金堀則夫「ひめくり」(「石の森」154、2010年03月01日発行)
金堀則夫「ひめくり」は「日めくり暦」によせて書かれた詩である。
ひらがなと漢字が交錯して、私は「誤読」する。「くうばくか/くうはくか/くうきが」めくれない。なにかが「いま」「ここ」にあるものの奥でつながっている。その不思議な印象が、ひらがなだけで書かれた時よりも、強くなる。漢字を「見る」ことが、「音」を覚醒させる。そして、その覚醒が、見えなくてもいいものまで浮かび上がらせる。
「あのひとたちとのひびがつづくなら」は漢字交じりで書けば
となるのだろうけれど、私は、何度も何度も、
と読んでしまうのだ。「空爆」「空白」「空気」は、ひととひとの「ヒビ(亀裂)」である。それは大きい時戦争になり、空爆がある。関係が途絶え、関係の「空白」がある。あるいは、そこまでいかないまでも「空気の読めない」という印象がのこる冷めた感じ・・・。「日々」が「ヒビ」にすりかわって、「日」と「日」の間の、その「ヒビ」から何かが漏れる、こぼれる。
でも、「日めくり」をめくる「手」がどこかにあって、「日」は生まれ変わりながらつづいていく――という事実(?)のなかで、その印象はどんどん強くなる。「日」が増える(?)というか、そういう「日」が積み重なり、「日」が「月」になり、「年」になるとき、「ヒビ」は増幅する。拡大する。
続いていくカレンダーのなかの「日」。すぎていく「日」その「日」と「日」のなかに、日常がある。ひととの付き合い、交流がある。日常には「ひと(人)」が隠れている。「日と日」は「人・日」である。「ひと」がいるから「ヒビ」も生まれる。
さらに。
私は、さらに「誤読」する。
「日とひ」は「日・問ひ(とひ)」でもある。「日々の問い」それが「日常」。常の、つまり、かわることのない「日」。「日」の「問い掛け」。問いとしての、詩――それが、この作品を動かしている。
金堀則夫「ひめくり」は「日めくり暦」によせて書かれた詩である。
きょうのひも
つぎのひも そのつぎのひも
にちじょうがある わたしがある
めくる手は
空爆か
空白か
空気がめくれない
地球をひっくりかえす
手もない
わたしのにちじょう
あのひとたちとのひびがつづくなら
こわかったり むごかったり
わたしのひはつづかない
つづかないから ひとがめくっていく
そしていつまでもひはつづいていく
ひらがなと漢字が交錯して、私は「誤読」する。「くうばくか/くうはくか/くうきが」めくれない。なにかが「いま」「ここ」にあるものの奥でつながっている。その不思議な印象が、ひらがなだけで書かれた時よりも、強くなる。漢字を「見る」ことが、「音」を覚醒させる。そして、その覚醒が、見えなくてもいいものまで浮かび上がらせる。
「あのひとたちとのひびがつづくなら」は漢字交じりで書けば
あのひとたちとの日々がつづくなら
となるのだろうけれど、私は、何度も何度も、
あのひとたちとの罅(ヒビ=亀裂)がつづくなら
と読んでしまうのだ。「空爆」「空白」「空気」は、ひととひとの「ヒビ(亀裂)」である。それは大きい時戦争になり、空爆がある。関係が途絶え、関係の「空白」がある。あるいは、そこまでいかないまでも「空気の読めない」という印象がのこる冷めた感じ・・・。「日々」が「ヒビ」にすりかわって、「日」と「日」の間の、その「ヒビ」から何かが漏れる、こぼれる。
でも、「日めくり」をめくる「手」がどこかにあって、「日」は生まれ変わりながらつづいていく――という事実(?)のなかで、その印象はどんどん強くなる。「日」が増える(?)というか、そういう「日」が積み重なり、「日」が「月」になり、「年」になるとき、「ヒビ」は増幅する。拡大する。
わたしのまえにある ひは
ひでない ひ
めくれていない すぎていない
にちじょうがある
続いていくカレンダーのなかの「日」。すぎていく「日」その「日」と「日」のなかに、日常がある。ひととの付き合い、交流がある。日常には「ひと(人)」が隠れている。「日と日」は「人・日」である。「ひと」がいるから「ヒビ」も生まれる。
さらに。
私は、さらに「誤読」する。
「日とひ」は「日・問ひ(とひ)」でもある。「日々の問い」それが「日常」。常の、つまり、かわることのない「日」。「日」の「問い掛け」。問いとしての、詩――それが、この作品を動かしている。
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