードを超えたいと思うすべてのパイロットの「壁」になる。分厚く、強靱な「壁」になる。
夢中になってしまうなあ。私はパイロットではないし、なんというか、だれもできないことをするのが男の証だというようなマッチョ思想とは無縁な人間だと思っているのだが、血が騒いでしまう。青い空が群青に変わる瞬間のスピード。だれも経験がしたことのない世界へ踏み入れる瞬間の、それこそ「悪魔」の手引きがあって始めて可能のようななにかに魅せられる気持ちが、あらゆる論理を超えて私をつつんでしまう。「右翼」だとか、くだらないマチシズムだとかと批判されてもかまわない。あの、青が、群青にかわる瞬間を、その瞬間の「やったあ」と叫ぶ快感に身を任せられるなら、なんと言われてもかまわない、と思ってしまう。
それが、見たい。それを体感したい。その興奮。その感激。
書きはじめるときりがないけれど、ああ、すごいなあ。全編を貫く剛直な映像。ゆるぎのない存在の確かさ。だれも経験したことのないものを次々にぶち破って手にいれる男の、その確信と、それに拮抗する存在の確かさ。
ロケットの、次々に打ち上げに失敗するロケットの、その失敗の、失敗の、失敗の、永遠の失敗の、その無駄の、永遠の無駄の--終わることのない無駄の剛直さ。無意味の剛直さ。
いまは、しないねえ。こんなことはしないねえ。経済の役に立たないからね。人間の「福祉」の役に立たないからねえ。
でも、人間というのは役に立たないことをしたいものなのだ。無意味なことをしたいものなのだ。そして、どんな無意味なことにも、必ず、それを疎外する「壁」がある。剛直な壁がある。どうしようもない壁がある。そして同時に、その壁を壊したいという剛直な欲望がある。
同じことばの繰り返しでしかいえないけれど、この不可能な無意味性、それを知っていてなおかつそれをしてしまう人間。その緊迫感。これは、ほんとうに、いい。この全体的な剛直性は、私には「いい」としかいいようがない。
そして。
そして、とつづけていいのかどうかわからないけれど。この映画は、単に剛直であるだけではない。欲望の剛直な輝きを描くだけではない。サム・シェパードは大学卒ではないというだけの理由で、あらゆる空を飛ぶ男たちの夢である「宇宙飛行士」の選考にも加わることができない。
けれど、サム・シェパードは知っている。空を飛ぶのはロケットだけではない。さまざまな飛行機がある。そして、そのひとつひとつの飛行機は、その性能の極限を切り開くテストパイロットを必要としている。どんな状況においても、極限を切り開く人間がいる。極限を切り開く瞬間、そこにはだれも見たことのない世界が広がる。極限の突破は、あるものは華々しく語られる。そして、その華々しい極限の突破の背後には、それにつながる無数の極限の突破がある。--だれも知らない極限の突破、とことばにしてしまいそうだが、そうではなく、それはその極限を突破した男によって確実に認識され、蓄積される。その「確実さ」。
それは、最先端の「剛直さ」を支える「やわらかさ」のようなものである。剛直だけでは、存在はささいなことで破壊されてしまう。あらゆる破壊を、しっかりと受け止めて守る「やわらかさ」。--人間性。私のことばは、先回りして、人間性と言ってしまうのだが、そういうものがある。
この映画の魅力は、きっと永遠に語り尽くすことができない。この映画は、終わりのない映画だからである。
「ゴッドファーザー」にも「カサブランカ」にも「終わり」がある。けれども「ライトスタッフ」には終わりはない。極限を突き破るための「正しい資質」。それは「結論」ではなく、出発点である。
「宇宙競争」は、いまは、中断している。ように、見える。でも、人間は夢を見る。極限を超えたいと欲望する。そして、その極限を超えるための「正しい資質」は、いつでも、どこにでも、その運動の場を押し広げていく。そのときの、まったく新しい風景、新しい色、新しい形--ああ、その原型と到達点がこの映画にある。
これは何度見ても全体に見飽きるということのない映画でしかない映画である。
「午前十時の映画祭」8本目。
何度でも見たい映画、毎日でも見たい映画である。
映画の興奮は、いままで見たこともないものを見ることである。この映画には、いままで見たこともないものしか存在しない。あらゆる映像が、見たこともないものである。映画の登場人物自身が、いままで見たこともないものを見る、いままで体験しなかったことを体験する--その記録でできているからである。
冒頭の雲と空。それは、ありふれた雲と空である。飛行機が飛ぶとき、その操縦席から見える空と雲。それは見慣れているはずである。映画で何度も見たはずである。けれども、違うのだ。この映画ではまったく違って見えるのだ。
その操縦席に座っている男は、人類未踏のスピードに挑戦している。そのとき男が見る雲、そして雲の背景(?)としての青空は、だれも見たこともない雲と空なのだ。その、だれも見たこともないものを見るのだという興奮が冒頭から伝わってくる。
いいなあ、この興奮。
この興奮を、この映画は「抽象」として描いてはいない。「具体」として描いている。それが、すごい。
サム・シェパードが始めて「音速」の壁を破る。はげしい振動を超えて、彼が操縦する飛行機が音速に突入する。そのとき、青空が、その青が、深く、巨大な固まりになる。音速の壁を超えたのに、その群青は、まるで壁である。あ、そうなのだ。サム・シェパードが人類で始めて音速を超えたとき、それは他のパイロットにとっての壁になるのだ。その深い青空、「悪魔」が住んでいる群青は、サム・シェパードを超えたいと思うすべてのパイロットの「壁」になる。分厚く、強靱な「壁」になる。
夢中になってしまうなあ。私はパイロットではないし、なんというか、だれもできないことをするのが男の証だというようなマッチョ思想とは無縁な人間だと思っているのだが、血が騒いでしまう。青い空が群青に変わる瞬間のスピード。だれも経験がしたことのない世界へ踏み入れる瞬間の、それこそ「悪魔」の手引きがあって始めて可能のようななにかに魅せられる気持ちが、あらゆる論理を超えて私をつつんでしまう。「右翼」だとか、くだらないマチシズムだとかと批判されてもかまわない。あの、青が、群青にかわる瞬間を、その瞬間の「やったあ」と叫ぶ快感に身を任せられるなら、なんと言われてもかまわない、と思ってしまう。
それが、見たい。それを体感したい。その興奮。その感激。
書きはじめるときりがないけれど、ああ、すごいなあ。全編を貫く剛直な映像。ゆるぎのない存在の確かさ。だれも経験したことのないものを次々にぶち破って手にいれる男の、その確信と、それに拮抗する存在の確かさ。
ロケットの、次々に打ち上げに失敗するロケットの、その失敗の、失敗の、失敗の、永遠の失敗の、その無駄の、永遠の無駄の--終わることのない無駄の剛直さ。無意味の剛直さ。
いまは、しないねえ。こんなことはしないねえ。経済の役に立たないからね。人間の「福祉」の役に立たないからねえ。
でも、人間というのは役に立たないことをしたいものなのだ。無意味なことをしたいものなのだ。そして、どんな無意味なことにも、必ず、それを疎外する「壁」がある。剛直な壁がある。どうしようもない壁がある。そして同時に、その壁を壊したいという剛直な欲望がある。
同じことばの繰り返しでしかいえないけれど、この不可能な無意味性、それを知っていてなおかつそれをしてしまう人間。その緊迫感。これは、ほんとうに、いい。この全体的な剛直性は、私には「いい」としかいいようがない。
そして。
そして、とつづけていいのかどうかわからないけれど。この映画は、単に剛直であるだけではない。欲望の剛直な輝きを描くだけではない。サム・シェパードは大学卒ではないというだけの理由で、あらゆる空を飛ぶ男たちの夢である「宇宙飛行士」の選考にも加わることができない。
けれど、サム・シェパードは知っている。空を飛ぶのはロケットだけではない。さまざまな飛行機がある。そして、そのひとつひとつの飛行機は、その性能の極限を切り開くテストパイロットを必要としている。どんな状況においても、極限を切り開く人間がいる。極限を切り開く瞬間、そこにはだれも見たことのない世界が広がる。極限の突破は、あるものは華々しく語られる。そして、その華々しい極限の突破の背後には、それにつながる無数の極限の突破がある。--だれも知らない極限の突破、とことばにしてしまいそうだが、そうではなく、それはその極限を突破した男によって確実に認識され、蓄積される。その「確実さ」。
それは、最先端の「剛直さ」を支える「やわらかさ」のようなものである。剛直だけでは、存在はささいなことで破壊されてしまう。あらゆる破壊を、しっかりと受け止めて守る「やわらかさ」。--人間性。私のことばは、先回りして、人間性と言ってしまうのだが、そういうものがある。
この映画の魅力は、きっと永遠に語り尽くすことができない。この映画は、終わりのない映画だからである。
「ゴッドファーザー」にも「カサブランカ」にも「終わり」がある。けれども「ライトスタッフ」には終わりはない。極限を突き破るための「正しい資質」。それは「結論」ではなく、出発点である。
「宇宙競争」は、いまは、中断している。ように、見える。でも、人間は夢を見る。極限を超えたいと欲望する。そして、その極限を超えるための「正しい資質」は、いつでも、どこにでも、その運動の場を押し広げていく。そのときの、まったく新しい風景、新しい色、新しい形--ああ、その原型と到達点がこの映画にある。
これは何度見ても全体に見飽きるということのない映画でしかない映画である。
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