藤維夫「どこでもいい場所」、井上瑞貴「十二月の坂をくだった」(「SEED」21、2010年02月15日発行)
藤維夫「どこでもいい場所」には静かな倦怠と虚無がある。
そこがどこでもいい場所だから
おそい落日の丘にきて
木々に向かいあう
川の対岸と向き会う
たぶん閉ざされたまま静止している
この5行目の「主語」は何だろうか。「木々」か「川の対岸」か。あるいは「わたし」か。不明の主語。不在の主語。不在がつくりだす「音」のなさ、無音の虚無がある。
私の勘違いかもしれないが(正確な分析にもとづくものではないが)、藤の描くものは「音」を欠いている。ことばに「音」があるから、対象は「音」がなくてもいい、「視覚的」であればいいということかもしれない。
ここでも「川の対岸」は登場するが、「川」そのものは登場しない。水音がない。その「音」のなさと、主語の不在が、沈黙のなかで響きあう。それが「静けさ」である。
「静止」ということばが出てくるが、そのなかにも「静」ということばがある。このとき「止まっている」のは「音」である。
「視覚」は動いている。その動いている「視覚」--その「主体」が「主語」ということになる。
渇望のはて
長い冬がある
偽りの青ざめた瞳は病み
男はひとり何を思うのだろう
きょうはやさしい雪が舞いこんできた
過去なのか現実なのかわからないが
鳥か蝶かもわからない染みのような雪
そういう今は過去なのかもしれない
「青ざめた瞳」。視覚に付加された色彩。ここに、この作品の「主語」があるまで「視覚」であることが刻印されている。
「聴覚」ではなく「視覚」。
「聴覚」(音)と「視覚」(色・形)は何が違うか。次の2行が明確に語っている。
きょうはやさしい雪が舞いこんできた
過去なのか現実なのかわからないが
「聴覚」にとっては「過去」と「現実」の違いははっきりしている。「過去」は次々に消えていく。それが「音」の世界である。聴覚にとって「過去」と「現実」がわからないということは絶対にありえない。いつでも「現実」(いま)しかない。「過去」は存在しない。
ところが「視覚」は違うのだ。「視覚」は動かない。静止している。「木々」「対岸」それは動かない。舞い込んで来た雪。それは動いているけれど、動かない。つまり、ずーっと動くことで雪でありつづけている。「視覚」は「いま」と「過去」を区別できないのだ。「いま」見えているものが「過去」とどう違うか、理解できない。把握できない。
「視覚」にとって「時間」は「不在」なのである。「主語」の不在と、「時間」の「不在」が、「音」(聴覚)の「不在」と重なり、そこに「視覚」の「静止」した存在だけが浮かび上がる。
それが、いま、藤の向き合っているものである。
そこまでことばを動かしてきて、4連目で、やっと「主語」である「わたし」がことばとして登場する。
軋む呼吸をじっと耐えながら
わたしの虚無を睨む
空虚な航跡
色彩をつよく敷き懊悩の骨片は散らばり
過去は前方の絶望へと帰っている
「わたし」を登場させながら、その「主語」である「わたし」を「わたしの虚無をにらむ」と別の「主語」にゆずる形で動くことば。あくまで「不在」を貫こうとすることばとの意思。--ここに「倦怠」がある。「不在」の完遂こそが「倦怠」なのだ。
最終行の「過去は前方の」というふつうの時間感覚とは矛盾することば。時間は直線的に流れ、あるいは不可逆的に流れるから、過去は常に後方であるという意識と軋轢を起こすことば--そこにも、藤の「主語」が「視覚」を生きていることが明記されている。
「聴覚」にとって、「過去」が「前方」ということはありえない。
「視覚」にとっても「過去」は「後方」でありえるかもしれないが、「視覚」とは動いているものでも、それを「過去」とは理解しない、次々に過去が消えていくとは理解しない。簡単な例でいえば、たとえば 100メートル競走。スタートからゴールまで走り抜ける人間の動き。それは、ランナーが走り抜けたあとも、10秒前はあのスタート地点、10秒後はゴールのテープを切った、ここ、という具合に「視覚」の上で(架空の空間で)再現し、それを「同時」に眺めることができる。
そういうふうにして、藤は「過去」を「前方」に見ている。
藤は「視覚」的人間である。その子とが、非常にくっきりと浮かび上がる詩である。
*
井上瑞貴「十二月の坂をくだった」には、奇妙な「音楽」がある。
どこかで降り始めた雨のしたで見失ったひとを
ただ思い出したいと思って雨を待った
変わりやすい月が変わる
言葉で感じる女を無言で抱くように月は再会の月になる
「雨」「月」。繰り返されることばは、繰り返されることで別個の存在になる。「降り始めた雨のしたで」「雨を待った」わけではない。いま、雨は降っていない(存在していな)。そういう状況のなかで「降り始めた雨」とともにある「思い出」を「思い出す」ために「雨を待った」。
この繰り返しは、いま、私が井上のことばを書き直した、思い出を思い出すという繰り返しのなかにこそ、その「いのち」のようなものがある。(井上は、正確には「思い出したいと思って」と書いている。)
この感覚--思い出を思い出すという繰り返しの感覚。思い出したいと思うというときの、「思う」の念押しというか、重複させることで何かを明確にするという手法。そこに「聴覚」の一つの形があると私は考えている。過ぎ去っていく。だから何度でも何度でも思い出を思い出す。そこに「音楽」というものがある。
あ、抽象的で、よくないなあ。
いま私はモーツァルトを思い出している。(土曜日に「アマデウス」を見たせいかもしれない。)モーツァルトの音楽は、繰り返し、繰り返し、繰り返しである。そこに濃密な感覚があふれてくる。時間が「過去」になることを拒絶して噴出してくるときの、あざやかな輝きがある。
井上がこの詩でめざしているものは、そういうものかもしれない。
ぼくたちに似た河を探しながら十一月の橋を渡り
十二月の坂をくだった
灯りの半分が点される夜には無傷の雨を待った
光が汚す道のりを闇が清める十三月
「十三月」という、ここにはありえないもの、非在を噴出させるために「音楽」はある。