詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」

2010-03-13 19:31:41 | その他(音楽、小説etc)
蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」(読売新聞2010年03月13日夕刊)

 蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」は、志賀直哉の小説を紹介している。志賀直哉が飼っていたクマという犬が失踪した時のことを書いた作品の一部が要約され、引用されている。

 直角に交わる十字路を、バスは西から東へ。クマは南から北へ。その瞬間、クマに気づいたのは奇跡的なことだった。気づいて、娘が「クマだ」と叫ぶまでは、わずか三秒ほど。「十字路での三秒のチャンスは偶然というにしてはあまりに偶然すぎる。私は次のような計算をしてみた。一日が八万六千四百秒、一週間は六十万四千八百秒。それを私達がクマの発見に費やした三秒で割ってみると二十万千六百。つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」

 最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。ほんとうに志賀直哉は小説の神様? うそでしょ。いやいや、ほんもの。
 志賀直哉は、クマをみつけた偶然が信じられない。実感がない。だから、その実感を作りだそうとして、必死になってもがいている。どんなふうにすれば、自分が「奇跡」と感じたことが、読者に「奇跡」と実感してもらえるか、それを探して書いた文章なのだ。
 自分の実感だけなら、「奇跡」という実感なら、そんな計算をしなくたって分かる。
 私は志賀直哉をほとんど知らないが、あ、志賀直哉は読者のことを考えながらことばを動かしていたんだ、と、この文章で直感した。そして、急に、この小説が読みたくなった。家に全集があるはずだ。「選集」だったかもしれない。「選集」なら、小説が含まれていないかもしれない。ないと、残念だな・・・。
 (あ、私は、出先で書いているんです。)
 
 ひとつだけ文句(?)をいうと。
 「三秒」。うーん、いまのバスと志賀直哉の時代のバスはスピードが違うから何とも言えないけれど、犬がクマだと気付くまでに三秒、というのが私にはよく分からない。私なら、0・3秒くらいかな。三秒は長すぎるよ。犬を飼っているものの実感としては。自分で飼っていなくても、知っている犬なら1秒はかからない。識別するのに。
 昔はきっと秒の感覚というものを志賀直哉をはじめ、読者も持っていなかっただろうな。ほんとうに短い時間、あっ、という間もない、が三秒なんだろうな、当時は。そういう感じ、自分の実感を分かりやすくするための数字――と思って読むと、ちょっとおもしろいね。

*

             (ここから先は、14日0時すぎに書き加えたものです。)

 蜂飼の引いている「盲亀浮木」を読んでみて、ちょっと驚いた。(家に帰って、本を探して読んでみた。岩波の『小説選 三』に収録されていた。)
 最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。--と、私は書いたのだが、その文章はそこでは終わっていなかった。志賀直哉はデジタルな計算だけで、文章を終えていなかった。「つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」につづけて、次のように書いている。

妙な例かもしれないが、一円玉を二十万六千八百個置いて、それから、その一つを選び出せといはれても、それは全く不可能だらう。ところがさういふことが実際に起こつたのだ。

 あ、この例はいいなあ。私は何度か1万角形と9999角形はことばでは識別できるけれど、目ではできないという例を出してきたけれど、志賀直哉の出している例は、それに似ている。
 こんなふうに「肉体」が絡んでくる例だと、そこには「頭」のうさんくささがない。それがいい。「偶然」「軌跡」が「頭」で把握されたものではなく、「肉体」で把握されたものであることがわかる。
 数学の計算をやりながら、志賀直哉自身、その計算だけでは、うさんくささが残ると思ったのかもしれない。

 でも、蜂飼は、なぜ、一円玉の例の部分を省略してしまったのだろう。なくてもいいと思ったのかな? なくても、たしかに志賀直哉の書いていることは、その「意味」というか「論理」はわかるのだけれど、何か、ちょっと違うね。
 私の、それこそ直感なのだけれど、志賀直哉は「偶然」というものを文章化するにあたって、秒の「計算」よりも一円玉の例の方を書きたかったのだ思う。計算だけでは満足できなくて、一円玉の例を持ち出すことで、やっと安心したのだと思う。
 書きたいことが書けた--と思ったと思う。

 こういう部分って、好きだなあ。
 志賀直哉を読み直している時間はないのだけれど(もっと読みたいものがあるので……)、あ、でも志賀直哉を読み直そうかなあ、などとも思い、こころが揺れ動いてしまう。




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イ・チュンニョル監督「牛の鈴音」(★★★★)

2010-03-13 10:36:11 | 映画


監督・脚本・編集:イ・チュンニョル 出演 牛(40歳)、チェ・ウォンギュン、イ・サムスン

 おじいさんと牛の表情に引きつけられる。動きに引きつけられる。おじいさんは79歳。牛は40歳。ともに、ゆっくりゆっくり動く。ぎごちないが、ともかく自力で動く。いや、働く。義務として。働かないと、生きていけないから……というのは、ちょっと違うなあ。つらいけれど、働くことが好きなのだ。働いていると、いっしょにいることができる。それが好きなのだ。たとえば、畑を耕す。田んぼを耕す。牛に鋤をひかせる。そのとき、ふたり(ひとりと一頭だけれど、ふたりといってしまおう)を邪魔するものはだれもいない。雨が降ったって同じだ。ふたりで雨合羽を着て、ただ黙々と前へ進む。その一歩一歩は、なにより、いま、ここに、いっしょにいる喜びなのだ。
 それは「生きている」よろこびと言い換えてもいいかもしれないけれど、私は、言い換えたくない。「生きているよろこび」いってしまうと、それはうさんくさい「哲学」になってしまう。「哲学」なんて、いらない。ただいっしょにいる。そのことがうれしい。
 それも、「他人」といっしょにいる、ということが。
 「他人」というものは、絶対的にちがった存在のことである。人間と牛だから、ことばは通じない。まったくちがった生き物である。そのまったくちがったものが、ちがったままいっしょにいる。そのとき、そこには「特別」な何かが生まれている。その「何か」をことばなんかにはしない。ことばは、つうじないからね。それが、うれしい。いっしょにいると、ことばをつかわないのに、何かが通じる。それがうれしい。その瞬間が大好きである。
 これは、ふたりとともにいるおばあさんを組み合わせるととてもはっきりする。おばあさんとおじいさんは、ことばをしゃべる。ことばは通じている。けれど、それはいつもおどはあさんから、おじいさんへの苦情ばっかり。文句ばっかり。このおばあさんの苦情、文句、怒りが、なんといえばいいのだろう、一種の「嫉妬」のように、スクリーンをいきいきさせる。おばあさんが、怒りをぶつければぶつけるほど、牛とおじいさんの親密な関係が深まっていく。だれにも邪魔されない、大切なものになっていく。
 牛にも、おじいさんにも、言いたいことがあるかもしれない。文句もあるかもしれない。でも、それは、いわなくてもわかるね。畑を耕す、田んぼを耕す。思い荷物を運ぶ。あ、ここが越えられない。この石一個が邪魔している。それを感じながら、体をゆっくり動かす。邪魔しているものを、そっと抱き込むようにして、乗り越える。そのとき、「肉体」が一致する。ひとつになる。そのとき、いっしょにいるよろこびが高まる。
 もちろん、「ことば」が通じるときもある。「ことば」をかわすときもある。牛が、顔がかゆくてこまっている。棒に顔をこすりつけながら、小さな声を漏らす。おじいさんはそれを聞き取ると、さっと身を起こし、牛に近づき、ブラシで顔の毛をすいてやる。汚れをとってやる。牛が、うれしそうな顔をする。いいねえ。
 ほかにも美しいシーンがいろいろあるが、私が息をのんだのは、おじいさんと牛の足をローアングル。牛と並んでおじいさんが歩いている。それを牛の手前から撮っている。ふたりの顔は見えない。ただ足だけが動いている。それが二人三脚のようにシンクロする。声をかけるのでもなく、ただ歩いているだけなのだが、動きが一致する。
 同じ時間を生きてきて、ほんとうに肉体がひとつになっているのだ。何もいわなくても同じ歩幅で歩いてしまうのだ。これは、いっしょにいるから生まれる美しさなのだ。無意識の美しさだ。
 この無意識の美しさ(牛の声を聴いて、顔をすいてやるのも、おじいさんにとっては無意識である。だからこそ、おばあさんは「嫉妬」する)が、自然の美しさと重なるとき、とてもいい気持ちになる。
 おじいさんと牛のいる村(?)の木々の緑や草の緑がとても美しい。その緑は、毎年毎年繰り返される緑である。毎年毎年生まれる緑である。その、毎年毎年の繰り返し、毎年毎年の生まれ変わり--それが、ふたりにもあるのだ。ふたりはともに「年寄り」である。年を重ねてきている。けれど、ふたりとも年をとってはいない。毎年毎年生まれ変わっている。毎日毎日生まれ変わっている。毎日生まれ変わって、その日にできることをするだけだ。その仕事は他人から見ると繰り返しだけれど、ふたりには繰り返しではない。「よろこび」には繰り返しというものはないのだ。
 ふたりの体は外見は、骨と皮だけの、いわば醜いものだけれど、そういう「老いて」いくものの一方、けっして「老いて」はゆかないものがある。毎日のよろこびがある。それが、ふたりの「老い」を突き破って、瞬間瞬間に輝く。だから、美しい。

 そんな美しい世界にも死はやってくる。別れはやってくる。それが悲しく、切ないね。
 途中、牛を大事にするおじいさんが、村人にからかわれる。「そんなに牛を大事にして、牛が死んでしまったら、どうやって生きていく?」「牛が死んだら、喪主は私だ」おじいさんが笑いながら答えている。それは冗談ではなくて、ほんとうの気持ちなのだ。
 実際に、牛の最期を見取って、牛を山の畑(空き地)に埋めるまで、この映画はきちんと取りきっている。
 それまでの過程にも、感情移入してしまうシーンがいくつもある。一度は、もう育てられないから牛を売ってしまおうとする。それを察知してか、いつもはゆっくりゆっくりとではあるけれど歩く牛が、牛舎からでることさえ嫌がる。市場へ歩いていく途中で止まってしまう。市場では牛が買いたたかれようとする。おじいさんはそれが嫌で高値をつける。牛は売れ残る。そのとき、牛が涙を流す。安心の涙だ。
 いよいよ最期。その前に、おじいさんは手製の鼻輪を外してやる。首につけいてた鈴を外してやる。そのときの寂しさを、無念さを確認するようにして牛が眼を閉じる。ああ、そのとき、牛が見たものは何だったのだろう。おじいさんの顔だろうか。おじいさんがこらえている涙だったろうか。ありがとう、と動いた唇だったろうか。
 スクリーンに映し出されなかったシーンが、くっきりと眼にみえる。それから、涙で見えなくなる。
 (見るときは、ハンカチを余分にもっていってくださいね。)
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谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(3)

2010-03-13 00:00:00 | 詩集
谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(3)

 「父の死」の最終連。風呂場で、谷川は父を思い出す。生きていたときの父を思い出し、生きていたことを思い出すことで、父が死んだということを思い出す。そこでは死と生はかたく結びついている。色即是空。空即是色。生即是死。死即是生。その結びつきが「正直」である。ことばのなかで、谷川は「正直」になってしまう。そこではすべては区別がない。風呂場で、あの手ぬぐいかけは遠くて不便だと思ったのは、谷川であり、同時に父でもある。谷川がそれを近くに移さなければ、と思ったということは、父もまたそう思ったに違いない。「いのち」の現場では、だれかが思うことはだれでもが思うことなのだ。死んでしまった父は、谷川に向かって、やっとそのこと、手ぬぐいかけを近くに移さなければ……ということに気がついたか、と笑っているのかもしれない。そういう視線を感じて、谷川は泣いたのだ。
 「もの」は外部からやってこない。「世界」からやってこない。「もの」は「ことば」のなかにすでに「いる」。「ある」ではなく「いる」。そして、それは「ことば」となって「世界」と交渉し、「世界」のなかへ「生まれ出る」。
 「ことば」のなかに「いる」ものは、実は「死んでいる」。つまり、いま「世界」から見捨てられ、「ことば」にならずに、「ことば」以前として「いる」にすぎない。それが動いて、死を突き破って、生まれ、「世界」になる。

いろいろ訊きたいことがあるのだが
相手が五歳の子どものままだから困る
この船はどこへ向かっているのと訊いても
毎日何をしているのと訊いても
夜になると星は見えるのと訊いても
「わかんない」の気持ちがか細く伝わってくるだけ

 この部分は不思議だ。大好きだ。こころが震えてしまう。
 「私」は「子ども」に何か聞こうとしている。表面上は、そう読むことができる。けれど、私には、「私」が「私」の外にいる「子ども」に対して質問しているようにはみえない。感じられない。「子ども」は「わかんない」と答えない。「わかんない」と答えているのは「私」のなかに「いる」、「私という子ども」なのだ。
 そして、その「私のなかにいる子ども」とは「気持ち」である。
 「子ども」は何も答えない。けれど「気持ち」がつたわってくる、というのは、そういうことだと思う。「気持ち」がよみがえり、「気持ち」が生まれてくる。

 いま、私は、偶然のようにして「よみがえり」と書いてしまったのだけれど、それは「黄泉帰り」ということかもしれない。
 大人になった「私」にとって、「子ども」の「気持ち」は死んでしまっている。死んだ形で「私」のなかに「いる」。それが「黄泉帰る」。「黄泉」(死の世界)から帰ってくる。
 「よみがえり」(黄泉帰り)のなかには、生と死が、一つになっている。
 ここにも生即是死、死即是生、という運動がある。
 そういう運動のなかでは、「か細く」は「太い」よりもはるかに強い。なぜか。「細い」の「小ささ」こそが「一」だからである。「か細く」は「細く」よりもっと「細い」。それは無限に「一」、小さい「一」に近い。その無限に近い「一」からすべてが始まる。それが無限に小さい「一」であればあるほど、それは「多」になる。

 「わかんない」は何も持っていない。だからこそ、すべてを持っている。そこから、すべてが誕生する。そこから、すべてがよみがえる。「わかんない」は、一瞬、すべての関係を切り離す。「無」になる。「空」になる。だからこそ、そこにすべての「色」がある。すべての「色」がよみがえり、具体的になるための、何かがある。

 どこを切り取っても同じことが起きる。同じことを私は書いてしまうだろう。たとえば、

むかしバイオリニストの恋人がいた
あのあと目の前で弾いてくれた 素裸で
細くくねるバイオリンの音と彼女の匂いが
いっしょくたになって皮膚に沁みこんだ

 「バイオリンの音」と「彼女の匂い」が「いっしょくたにな(る)」。聴覚と嗅覚が「いっしょくたにな(る)」。「いっしょくたになって」区別が「わかんない」。はっきり区別されるべきものが「一」になる。「一」になって、そこから「多」にかわっていく。そういうことが、あらゆる瞬間に起きる。いや、「よみがえる」。
 それは、すべて谷川のことばのなかで起きる。谷川のことばのなかに「いる」もの、「いたもの(死んだもの)」がよみがえるのだ。
 そして、そこに「世界」が誕生する。
 いま引用した「バイオリニスト」の思い出は、思い出であるのに、過去ではなく「いま」そこに、そのままある、生きて「いる」ものとして見えるのは、それが「生まれている」からだ。「よみがえり」、そして「生まれる」。
 谷川が、この詩で書いているのは、そういう不思議な、矛盾した、だからこそ切実な運動である。



 きりがない。きりがないけれど、きりをつけるために、書いておこう。この詩は最後に、不思議で不思議で不思議でしようがない行をもっている。

見えない糸のように旋律が縫い合わせていくのが
この世とあの世というものだろうか
ここがどこなのかもう分からない
いつか痛みが薄れて寂しさだけが残っている
ここからどこへ行けるのか行けないのか
音楽を頼りに歩いて行くしかない

 「音楽」って何? たとえば、モーツァルトの曲? ベートーベンの曲のようなもの? いや、違う。この連に先立って、「音楽」ということばが出てくる部分がある。

遠くからかすかな音が聞こえてきた
音が山脈の稜線に沿ってゆるやかにうねり
誰かからの便りのようにここまで届く
酷い痛みの中に音楽が水のように流れこんでくる
子どものころいつも聞いていたようでもあるし
いま初めて聞いているようでもある

 それは、いわゆる音楽ではない。旋律とリズムをもったものではない。いや、旋律とリズムはあるかもしれないが、楽器で演奏できるものではない。楽譜によって表現できるものではない。
 それは「ことば」なのだ。それも「生まれる以前のことば」。「ことば」になる前のことば。「ことば」になる前だから、それは「ことば」ではない。けれど「ことば」。
 この矛盾。
 それが色即是空。空即是色。
 それは「ことば」のなかに「ある」のではなく、谷川の場合、「ことば」のなかに「いる」。そして、それは「よみがえる」。死にながら、その死をもう一度死んで、よみがえることば。
 「父の死」の最後の連、風呂場での谷川と父との対話に似ている。死んでしまった父が、その死を死んで、手ぬぐいについて思っていたことがよみがえる。谷川のことばとしてよみがえる。そんな感じの「和解」。
 「徹三」即是「俊太郎」、「俊太郎」即是「徹三」--こういう表現は、谷川にとって気持ちがいいものではないかもしれない。そうわかっているが、私は書いてしまう。「徹三」はたまたま「父」だけれど、それは「徹三」だけではないのだ。すべての「いのち」なのだ。

 「臨死」ということばがこの詩のタイトルにあるが、谷川は、ほんとうに「死」というものを知ってしまったのかもしれない。それはもちろん「わかんない」ものなのだが、その「わかんない」ということを、完全に知ってしまったのかもしれない。
 「わかんない」という「場」(時?)において、色即是空、空即是色、一即是多、多即是一、生即是死、死即是生という運動が起きる。そして、それは、ことばとして生まれ、ことばが世界になる。

 どこからか、ことばが聞こえてくる。そして、そのことばに導かれて歩いていくとき、谷川はことばになる。
 こんな定義にならないような、おなじことばの繰り返し--そういう繰り返しと矛盾でしか語れない何かに谷川は触れている。
 そんなことを感じた。    
                     

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谷川 俊太郎
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