監督 ミロシュ・フォアマン 原作・脚本 ピーター・シェーファー 出演 F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス
「午前十時の映画祭」7本目。
この映画の基本的なおもしろさは、原作と脚本にある。凡人と天才を向き合わせ、凡人の苦悩を浮かび上がらせる。しかもその凡人は並の凡人ではなく、天才が理解できるという凡人なのだ。
サリエリ。
私はこの映画ではじめてサリエリという作曲家を知った。同時に、天才を理解できることの苦悩というものの存在をもはじめて知った。このテーマは、なかなか観客のこころをくすぐる。(私のこころをくすぐるといいかえるべきか。)自分は天才ではない、けれども天才を理解する能力はあるかもしれない。そんなふうに考えると、ちょっと楽しい。そして、その天才を理解する能力というのは、とても苦悩に満ちたものなのだ、となると、ちょっとかっこいいではないか。そんなかっこいい人生(サリエリの人生がほんとうにかっこいいかどうかは別問題)を生きてみたい--そういう気持ちにさせられる。
凡人の苦悩、凡人としてのヒーロー。しかも凡人らしく、敗北するヒーロー。
でもねえ、これは、なんというか、とっても奇妙なセンチメンタリズムでもあるんですね。だって、モーツァルトをほんとうに評価したのはサリエリではなく、もっともっと凡人のふつうの人々。作曲なんかできないし、作曲しようとも考えたことのない人々。ただ音楽が好き。おもしろいものが好き。そういう「庶民」。そういう人たちがいて、なおかつ、モーツァルトに喝采をおくった。その結果、モーツァルトの曲が今日まで残っている。
ほんとうはサリエリなんて、いてもいなくても、どうでもいいのです。その、いてもいなくてもいいひと、天才を理解し苦悩するなんて、どうでもいい才能を、悲劇に仕立てていく脚本、そのストーリーの展開の仕方が、まあ、すばらしいといえばすばらしい。
でも、映画には、ちょっと不向き。
これはやっぱり舞台、芝居小屋の作品だね。役者が目の前で動く。その動きの細部ははっきりとは見えないけれど、ことばと動きがいっしょに動くことで、観客を役者の「肉体」の内部へ引き入れることで成立する舞台、芝居にむいている。「こころ」はことばと肉体の組み合わさった内部にある--ということをリアルに感じられる舞台にむいている作品である。
映画のアクション(肉体の動き)というのは、こころを内部にとどめない。アップによって、こころを肉体の細部にまでひっぱりだし、さらに肉体の外へ(カメラのレンズへ)解放する。カメラのレンズをとおって、拡大する。スクリーンに広がるのは、拡大された肉体であり、拡大されたこころなのだ。
この映画が描いてる天才を理解できる苦悩、嫉妬の苦悩というのは、うーん、拡大されて、肉体の外へひきだされてしまうと、ちょっと寒々しい。やはり、そこにいる役者の肉体の内部にとどまり、肉体まるごとのままがいい。変な言い方になるかもしれないが、あ、サリエリがモーツァルトの才能をただひとり完璧に理解しているように、私(観客)も、ただ私だけがサリエリがモーツァルトの天才を理解し苦悩しているということを理解しているのだ--と思った方が、もっとおもしろくなるのだ。だれもかれもがサリエリの苦悩を理解できるのではなく、ただ私だけが、サリエリの苦悩を知っている--そう感じるとき、興奮はいっそう高まる。
たぶん、その興奮は、原作・脚本のピーター・シェーファーが一番強く感じた興奮だと思う。その興奮は、「文学」の興奮であり、それは映画とはちょっとなじまない。私は、それはやはり舞台・芝居の方がリアルに感じられると思う。密室で、そのときかぎりのもの。コピーして、いつでも、どこでも見ることが可能なものではなく、その日、その時、その場へ観客が足を運び、その日、その時、その場で動く役者を見て、その日、その時、その場にだけとどめておくべきものなのだ。役者の肉体の記憶と観客の肉体の記憶が重なるときにのみ、ふっとあらわれ、ふっと消えていく--そういうものの方が、いいと、私は思う。
★4個の理由は、舞台で、芝居で、この作品を見たい--という私の欲望が強くて働いて、結果的に1個減点という感じになった。公開当初の印象では★5個の傑作だった。スクリーンで見るのが2度目なので、印象が少し違ってしまった、ということ。
「午前十時の映画祭」7本目。
この映画の基本的なおもしろさは、原作と脚本にある。凡人と天才を向き合わせ、凡人の苦悩を浮かび上がらせる。しかもその凡人は並の凡人ではなく、天才が理解できるという凡人なのだ。
サリエリ。
私はこの映画ではじめてサリエリという作曲家を知った。同時に、天才を理解できることの苦悩というものの存在をもはじめて知った。このテーマは、なかなか観客のこころをくすぐる。(私のこころをくすぐるといいかえるべきか。)自分は天才ではない、けれども天才を理解する能力はあるかもしれない。そんなふうに考えると、ちょっと楽しい。そして、その天才を理解する能力というのは、とても苦悩に満ちたものなのだ、となると、ちょっとかっこいいではないか。そんなかっこいい人生(サリエリの人生がほんとうにかっこいいかどうかは別問題)を生きてみたい--そういう気持ちにさせられる。
凡人の苦悩、凡人としてのヒーロー。しかも凡人らしく、敗北するヒーロー。
でもねえ、これは、なんというか、とっても奇妙なセンチメンタリズムでもあるんですね。だって、モーツァルトをほんとうに評価したのはサリエリではなく、もっともっと凡人のふつうの人々。作曲なんかできないし、作曲しようとも考えたことのない人々。ただ音楽が好き。おもしろいものが好き。そういう「庶民」。そういう人たちがいて、なおかつ、モーツァルトに喝采をおくった。その結果、モーツァルトの曲が今日まで残っている。
ほんとうはサリエリなんて、いてもいなくても、どうでもいいのです。その、いてもいなくてもいいひと、天才を理解し苦悩するなんて、どうでもいい才能を、悲劇に仕立てていく脚本、そのストーリーの展開の仕方が、まあ、すばらしいといえばすばらしい。
でも、映画には、ちょっと不向き。
これはやっぱり舞台、芝居小屋の作品だね。役者が目の前で動く。その動きの細部ははっきりとは見えないけれど、ことばと動きがいっしょに動くことで、観客を役者の「肉体」の内部へ引き入れることで成立する舞台、芝居にむいている。「こころ」はことばと肉体の組み合わさった内部にある--ということをリアルに感じられる舞台にむいている作品である。
映画のアクション(肉体の動き)というのは、こころを内部にとどめない。アップによって、こころを肉体の細部にまでひっぱりだし、さらに肉体の外へ(カメラのレンズへ)解放する。カメラのレンズをとおって、拡大する。スクリーンに広がるのは、拡大された肉体であり、拡大されたこころなのだ。
この映画が描いてる天才を理解できる苦悩、嫉妬の苦悩というのは、うーん、拡大されて、肉体の外へひきだされてしまうと、ちょっと寒々しい。やはり、そこにいる役者の肉体の内部にとどまり、肉体まるごとのままがいい。変な言い方になるかもしれないが、あ、サリエリがモーツァルトの才能をただひとり完璧に理解しているように、私(観客)も、ただ私だけがサリエリがモーツァルトの天才を理解し苦悩しているということを理解しているのだ--と思った方が、もっとおもしろくなるのだ。だれもかれもがサリエリの苦悩を理解できるのではなく、ただ私だけが、サリエリの苦悩を知っている--そう感じるとき、興奮はいっそう高まる。
たぶん、その興奮は、原作・脚本のピーター・シェーファーが一番強く感じた興奮だと思う。その興奮は、「文学」の興奮であり、それは映画とはちょっとなじまない。私は、それはやはり舞台・芝居の方がリアルに感じられると思う。密室で、そのときかぎりのもの。コピーして、いつでも、どこでも見ることが可能なものではなく、その日、その時、その場へ観客が足を運び、その日、その時、その場で動く役者を見て、その日、その時、その場にだけとどめておくべきものなのだ。役者の肉体の記憶と観客の肉体の記憶が重なるときにのみ、ふっとあらわれ、ふっと消えていく--そういうものの方が、いいと、私は思う。
★4個の理由は、舞台で、芝居で、この作品を見たい--という私の欲望が強くて働いて、結果的に1個減点という感じになった。公開当初の印象では★5個の傑作だった。スクリーンで見るのが2度目なので、印象が少し違ってしまった、ということ。
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