谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(2)
谷川俊太郎「臨死船」(『トロムソコラージュ』新潮社、2009年05月30日発行)は不思議な詩である。
きのう私は「父の死」について書いた。最後に、その最終連を引用した。それは生きている谷川が、死んだ父を、つまり生きていたころの父を思い出す詩であった。生きているころの父を思い出し、父が死んだのだと気がつき、泣くのだが、それは夢なので、ほんとうに泣いたのか、夢の中で泣いたのか分からなくなる。--そういう作品であった。
「臨死船」を読んだとき、突然、その最後の連を思い出したのだ。そして、「あ、臨死船、谷川俊太郎が父になって、父から谷川を見ているのだ」と思った。
「臨死船」そのものは、谷川の「臨死体験」(ほんとうにあったのかなあ……)を書いているのだから、谷川徹三が谷川を見ている、というのは変な言い方なのだが、「父の死」の最終連の、風呂場--その風呂場で会った死んだはずの父と谷川のやりとり、やりとりとはいえないほどの短い会話だけれど、それを谷川徹三の方から描きなおせば「臨死船」になる。そう思った。そして、谷川は、この作品では「父」になってしまっている、「父」の視点から、世界を見ていると感じた。(具体的に見ていくと違うのだけれど、読んだときの印象、私のこころの中では、そういう変化が起きている。)
谷川俊太郎と谷川徹三は別人なのだけれど、この詩のなかで、静に、不思議な形で「和解」していると感じた。谷川は父が死んだということを、20年たって、いま(といっても、2009年だけれど)、受け入れ、納得し、そうすることで、「死」と「ひとつ」になっている、そう感じた。
そして。
この「父の死」と「臨死」の間には、とてつもない大きな隔たりがあると感じてもいる。「ひとつ」になっているにもかかわらず、大きな隔たりがある、というのは矛盾だけれど、矛盾したことばでしか語れないことがある。それを感じている。
書かれている内容が逆--ということではなく、そのことばが、なんだか大きく変わっている、隔たっていると感じてしまう。
そして、その隔たりがあるからこそ、谷川と、父の死との「和解」が起きているとも感じるのかもしれない。
それをどう言っていいのか、実は、私はわからない。まあ、いつでも私は何もわからずに、ことばが動いていく方向へただ動いていくだけなのだけれど。
まあ、書いてみよう。どうなるかわからないけれど。
「父の死」について書いたきのう、私は「正直」ということばをつかった。谷川の「正直」をとおって、すべてのものがあらわれる。谷川の「正直」が「父の死」と向き合うとき、「正直」と「父の死」が「ひとつ」になり、そこをとおってくるものはすべて「ひとつ」である。「多」であるけれど、「ひとつ」である。一即是多。多即是一。
このとき、というか、「父の死」を読むとき、私は、多くの「もの」が「父の死」をとおって、「いま」「ここ」にあらわれてくる。そして、そのあらわれてきた多くの「もの」を谷川がことばでつかまえている、というふうに感じていた。世界が、谷川のことばのなかで「ひとつ」になる。
色即是空。空則是色。一即是多。多即是一。
それを、谷川の「正直」なことばが、つかまえている、と感じていた。谷川のことばが「正直」であるがゆえに、「いま」「ここ」にあらわれてくる色即是空。空則是色。一即是多。多即是一。そのすべてをとらえることができる、と感じた。
「臨死船」では、そういう印象ではないのである。
逆なのだ。
逆というのは、きっと正しい言い方ではないのだけれど。
「もの」が「いま」「ここ」にあらわれて、それを谷川のことばがつかまえる、ではなく、「もの」が谷川の「ことば」のなかにあらわれて、それを「いま」「ここ」がつかまえている。谷川の「ことば」を、「いま」「ここ」という「現実」が「現像」し、「定着」させている--という感じ。
谷川の家に、「人」や「弔電」や「花篭」や「別居している妻」や「諏訪の男」や「天皇からのあれこれ」がやって「来た」ように、いま、谷川の「ことば」に、いろんな「もの」がやって「来て」、それが谷川の「ことば」を動かしている。そして、その「もの」がやってくる「出発点」が、「ことば」の外にあるのではなく、「ことば」の内部にあるのだ。「来る(来た)」とは違う何かがあるのだ。「もの」は「ことば」の内部にある。そして、それが谷川の「正直」に作用している。
谷川の「正直」が「ことば」を動かしているのではなく、「もの」の「正直」が谷川の「ことば」を動かしている。
それは、もしかすると、谷川が「もの」の「正直」という次元に到達したということかもしれない--と書いて、あ、これはなんだか想像を絶するすごいことを書いてしまったなあ、とちょっと怖くなった。
谷川のことばは「正直」である、まではいいけれど、谷川は「もの」としての「正直」に到達しているって、まるで「ほとけ様」ではないか。「もの」の「正直」というのは「人間」であることを超越して、「いま」「ここ」に存在するすべてである、ということなのだから。
具体的に、詩のことば、そのものに、触れてみる。そこから、私が感じたことを、もう一度言いなおしてみる。
「父の死」のキーワードは、「来た」にあったかもしれない。すべてが「来た」。それに対して「臨死船」では「来た」ではなく「いる」。
「父の死」では、すべての「もの」は「来た」。そして、それを谷川はことばにした。けれど、「臨死船」では、すべての「もの」はことばのなかに「いる」。そして、それが「いま」「ここ」に「あらわれる」。先に私は、谷川の「ことば」に「もの」があらわれて、それを「いま」「ここ」がつかまえると書いたけれど、正確には、「ことば」の世界にすでに存在して「いる」ものだけが、その奥底からことばの「表面」にあらわれてきて、それが「いま」「ここ」という現実と接触し、「いま」「ここ」という現実のなかに定着していくということなのだ。
谷川の「ことば」のなかに「いる」ものが、「ことば」となることで、この世に生まれ、この世をつくっていく。その、この世には、「死」も含まれる。(あ、だから、この詩を「父の死」そのもの、谷川徹三が谷川俊太郎を見ている、と感じたのかな?)
すべては「いる」。谷川のことばのなかに「いる」。「ある」ではなく、「いる」のである。「いる」というのは、「ある」とは違って、「生きている」ということである。「もの」なのだけれど、命を欠いた「物質」ではなく、「いのち」として生きて「いる」。その「いのち」が「臨死」という危機に出会って、「生きています」と声を上げているのだ。そして、生まれるのだ。「臨死」と谷川は書いているが、これはもしかすると「臨生」かもしれない。
この詩では、あらゆるものが、「私には命がある、生きている」と叫んでいる。谷川の「ことば」のなかから、すべてが「ことば」そのものになろうとして、表へ出てこようとしているのだ。
それは、あるときは「年寄り」、あるときは「若者」、そして「赤ん坊」だったり、男だったり、女だったりする。それは谷川という人間の中の、複数の(多としての)「ひとり」であり、その「ひとり」がさまざまに「いのち」をかえながら、生きている。生きているから、外へ出ていこうとしている。
そして、これは、「外から」(?)の働きかけがあったときも、なぜか、「外」そのものではないのだ。
この声は、「父の死」のときのように、「外」からやって来たものである。「聞こえてきた」の「きた」はそのことをはっきり証明している。
それなのに、一度その声を聞いてしまったら、それからあと、そこに起きることは「外」のことではなく、谷川の「内部」のことになる。谷川の内部にあるものだけが、それにあわせて動く。谷川の「内部」に生きている「女房」の声になって、谷川に呼びかけている。谷川の「内部」にある「色っぽい」記憶、思い出の声になって、呼びかけている。
そして、谷川の「内部」がかわる。「抱きたくなった」という変化が起きる。
「女房」といっしょに、谷川の「欲望」が生まれる。「臨死」なのに、「臨生」となって、死んでいたはずの「抱きたい」というこころが生まれてきてしまう。
「死んでいる」のに「生きている」に「なる」。
それは「区別」がなくなる、ということかもしれない。
「父の死」では、外からやって「来た」いくつもの「もの」の区別がなくなった。やって来たすべての多は一つになった。それは「いま」「ここ」という谷川の「外部」で「一」に「なる」。
けれども、「臨死船」では、その「一」は谷川の「内部」なのである。「臨死」ではなく「臨生」を経て、「一」は「多」になって、「ことば」として生まれてしまう。その「ことば」は、「もの」のような「正直」さを持っている。気持ち、こころのない「正直」を持っている。気持ち、こころがないというのは、もちろん、逆説である。それは、まだ存在しないものだから(ことばとなって定着しない何かなので)、「ない」としか言えないものなのだ。
そういう「正直」がここにある。
(つづく、かもしれない。)
谷川俊太郎「臨死船」(『トロムソコラージュ』新潮社、2009年05月30日発行)は不思議な詩である。
きのう私は「父の死」について書いた。最後に、その最終連を引用した。それは生きている谷川が、死んだ父を、つまり生きていたころの父を思い出す詩であった。生きているころの父を思い出し、父が死んだのだと気がつき、泣くのだが、それは夢なので、ほんとうに泣いたのか、夢の中で泣いたのか分からなくなる。--そういう作品であった。
「臨死船」を読んだとき、突然、その最後の連を思い出したのだ。そして、「あ、臨死船、谷川俊太郎が父になって、父から谷川を見ているのだ」と思った。
「臨死船」そのものは、谷川の「臨死体験」(ほんとうにあったのかなあ……)を書いているのだから、谷川徹三が谷川を見ている、というのは変な言い方なのだが、「父の死」の最終連の、風呂場--その風呂場で会った死んだはずの父と谷川のやりとり、やりとりとはいえないほどの短い会話だけれど、それを谷川徹三の方から描きなおせば「臨死船」になる。そう思った。そして、谷川は、この作品では「父」になってしまっている、「父」の視点から、世界を見ていると感じた。(具体的に見ていくと違うのだけれど、読んだときの印象、私のこころの中では、そういう変化が起きている。)
谷川俊太郎と谷川徹三は別人なのだけれど、この詩のなかで、静に、不思議な形で「和解」していると感じた。谷川は父が死んだということを、20年たって、いま(といっても、2009年だけれど)、受け入れ、納得し、そうすることで、「死」と「ひとつ」になっている、そう感じた。
そして。
この「父の死」と「臨死」の間には、とてつもない大きな隔たりがあると感じてもいる。「ひとつ」になっているにもかかわらず、大きな隔たりがある、というのは矛盾だけれど、矛盾したことばでしか語れないことがある。それを感じている。
書かれている内容が逆--ということではなく、そのことばが、なんだか大きく変わっている、隔たっていると感じてしまう。
そして、その隔たりがあるからこそ、谷川と、父の死との「和解」が起きているとも感じるのかもしれない。
それをどう言っていいのか、実は、私はわからない。まあ、いつでも私は何もわからずに、ことばが動いていく方向へただ動いていくだけなのだけれど。
まあ、書いてみよう。どうなるかわからないけれど。
「父の死」について書いたきのう、私は「正直」ということばをつかった。谷川の「正直」をとおって、すべてのものがあらわれる。谷川の「正直」が「父の死」と向き合うとき、「正直」と「父の死」が「ひとつ」になり、そこをとおってくるものはすべて「ひとつ」である。「多」であるけれど、「ひとつ」である。一即是多。多即是一。
このとき、というか、「父の死」を読むとき、私は、多くの「もの」が「父の死」をとおって、「いま」「ここ」にあらわれてくる。そして、そのあらわれてきた多くの「もの」を谷川がことばでつかまえている、というふうに感じていた。世界が、谷川のことばのなかで「ひとつ」になる。
色即是空。空則是色。一即是多。多即是一。
それを、谷川の「正直」なことばが、つかまえている、と感じていた。谷川のことばが「正直」であるがゆえに、「いま」「ここ」にあらわれてくる色即是空。空則是色。一即是多。多即是一。そのすべてをとらえることができる、と感じた。
「臨死船」では、そういう印象ではないのである。
逆なのだ。
逆というのは、きっと正しい言い方ではないのだけれど。
「もの」が「いま」「ここ」にあらわれて、それを谷川のことばがつかまえる、ではなく、「もの」が谷川の「ことば」のなかにあらわれて、それを「いま」「ここ」がつかまえている。谷川の「ことば」を、「いま」「ここ」という「現実」が「現像」し、「定着」させている--という感じ。
谷川の家に、「人」や「弔電」や「花篭」や「別居している妻」や「諏訪の男」や「天皇からのあれこれ」がやって「来た」ように、いま、谷川の「ことば」に、いろんな「もの」がやって「来て」、それが谷川の「ことば」を動かしている。そして、その「もの」がやってくる「出発点」が、「ことば」の外にあるのではなく、「ことば」の内部にあるのだ。「来る(来た)」とは違う何かがあるのだ。「もの」は「ことば」の内部にある。そして、それが谷川の「正直」に作用している。
谷川の「正直」が「ことば」を動かしているのではなく、「もの」の「正直」が谷川の「ことば」を動かしている。
それは、もしかすると、谷川が「もの」の「正直」という次元に到達したということかもしれない--と書いて、あ、これはなんだか想像を絶するすごいことを書いてしまったなあ、とちょっと怖くなった。
谷川のことばは「正直」である、まではいいけれど、谷川は「もの」としての「正直」に到達しているって、まるで「ほとけ様」ではないか。「もの」の「正直」というのは「人間」であることを超越して、「いま」「ここ」に存在するすべてである、ということなのだから。
具体的に、詩のことば、そのものに、触れてみる。そこから、私が感じたことを、もう一度言いなおしてみる。
知らぬ間にあの世行きの連絡船に乗っていた
けっこう混みあっている
年寄りが多いが若い者もいる
驚いたことにちらほら赤ん坊もいる
連れがいなくてひとり者がほとんどだが
中にはおびえたように身を寄せ合った男女もいる
「父の死」のキーワードは、「来た」にあったかもしれない。すべてが「来た」。それに対して「臨死船」では「来た」ではなく「いる」。
「父の死」では、すべての「もの」は「来た」。そして、それを谷川はことばにした。けれど、「臨死船」では、すべての「もの」はことばのなかに「いる」。そして、それが「いま」「ここ」に「あらわれる」。先に私は、谷川の「ことば」に「もの」があらわれて、それを「いま」「ここ」がつかまえると書いたけれど、正確には、「ことば」の世界にすでに存在して「いる」ものだけが、その奥底からことばの「表面」にあらわれてきて、それが「いま」「ここ」という現実と接触し、「いま」「ここ」という現実のなかに定着していくということなのだ。
谷川の「ことば」のなかに「いる」ものが、「ことば」となることで、この世に生まれ、この世をつくっていく。その、この世には、「死」も含まれる。(あ、だから、この詩を「父の死」そのもの、谷川徹三が谷川俊太郎を見ている、と感じたのかな?)
すべては「いる」。谷川のことばのなかに「いる」。「ある」ではなく、「いる」のである。「いる」というのは、「ある」とは違って、「生きている」ということである。「もの」なのだけれど、命を欠いた「物質」ではなく、「いのち」として生きて「いる」。その「いのち」が「臨死」という危機に出会って、「生きています」と声を上げているのだ。そして、生まれるのだ。「臨死」と谷川は書いているが、これはもしかすると「臨生」かもしれない。
この詩では、あらゆるものが、「私には命がある、生きている」と叫んでいる。谷川の「ことば」のなかから、すべてが「ことば」そのものになろうとして、表へ出てこようとしているのだ。
それは、あるときは「年寄り」、あるときは「若者」、そして「赤ん坊」だったり、男だったり、女だったりする。それは谷川という人間の中の、複数の(多としての)「ひとり」であり、その「ひとり」がさまざまに「いのち」をかえながら、生きている。生きているから、外へ出ていこうとしている。
そして、これは、「外から」(?)の働きかけがあったときも、なぜか、「外」そのものではないのだ。
おや どこからか声が聞こえてきた
「おとうさん おとうさん」と言っている。
どうやら泣いているようだ
聞き覚えのある声だと思ったら女房の声だった
なんだか妙に色っぽい
抱きたくなってきた もうカラダは無いはずなのに
この声は、「父の死」のときのように、「外」からやって来たものである。「聞こえてきた」の「きた」はそのことをはっきり証明している。
それなのに、一度その声を聞いてしまったら、それからあと、そこに起きることは「外」のことではなく、谷川の「内部」のことになる。谷川の内部にあるものだけが、それにあわせて動く。谷川の「内部」に生きている「女房」の声になって、谷川に呼びかけている。谷川の「内部」にある「色っぽい」記憶、思い出の声になって、呼びかけている。
そして、谷川の「内部」がかわる。「抱きたくなった」という変化が起きる。
「女房」といっしょに、谷川の「欲望」が生まれる。「臨死」なのに、「臨生」となって、死んでいたはずの「抱きたい」というこころが生まれてきてしまう。
「死んでいる」のに「生きている」に「なる」。
それは「区別」がなくなる、ということかもしれない。
「父の死」では、外からやって「来た」いくつもの「もの」の区別がなくなった。やって来たすべての多は一つになった。それは「いま」「ここ」という谷川の「外部」で「一」に「なる」。
けれども、「臨死船」では、その「一」は谷川の「内部」なのである。「臨死」ではなく「臨生」を経て、「一」は「多」になって、「ことば」として生まれてしまう。その「ことば」は、「もの」のような「正直」さを持っている。気持ち、こころのない「正直」を持っている。気持ち、こころがないというのは、もちろん、逆説である。それは、まだ存在しないものだから(ことばとなって定着しない何かなので)、「ない」としか言えないものなのだ。
そういう「正直」がここにある。
(つづく、かもしれない。)
トロムソコラージュ谷川 俊太郎新潮社このアイテムの詳細を見る |