蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」(読売新聞2010年03月13日夕刊)
蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」は、志賀直哉の小説を紹介している。志賀直哉が飼っていたクマという犬が失踪した時のことを書いた作品の一部が要約され、引用されている。
最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。ほんとうに志賀直哉は小説の神様? うそでしょ。いやいや、ほんもの。
志賀直哉は、クマをみつけた偶然が信じられない。実感がない。だから、その実感を作りだそうとして、必死になってもがいている。どんなふうにすれば、自分が「奇跡」と感じたことが、読者に「奇跡」と実感してもらえるか、それを探して書いた文章なのだ。
自分の実感だけなら、「奇跡」という実感なら、そんな計算をしなくたって分かる。
私は志賀直哉をほとんど知らないが、あ、志賀直哉は読者のことを考えながらことばを動かしていたんだ、と、この文章で直感した。そして、急に、この小説が読みたくなった。家に全集があるはずだ。「選集」だったかもしれない。「選集」なら、小説が含まれていないかもしれない。ないと、残念だな・・・。
(あ、私は、出先で書いているんです。)
ひとつだけ文句(?)をいうと。
「三秒」。うーん、いまのバスと志賀直哉の時代のバスはスピードが違うから何とも言えないけれど、犬がクマだと気付くまでに三秒、というのが私にはよく分からない。私なら、0・3秒くらいかな。三秒は長すぎるよ。犬を飼っているものの実感としては。自分で飼っていなくても、知っている犬なら1秒はかからない。識別するのに。
昔はきっと秒の感覚というものを志賀直哉をはじめ、読者も持っていなかっただろうな。ほんとうに短い時間、あっ、という間もない、が三秒なんだろうな、当時は。そういう感じ、自分の実感を分かりやすくするための数字――と思って読むと、ちょっとおもしろいね。
*
(ここから先は、14日0時すぎに書き加えたものです。)
蜂飼の引いている「盲亀浮木」を読んでみて、ちょっと驚いた。(家に帰って、本を探して読んでみた。岩波の『小説選 三』に収録されていた。)
最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。--と、私は書いたのだが、その文章はそこでは終わっていなかった。志賀直哉はデジタルな計算だけで、文章を終えていなかった。「つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」につづけて、次のように書いている。
あ、この例はいいなあ。私は何度か1万角形と9999角形はことばでは識別できるけれど、目ではできないという例を出してきたけれど、志賀直哉の出している例は、それに似ている。
こんなふうに「肉体」が絡んでくる例だと、そこには「頭」のうさんくささがない。それがいい。「偶然」「軌跡」が「頭」で把握されたものではなく、「肉体」で把握されたものであることがわかる。
数学の計算をやりながら、志賀直哉自身、その計算だけでは、うさんくささが残ると思ったのかもしれない。
でも、蜂飼は、なぜ、一円玉の例の部分を省略してしまったのだろう。なくてもいいと思ったのかな? なくても、たしかに志賀直哉の書いていることは、その「意味」というか「論理」はわかるのだけれど、何か、ちょっと違うね。
私の、それこそ直感なのだけれど、志賀直哉は「偶然」というものを文章化するにあたって、秒の「計算」よりも一円玉の例の方を書きたかったのだ思う。計算だけでは満足できなくて、一円玉の例を持ち出すことで、やっと安心したのだと思う。
書きたいことが書けた--と思ったと思う。
こういう部分って、好きだなあ。
志賀直哉を読み直している時間はないのだけれど(もっと読みたいものがあるので……)、あ、でも志賀直哉を読み直そうかなあ、などとも思い、こころが揺れ動いてしまう。
蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」は、志賀直哉の小説を紹介している。志賀直哉が飼っていたクマという犬が失踪した時のことを書いた作品の一部が要約され、引用されている。
直角に交わる十字路を、バスは西から東へ。クマは南から北へ。その瞬間、クマに気づいたのは奇跡的なことだった。気づいて、娘が「クマだ」と叫ぶまでは、わずか三秒ほど。「十字路での三秒のチャンスは偶然というにしてはあまりに偶然すぎる。私は次のような計算をしてみた。一日が八万六千四百秒、一週間は六十万四千八百秒。それを私達がクマの発見に費やした三秒で割ってみると二十万千六百。つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」
最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。ほんとうに志賀直哉は小説の神様? うそでしょ。いやいや、ほんもの。
志賀直哉は、クマをみつけた偶然が信じられない。実感がない。だから、その実感を作りだそうとして、必死になってもがいている。どんなふうにすれば、自分が「奇跡」と感じたことが、読者に「奇跡」と実感してもらえるか、それを探して書いた文章なのだ。
自分の実感だけなら、「奇跡」という実感なら、そんな計算をしなくたって分かる。
私は志賀直哉をほとんど知らないが、あ、志賀直哉は読者のことを考えながらことばを動かしていたんだ、と、この文章で直感した。そして、急に、この小説が読みたくなった。家に全集があるはずだ。「選集」だったかもしれない。「選集」なら、小説が含まれていないかもしれない。ないと、残念だな・・・。
(あ、私は、出先で書いているんです。)
ひとつだけ文句(?)をいうと。
「三秒」。うーん、いまのバスと志賀直哉の時代のバスはスピードが違うから何とも言えないけれど、犬がクマだと気付くまでに三秒、というのが私にはよく分からない。私なら、0・3秒くらいかな。三秒は長すぎるよ。犬を飼っているものの実感としては。自分で飼っていなくても、知っている犬なら1秒はかからない。識別するのに。
昔はきっと秒の感覚というものを志賀直哉をはじめ、読者も持っていなかっただろうな。ほんとうに短い時間、あっ、という間もない、が三秒なんだろうな、当時は。そういう感じ、自分の実感を分かりやすくするための数字――と思って読むと、ちょっとおもしろいね。
*
(ここから先は、14日0時すぎに書き加えたものです。)
蜂飼の引いている「盲亀浮木」を読んでみて、ちょっと驚いた。(家に帰って、本を探して読んでみた。岩波の『小説選 三』に収録されていた。)
最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。--と、私は書いたのだが、その文章はそこでは終わっていなかった。志賀直哉はデジタルな計算だけで、文章を終えていなかった。「つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」につづけて、次のように書いている。
妙な例かもしれないが、一円玉を二十万六千八百個置いて、それから、その一つを選び出せといはれても、それは全く不可能だらう。ところがさういふことが実際に起こつたのだ。
あ、この例はいいなあ。私は何度か1万角形と9999角形はことばでは識別できるけれど、目ではできないという例を出してきたけれど、志賀直哉の出している例は、それに似ている。
こんなふうに「肉体」が絡んでくる例だと、そこには「頭」のうさんくささがない。それがいい。「偶然」「軌跡」が「頭」で把握されたものではなく、「肉体」で把握されたものであることがわかる。
数学の計算をやりながら、志賀直哉自身、その計算だけでは、うさんくささが残ると思ったのかもしれない。
でも、蜂飼は、なぜ、一円玉の例の部分を省略してしまったのだろう。なくてもいいと思ったのかな? なくても、たしかに志賀直哉の書いていることは、その「意味」というか「論理」はわかるのだけれど、何か、ちょっと違うね。
私の、それこそ直感なのだけれど、志賀直哉は「偶然」というものを文章化するにあたって、秒の「計算」よりも一円玉の例の方を書きたかったのだ思う。計算だけでは満足できなくて、一円玉の例を持ち出すことで、やっと安心したのだと思う。
書きたいことが書けた--と思ったと思う。
こういう部分って、好きだなあ。
志賀直哉を読み直している時間はないのだけれど(もっと読みたいものがあるので……)、あ、でも志賀直哉を読み直そうかなあ、などとも思い、こころが揺れ動いてしまう。
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