詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィリップ・カウフマン監督「ライトスタッフ」(★★★★★)

2010-03-28 10:00:00 | 午前十時の映画祭
監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド

 「午前十時の映画祭」8本目。
 何度でも見たい映画、毎日でも見たい映画である。
 映画の興奮は、いままで見たこともないものを見ることである。この映画には、いままで見たこともないものしか存在しない。あらゆる映像が、見たこともないものである。映画の登場人物自身が、いままで見たこともないものを見る、いままで体験しなかったことを体験する--その記録でできているからである。
 冒頭の雲と空。それは、ありふれた雲と空である。飛行機が飛ぶとき、その操縦席から見える空と雲。それは見慣れているはずである。映画で何度も見たはずである。けれども、違うのだ。この映画ではまったく違って見えるのだ。
 その操縦席に座っている男は、人類未踏のスピードに挑戦している。そのとき男が見る雲、そして雲の背景(?)としての青空は、だれも見たこともない雲と空なのだ。その、だれも見たこともないものを見るのだという興奮が冒頭から伝わってくる。
 いいなあ、この興奮。
 この興奮を、この映画は「抽象」として描いてはいない。「具体」として描いている。それが、すごい。
 サム・シェパードが始めて「音速」の壁を破る。はげしい振動を超えて、彼が操縦する飛行機が音速に突入する。そのとき、青空が、その青が、深く、巨大な固まりになる。音速の壁を超えたのに、その群青は、まるで壁である。あ、そうなのだ。サム・シェパードが人類で始めて音速を超えたとき、それは他のパイロットにとっての壁になるのだ。その深い青空、「悪魔」が住んでいる群青は、サム・シェパードを超えたいと思うすべてのパイロットの「壁」になる。分厚く、強靱な「壁」になる。
 夢中になってしまうなあ。私はパイロットではないし、なんというか、だれもできないことをするのが男の証だというようなマッチョ思想とは無縁な人間だと思っているのだが、血が騒いでしまう。青い空が群青に変わる瞬間のスピード。だれも経験がしたことのない世界へ踏み入れる瞬間の、それこそ「悪魔」の手引きがあって始めて可能のようななにかに魅せられる気持ちが、あらゆる論理を超えて私をつつんでしまう。「右翼」だとか、くだらないマチシズムだとかと批判されてもかまわない。あの、青が、群青にかわる瞬間を、その瞬間の「やったあ」と叫ぶ快感に身を任せられるなら、なんと言われてもかまわない、と思ってしまう。 
 それが、見たい。それを体感したい。その興奮。その感激。

 書きはじめるときりがないけれど、ああ、すごいなあ。全編を貫く剛直な映像。ゆるぎのない存在の確かさ。だれも経験したことのないものを次々にぶち破って手にいれる男の、その確信と、それに拮抗する存在の確かさ。
 ロケットの、次々に打ち上げに失敗するロケットの、その失敗の、失敗の、失敗の、永遠の失敗の、その無駄の、永遠の無駄の--終わることのない無駄の剛直さ。無意味の剛直さ。
 いまは、しないねえ。こんなことはしないねえ。経済の役に立たないからね。人間の「福祉」の役に立たないからねえ。
 でも、人間というのは役に立たないことをしたいものなのだ。無意味なことをしたいものなのだ。そして、どんな無意味なことにも、必ず、それを疎外する「壁」がある。剛直な壁がある。どうしようもない壁がある。そして同時に、その壁を壊したいという剛直な欲望がある。
 同じことばの繰り返しでしかいえないけれど、この不可能な無意味性、それを知っていてなおかつそれをしてしまう人間。その緊迫感。これは、ほんとうに、いい。この全体的な剛直性は、私には「いい」としかいいようがない。

 そして。

 そして、とつづけていいのかどうかわからないけれど。この映画は、単に剛直であるだけではない。欲望の剛直な輝きを描くだけではない。サム・シェパードは大学卒ではないというだけの理由で、あらゆる空を飛ぶ男たちの夢である「宇宙飛行士」の選考にも加わることができない。
 けれど、サム・シェパードは知っている。空を飛ぶのはロケットだけではない。さまざまな飛行機がある。そして、そのひとつひとつの飛行機は、その性能の極限を切り開くテストパイロットを必要としている。どんな状況においても、極限を切り開く人間がいる。極限を切り開く瞬間、そこにはだれも見たことのない世界が広がる。極限の突破は、あるものは華々しく語られる。そして、その華々しい極限の突破の背後には、それにつながる無数の極限の突破がある。--だれも知らない極限の突破、とことばにしてしまいそうだが、そうではなく、それはその極限を突破した男によって確実に認識され、蓄積される。その「確実さ」。
 それは、最先端の「剛直さ」を支える「やわらかさ」のようなものである。剛直だけでは、存在はささいなことで破壊されてしまう。あらゆる破壊を、しっかりと受け止めて守る「やわらかさ」。--人間性。私のことばは、先回りして、人間性と言ってしまうのだが、そういうものがある。

 この映画の魅力は、きっと永遠に語り尽くすことができない。この映画は、終わりのない映画だからである。
 「ゴッドファーザー」にも「カサブランカ」にも「終わり」がある。けれども「ライトスタッフ」には終わりはない。極限を突き破るための「正しい資質」。それは「結論」ではなく、出発点である。
 「宇宙競争」は、いまは、中断している。ように、見える。でも、人間は夢を見る。極限を超えたいと欲望する。そして、その極限を超えるための「正しい資質」は、いつでも、どこにでも、その運動の場を押し広げていく。そのときの、まったく新しい風景、新しい色、新しい形--ああ、その原型と到達点がこの映画にある。

 これは何度見ても全体に見飽きるということのない映画でしかない映画である。

ライトスタッフ [DVD]

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駱英『小さなウサギ』(2)

2010-03-28 00:00:00 | 詩集
駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(2)(思潮社、2010年03月01日発行)

 「或いは逆に、」は「二本の樹」という作品では、別のことばで書かれている。

苦しみは、単なる存在の自己証明なのではない。苦しみを感じるとき、同時に存在の快感をも享受しているのである。

 「同時に」が「或いは逆に、」である。少しことばを補うとそのことが明確にわかるはずだ。

苦しみは、単なる存在の自己証明なのではない。苦しみを感じるとき、(ひとは)「或いは逆に」存在の快感をも享受しているのである。

 「苦しみ」の対極に「快感」がある。それは「同時に」存在する。それは「苦しみ」は単に「苦しみ」であるのではなく、「或いは逆に、」「快感」と呼ぶべきものなのである。それは切り離せない。「逆」といいながら、かならず「同時」である。反対のものであるからこそ、対極にあるものだからこそ、矛盾したものだからこそ、それは「同時に」という限定が必要なのだ。もしそれが「同時に」でなければ、そのふたつは何の問題もない。「同時に」であるからこそ、そこにはことばで分け入っていかなければならない「本質」がある。ことばでしかたどりつけない「本質」がある。つまり、そこには「思想」がある。 

 「或いは逆に、」がそうであったように、「同時に」は書かれてはいないが、駱英のこの作品には随所に存在している。いくつもの個所で「同時に」を補うことができる。補った方がよりわかりやすくなる。

 喜びを交換するとき、「同時に」痛みも交換している。


 歓喜する者が樹で、「同時に」謀殺する者も樹である。新たな生を得るのが樹で、「同時に」枯れるのも樹である。受けとめる者が樹で、「同時に」抑圧する者も樹である。高貴なのが樹で、「同時に」下賤なのも樹である。しなやかなのが樹で、「同時に」折れやすいのも樹である、などなど。

 そして、この「同時に」には、「或いは逆に、」に置き換えてしまうと、少し「意味」(流通言語としての意味)がおかしくなるものがある。

 喜びを交換するとき、「同時に」痛みも交換している。これは、喜びを交換するとき、「或いは逆に、」痛みも交換している、と書き換えても問題はない。「喜び」の対極のことばは「悲しみ」かもしれないが、「悲しみ」には「痛み」がともなうから、まあ、「逆」ということばで向き合わせても、それほど違和感はない。
 けれど、「歓喜」と「謀殺」はどうだろう。「受けとめる」と「抑圧する」はどうだろう。「歓喜」の対極は「悲嘆」だろうか、「苦悩」だろうか。「受けとめる」の対極は「剥奪する」だろうか。
 それらは、「或いは逆に、」ということばで向き合わせるとき、しっくりと「文脈」におさまるかどうかわからない。
 「世界」には、そういうものが存在するのだ。
 なんとなく「或いは逆に、」といってもいいけれど、そういいきってしまうと、微妙に何かが違う。けれど、単なる並列ではなく、違う形で存在するものが、どちらかというと片方を支えるではなく、否定するような(つまり矛盾するような)形で存在するものが。そういうものを書き留める、ことばにするとき、駱英は「同時に」ということば、表現をつかうのだ。
 そして、この「同時に」ということばとともに、対極にあるものが(対極に近いものが)存在するとき、そこにひとつの「形」(存在形式)が生まれる。
 それが「絡む」である。

 二本の樹の絡みあった根っこは、深く愛しあう恋人同士、或いは同性愛の恋人同士の、片時も止むことのない性行為のようではないか。

 書き出しにあらわれる「絡みあった根っこ」、その「絡む」という同士。「二本」の樹。ふたつが対立するのではなく、並列する。しかし、それは助け合っているのか、殺し合っているのか、簡単には定義はできない。性行為ということばが出てくるが、性行為の絶頂は「死ぬ」である。それは「殺す」のか、「或いは逆に、」「生かす」のか(新しい命を与えるのか)、そしてその「殺す」と「生かす」は別の時間ではなく「同時に」存在するとき、限りなく燃え上がるものだが、その「殺す」と「生かす」は、単に「支えあう」のではなく「絡みあう」のである。

 お互いに便りあう根っこをさらに幾組みも絡めあわせよう。そうすれば、地上と地下に二つの森ができあがる。

 ここにも、実は「同時に」が隠れている。地上と地下に「同時に」二つの森ができあがる。そして、それは「或いは逆に、」でもある。地上に森ができあがる、「或いは逆に、」地下に森ができあがる。つまり、地上と地下に「同時に」二つの森ができあがる。繰り返しになってしまうが、駱英のことばは、そんなふうに運動する。
 地上には枝葉の森、地下には根っこの森。
 駱英のことばは、この地上・地下という表現が呼びさますような、対極を常に行き来する。いや、対極を一点に引き寄せ、結合させ、結合によって爆発させ、解放する。そして、それは解放であっても、かならず対極のものが「絡んで」いる。「絡んで」いるからこそ、それは動き回るのだ。

 「或いは逆に、」そして「同時に」。この矛盾したことばは、常に動き回る。どうしても、そこにはスピードというものがあふれてくる。強靱というものがあふれてくる。速くて、強靱--そして、それは切り離せない。それが駱英のことばだ。





都市流浪集
駱 英
思潮社

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