詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(120 )

2010-03-23 12:14:05 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「茶色の旅行」は百人一首のパロディのようにして始まる。

地平線に旅人の坊主が
ふんどしをほすしろたえの
のどかな日にも
無限な女を追うさびしさに
宿をたち出てみれば
いずこも秋の日の
夕暮は茶色だつた。

 「しろたえのふんどしをほす」だと悪趣味だが、「ふんどしをほすしろたえの」には笑いがある。前者は「しろたえの……」というリズムが解体されていないから悪趣味なのだ。リズムそのものを解体して、そこに「しろたえの」というオリジナルを追加するとき、音楽がいきいきと動く。記憶が動く。音の不思議さは、いまがすべて「過去」になっていくことだが、西脇は、その「音楽」の法則を逆手にとっている。逆流する「音楽」がある。それが楽しい。
 その楽しさに飲み込まれて忘れてしまいそうになるが、「無限な女を追うさびしさ」というのは、西脇特有の言い回しだと思う。この表現のなかにも「ふんどしをほすしろたえの」と同じリズム構造がある、と私は思う。
 無限の女を追うことが、「私(にしわき)」の「さびしさな」のではなく、元の形にもどせば、女そのものが「さびしさ」であり、それを追う旅は「無限」なのだ。--とはいうものの、そのふたつは、切り離せないのだけれど。
 この詩のなかで、西脇は、陶器に絵つけをしたり、粘土をこねまわしたりしている。いろんな絵を描き、いろんな形のものをつくった。

そんなことをトツトリの宿で
イナバの女と酒をのみながら
心配をしたのだ。
この女にも平行線のように
永遠に於いて会うのだ。
女の心には紫のすみれを灰色に変化させる
染物やの術がある

 西脇にとって、女は「永遠」である。つまり、普遍である。男が常に動くのに対して、女は「永遠」にいて、男の運動を照らしだす。導く。西脇の願望は、「永遠」に、つまり女にたどりつくことである。女に「なる」ことである。男で「ある」、女で「ある」という状態ではなく、「なる」という運動--それが西脇の願望だ。
 そして、そういう運動のために、リズムの乱調が必要なのだ。「いま」を支配しているリズムを壊すことが。

 女とは何か。自然の無常である。それは男(ある)にとっては、永遠にたどりつけない。「なる」をめざしてみても、最後は「平行線」に出会うだけである。それは「さびしさ」に出会うことである。それは出会ってみなければ生じない「さびしさ」である。
 無限な女を追うことがさびしいのではない。追わなければさびしさは生まれない。運動としてのさびしさ。それは、いつでも西脇を待っている女なのである。




ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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志賀直哉(3)

2010-03-23 12:09:43 | 志賀直哉

 「萬暦赤絵」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)
 「萬暦赤絵」を買いにいって、犬を買ってきてしまう小説だが、その本筋からすこし離れた部分でも、志賀直哉のことばはいきいきと動いている。
 「萬暦赤絵」といっしょに展示されている銅器の描写が、とてもいい。

私の眼はそれよりも先づ銅器に惹かれ、いささか圧倒された。その紋様(もんよう)の野蛮なこと、そしてその如何にも奇怪(きっくわい)なこと、まさに驚くばかりであつた。総てが実に強く、そして寧ろ無遠慮過ぎた。私はかういふ器物を日常に使用してゐた人間の生活を想像し、不思議な力を感じ、同時に恐しく感じた。

 「無遠慮」ということばの強さ。それは、「遠慮がない」というよりも、「飾らない」、いや、「実」を優先するということだろう。遠い先、いま、ここにないものを「何かをおもんぱかる」ということをしないということだろう。なるほど、その時代の人は、遠いもの、自分のいまとは無関係なものなどを考えている余裕などなかったかもしれない。
 そういう余裕のなさは、一種の「弱さ」であるけれど、「強さ」でもある。いまは、「自分」のことより、「他人」の視線(自分から、遠い先にあるもの)を気にして、何かしら遠慮する。それは、「弱い」暮らしであるのだ。
 うーん。
 これは、なんだか私には、志賀の文体を語っているようなものにも思えるのだ。
 志賀の文体は、刈り込まれ、簡潔である。流麗というよりは、実質的な、不思議な強さがある。その文体は「不思議な力」を持っていて、私には少し「恐ろしい」。少なくとも、私は、志賀直哉の文体は苦手な文体のひとつだった。そして、それは私自身は気がつかなかったが、苦手というより「恐ろしかった」のだと思う。
 そういう文体をつくりだしている、志賀直哉の「暮らし」のあり方が、ひととのつきあい方などが、「恐ろしかった」のだと、いまなら、思える。

 志賀直哉は、ここに書かれている「無遠慮」「野蛮」「奇怪」--それは、それに先立つもうひとつの文章をも思い出させる。展覧会にしている客の身なりの描写である。(をどり文字は、表記できないので、引用にあたって書き換えた。)

これぞと思ふ詩なの前でいちいち老眼鏡をかけ、覗込んで見てゐた半白の背の高い男などは普段着に羽織だけ更へてきたといふ風情だつた。足袋までは見なかつたが、これで足袋さへ綺麗なら風俗として却つていいものだ。

 この展覧会は、いわば「晴れ」の場である。綺麗な身なり形でやってくる。一般の客も、骨董屋の番頭たちも。そこへ、ひとり、羽織だけは綺麗だか、その下は普段着という男が混じり込んでいる。その「野蛮」。その「無遠慮」。ただし、志賀は、それに急いで、もし足袋が綺麗だったら、それは「野蛮」「無遠慮」ではなく、風俗として「いい」ものになる、とつけくわえている。
 普段着という「野蛮」も、それを挟み込むように羽織と足袋がおしゃれなら、「野蛮」がアクセントにした新しい風俗になる、ということだろう。そういう新しいものを「いい」と志賀はいっている。そこには「生活」の「実」をふまえた「粋」がある。それが「いい」。
 ただの「綺麗」よりも、内に(あいだに)、「野蛮」を隠しているもの、「内部」が強いもの--それを肯定していることになる。
 志賀は、そういう文体を追求していたのだと思う。
 だからこそ、次のようにつけくわえている。

尤も讃めてからは云ひにくいが、これは私自身であつたかも知れない。

 普段着の上に、きれいな羽織、足元の足袋もきれい。そういう普段着の「実」と、よそいきの「きれい」の結合が志賀自身であるから、「実」だけの銅器に驚いたということなのだが、驚きながらも、志賀は銅器の「実」の「無遠慮」の強さに共感している。



暗夜行路 (新潮文庫)
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藤維夫「どこでもいい場所」、井上瑞貴「十二月の坂をくだった」

2010-03-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「どこでもいい場所」、井上瑞貴「十二月の坂をくだった」(「SEED」21、2010年02月15日発行)

 藤維夫「どこでもいい場所」には静かな倦怠と虚無がある。

そこがどこでもいい場所だから
おそい落日の丘にきて
木々に向かいあう
川の対岸と向き会う
たぶん閉ざされたまま静止している

 この5行目の「主語」は何だろうか。「木々」か「川の対岸」か。あるいは「わたし」か。不明の主語。不在の主語。不在がつくりだす「音」のなさ、無音の虚無がある。
 私の勘違いかもしれないが(正確な分析にもとづくものではないが)、藤の描くものは「音」を欠いている。ことばに「音」があるから、対象は「音」がなくてもいい、「視覚的」であればいいということかもしれない。
 ここでも「川の対岸」は登場するが、「川」そのものは登場しない。水音がない。その「音」のなさと、主語の不在が、沈黙のなかで響きあう。それが「静けさ」である。
 「静止」ということばが出てくるが、そのなかにも「静」ということばがある。このとき「止まっている」のは「音」である。
 「視覚」は動いている。その動いている「視覚」--その「主体」が「主語」ということになる。

渇望のはて
長い冬がある
偽りの青ざめた瞳は病み
男はひとり何を思うのだろう

きょうはやさしい雪が舞いこんできた
過去なのか現実なのかわからないが
鳥か蝶かもわからない染みのような雪
そういう今は過去なのかもしれない

 「青ざめた瞳」。視覚に付加された色彩。ここに、この作品の「主語」があるまで「視覚」であることが刻印されている。
 「聴覚」ではなく「視覚」。

 「聴覚」(音)と「視覚」(色・形)は何が違うか。次の2行が明確に語っている。

きょうはやさしい雪が舞いこんできた
過去なのか現実なのかわからないが

 「聴覚」にとっては「過去」と「現実」の違いははっきりしている。「過去」は次々に消えていく。それが「音」の世界である。聴覚にとって「過去」と「現実」がわからないということは絶対にありえない。いつでも「現実」(いま)しかない。「過去」は存在しない。
 ところが「視覚」は違うのだ。「視覚」は動かない。静止している。「木々」「対岸」それは動かない。舞い込んで来た雪。それは動いているけれど、動かない。つまり、ずーっと動くことで雪でありつづけている。「視覚」は「いま」と「過去」を区別できないのだ。「いま」見えているものが「過去」とどう違うか、理解できない。把握できない。
 「視覚」にとって「時間」は「不在」なのである。「主語」の不在と、「時間」の「不在」が、「音」(聴覚)の「不在」と重なり、そこに「視覚」の「静止」した存在だけが浮かび上がる。
 それが、いま、藤の向き合っているものである。
 そこまでことばを動かしてきて、4連目で、やっと「主語」である「わたし」がことばとして登場する。

軋む呼吸をじっと耐えながら
わたしの虚無を睨む
空虚な航跡
色彩をつよく敷き懊悩の骨片は散らばり
過去は前方の絶望へと帰っている

 「わたし」を登場させながら、その「主語」である「わたし」を「わたしの虚無をにらむ」と別の「主語」にゆずる形で動くことば。あくまで「不在」を貫こうとすることばとの意思。--ここに「倦怠」がある。「不在」の完遂こそが「倦怠」なのだ。

 最終行の「過去は前方の」というふつうの時間感覚とは矛盾することば。時間は直線的に流れ、あるいは不可逆的に流れるから、過去は常に後方であるという意識と軋轢を起こすことば--そこにも、藤の「主語」が「視覚」を生きていることが明記されている。
 「聴覚」にとって、「過去」が「前方」ということはありえない。
 「視覚」にとっても「過去」は「後方」でありえるかもしれないが、「視覚」とは動いているものでも、それを「過去」とは理解しない、次々に過去が消えていくとは理解しない。簡単な例でいえば、たとえば 100メートル競走。スタートからゴールまで走り抜ける人間の動き。それは、ランナーが走り抜けたあとも、10秒前はあのスタート地点、10秒後はゴールのテープを切った、ここ、という具合に「視覚」の上で(架空の空間で)再現し、それを「同時」に眺めることができる。
 そういうふうにして、藤は「過去」を「前方」に見ている。

 藤は「視覚」的人間である。その子とが、非常にくっきりと浮かび上がる詩である。



 井上瑞貴「十二月の坂をくだった」には、奇妙な「音楽」がある。

どこかで降り始めた雨のしたで見失ったひとを
ただ思い出したいと思って雨を待った
変わりやすい月が変わる
言葉で感じる女を無言で抱くように月は再会の月になる

 「雨」「月」。繰り返されることばは、繰り返されることで別個の存在になる。「降り始めた雨のしたで」「雨を待った」わけではない。いま、雨は降っていない(存在していな)。そういう状況のなかで「降り始めた雨」とともにある「思い出」を「思い出す」ために「雨を待った」。
 この繰り返しは、いま、私が井上のことばを書き直した、思い出を思い出すという繰り返しのなかにこそ、その「いのち」のようなものがある。(井上は、正確には「思い出したいと思って」と書いている。)
 この感覚--思い出を思い出すという繰り返しの感覚。思い出したいと思うというときの、「思う」の念押しというか、重複させることで何かを明確にするという手法。そこに「聴覚」の一つの形があると私は考えている。過ぎ去っていく。だから何度でも何度でも思い出を思い出す。そこに「音楽」というものがある。

 あ、抽象的で、よくないなあ。

 いま私はモーツァルトを思い出している。(土曜日に「アマデウス」を見たせいかもしれない。)モーツァルトの音楽は、繰り返し、繰り返し、繰り返しである。そこに濃密な感覚があふれてくる。時間が「過去」になることを拒絶して噴出してくるときの、あざやかな輝きがある。
 井上がこの詩でめざしているものは、そういうものかもしれない。

ぼくたちに似た河を探しながら十一月の橋を渡り
十二月の坂をくだった
灯りの半分が点される夜には無傷の雨を待った
光が汚す道のりを闇が清める十三月

 「十三月」という、ここにはありえないもの、非在を噴出させるために「音楽」はある。
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