詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ミロシュ・フォアマン監督「アマデウス」(★★★★)

2010-03-20 17:43:11 | 午前十時の映画祭
監督 ミロシュ・フォアマン 原作・脚本 ピーター・シェーファー 出演 F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス

 「午前十時の映画祭」7本目。
 この映画の基本的なおもしろさは、原作と脚本にある。凡人と天才を向き合わせ、凡人の苦悩を浮かび上がらせる。しかもその凡人は並の凡人ではなく、天才が理解できるという凡人なのだ。
 サリエリ。
 私はこの映画ではじめてサリエリという作曲家を知った。同時に、天才を理解できることの苦悩というものの存在をもはじめて知った。このテーマは、なかなか観客のこころをくすぐる。(私のこころをくすぐるといいかえるべきか。)自分は天才ではない、けれども天才を理解する能力はあるかもしれない。そんなふうに考えると、ちょっと楽しい。そして、その天才を理解する能力というのは、とても苦悩に満ちたものなのだ、となると、ちょっとかっこいいではないか。そんなかっこいい人生(サリエリの人生がほんとうにかっこいいかどうかは別問題)を生きてみたい--そういう気持ちにさせられる。
 凡人の苦悩、凡人としてのヒーロー。しかも凡人らしく、敗北するヒーロー。
 でもねえ、これは、なんというか、とっても奇妙なセンチメンタリズムでもあるんですね。だって、モーツァルトをほんとうに評価したのはサリエリではなく、もっともっと凡人のふつうの人々。作曲なんかできないし、作曲しようとも考えたことのない人々。ただ音楽が好き。おもしろいものが好き。そういう「庶民」。そういう人たちがいて、なおかつ、モーツァルトに喝采をおくった。その結果、モーツァルトの曲が今日まで残っている。
 ほんとうはサリエリなんて、いてもいなくても、どうでもいいのです。その、いてもいなくてもいいひと、天才を理解し苦悩するなんて、どうでもいい才能を、悲劇に仕立てていく脚本、そのストーリーの展開の仕方が、まあ、すばらしいといえばすばらしい。
 でも、映画には、ちょっと不向き。
 これはやっぱり舞台、芝居小屋の作品だね。役者が目の前で動く。その動きの細部ははっきりとは見えないけれど、ことばと動きがいっしょに動くことで、観客を役者の「肉体」の内部へ引き入れることで成立する舞台、芝居にむいている。「こころ」はことばと肉体の組み合わさった内部にある--ということをリアルに感じられる舞台にむいている作品である。
 映画のアクション(肉体の動き)というのは、こころを内部にとどめない。アップによって、こころを肉体の細部にまでひっぱりだし、さらに肉体の外へ(カメラのレンズへ)解放する。カメラのレンズをとおって、拡大する。スクリーンに広がるのは、拡大された肉体であり、拡大されたこころなのだ。
 この映画が描いてる天才を理解できる苦悩、嫉妬の苦悩というのは、うーん、拡大されて、肉体の外へひきだされてしまうと、ちょっと寒々しい。やはり、そこにいる役者の肉体の内部にとどまり、肉体まるごとのままがいい。変な言い方になるかもしれないが、あ、サリエリがモーツァルトの才能をただひとり完璧に理解しているように、私(観客)も、ただ私だけがサリエリがモーツァルトの天才を理解し苦悩しているということを理解しているのだ--と思った方が、もっとおもしろくなるのだ。だれもかれもがサリエリの苦悩を理解できるのではなく、ただ私だけが、サリエリの苦悩を知っている--そう感じるとき、興奮はいっそう高まる。
 たぶん、その興奮は、原作・脚本のピーター・シェーファーが一番強く感じた興奮だと思う。その興奮は、「文学」の興奮であり、それは映画とはちょっとなじまない。私は、それはやはり舞台・芝居の方がリアルに感じられると思う。密室で、そのときかぎりのもの。コピーして、いつでも、どこでも見ることが可能なものではなく、その日、その時、その場へ観客が足を運び、その日、その時、その場で動く役者を見て、その日、その時、その場にだけとどめておくべきものなのだ。役者の肉体の記憶と観客の肉体の記憶が重なるときにのみ、ふっとあらわれ、ふっと消えていく--そういうものの方が、いいと、私は思う。

 ★4個の理由は、舞台で、芝居で、この作品を見たい--という私の欲望が強くて働いて、結果的に1個減点という感じになった。公開当初の印象では★5個の傑作だった。スクリーンで見るのが2度目なので、印象が少し違ってしまった、ということ。



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豊原清明「短編映画『俳句!』」

2010-03-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「短編映画『俳句!』」(「白黒目」22、2010年03月発行)

 豊原清明は不思議である。ことばを書くとき、私はどうしても、ことばの「過去」を気にしてしまう。そのことばがどこからやってきたか、それを明確にしないと、ことばを動かせない。たとえば、いま、こうやって書いている文章。それは豊原清明のシナリオを読んだことによって動きはじめている--ということを、私は最初に書かずにはなにも書けない。
 ところが、豊原はそんなまだるっこしいことをしない。いきなり「現在」から書きはじめる。「現在」からことばを動かしはじめる。しかし、そのことばは「過去」を持っている。ことばに「肉体」がある。

○ タイトル「俳句!」

○ 「脚本・監督 豊原 清明」

○ 僕の左手の平
川柳「六十のさえない奴がなぜ恋に」
僕「僕は、俳句をしたい!」

○ 僕の部屋
僕の声「二十年間、閉じこもっていた。」

○ 父
父の声「吟行にいこう。」

 ○は、映画のそれぞれのシーンである。最初にタイトルや、監督の名前がでる。そのシーンさえもが、何かしら「過去」を持っている。いま、ほとんどの映画は、突然はじまり、そのあとでタイトルや監督の名前が出ることが多いが、豊原は古いオーソドックスな手法でタイトルや監督の名前を出す。その静かなトーン。それ自体が、すでに豊原の記憶を語っているような感じがする。いま、あちこちで上映されている映画とは違う、もっと古くて温かい映画を見てきた記憶--そういうものが、静に反映されている。
 そして、そこへ、唐突に、父が出てくる。出てきたと思ったら、それはなんの脈絡もなく「吟行へ行こう。」というのだが、その「吟行」に「過去」がある。これが「銀行」だったら、きっと「過去」は見えて来ないのだが、「吟行」ゆえに、「僕」の「過去」がみえてくる。あ、俳句の吟行--そうなのか、豊原は、部屋のなかにとじこもってことばをさがしているのではなく、実際に、外に触れながらことばを動かして生きているのだ、そういうふうにことばを動かしているということを、父も知っているのだ、という「過去」が見えてくる。
 この「過去」の見せかたが、なんとも、すごい。自然である。正直である。ぐいと引き込まれてしまう。

○ 明石公園(昼過ぎ)
   植物のきらめき。メガネをかけた、僕の顔。父に撮って貰う。
   僕の呆けた顔。

○ 公園景色
   公園の自然を撮りながら、
僕の声「何とかや…。」
  父に撮って貰う。
  ベンチに座って、句を、ノートに書いている、僕。
  花や草木を見ている、デブの僕。
  公園の、景色を撮る。
  寒い、景色。ジャンパー、コート。

○ 室内
   トチの木の写真。
父「わしも、書いている。」
僕「何時からや。」 

 この変化。飛躍。飛躍のなかにある「過去」。
 ふつう、ことばが飛躍すると、その先に「未来」があらわれる。「未来」という方向性が生まれる。
 けれど、豊原のことばは飛躍すると、突然「過去」が巨大な固まりとなって見えてくる。あ、ことばは、こんな「過去」をもっているのか、とびっくりする。
 僕(豊原)は俳句を書いている。それに対して父が「わしも、書いている。」という。それは「俳句を書いている」という意味である。違うかもしれないが、私は、そう感じてしまう。
 そして、そのときの反応。
 「何時からや。」
 あ、まるで、ある日の一日の一瞬を切り取ってきたことばそのままである。「僕」は、いつから父が俳句を書いているか問うているのではない。そういうときなら、「何時から俳句を書いている?」と成文化されるだろう。そういう成文化をするひまがないくらいのスピードで「何時からや。」ということばが発せられる。それは、そのことばに「怒り」のようなものが、つまり激しい感情があるからだ。
 そして、それは単に、そのことばに激しい感情があるというだけではなく、豊原がそんなふうにして、唐突に激しい感情を父に繰り返しぶつけてきたという「過去」をも浮かびあがらせる。
 繰り返された「日常」--そのなかで組み重なってきた、ことばのスピード。
 そういうものを豊原は瞬時に再現し、定着させる。

 その「怒り」のあとの、悲しみ。こころの寒さ。それは一転して、屋外へほうりだされる。

○ 寒い池
僕の声「寒い! 寒すぎる! たまらん! 家、帰りたい!」

○ 買って貰ったペットボトル
   握りしめる。

○ 自分の手の平
左手「六十のさえない奴がなぜ恋に」
   右手に、今日の句を書く。
   両手を撮る。
-終わり-

 この、リズムの、あまりに直接的な、直接的すぎるリズム。カメラなしで、こんなに映画的な映画を再現するというのは、ほんとうに天才である。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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