田島安江「髪を切る」、井上瑞貴「秋は冬に始まる」(「侃侃」14、2010年01月19日発行)
田島安江「髪を切る」のことばは、読者を裏切るところからはじまる。
「髪を切る」。女が髪を切るとは、どういうときか。というのは、通俗的な疑問かもしれないが、まあ、そんなことを考えてしまう。私は通俗的だから。そうすると、タイトルとは無関係に、突然「傘屋の男」が出てくる。そして、「川がどちらに流れているのか/一瞬わからなくなる」と「傘屋」からも離れてしまう。
何が書きたいの?
「傘屋なのに/レコードも売っている」って、いったい何?
というようなことを思うのだが、不思議と、ことばの動きに誘い込まれてしまう。
「一瞬わからなくなる」--この行が決め手なのかもしれない。「一瞬」が決め手なのかもしれない。
田島のことばは「一瞬」しか存在しない。書きことばなのに、話しことばのように、いま、ここに、一瞬しか存在しない。すぐに別なものにかわってしまう。そして、そのかわったことをも即座に忘れて、最初のことばの「わき」にさっともどってくる。最初のことばに完全に重なるのではなく、別のものにかわったという刻印もないまま(刻印を印象づけないまま)、最初のことばの「わき」で知らん顔している。
いったい、何があったのか。
田島は説明しない。説明がしようがないのかもしれない。
何かわからないものが、さっと視界をよぎる。その「一瞬」というのは、何だったのかなあ、ということを一瞬考えさせる。
1連目の「傘屋の男」が「店」へもどったように、2連目の最後でも「店」が登場し、3連目には1連目の「鋏」がもどってきて、いよいよ髪を切る。そういう「物語」の領域を動きながら、
ここに、また「一瞬」が出てくる。
この「一瞬」も、1連目の「一瞬」も、「意味」としては「短時間」、意識できないような短い時間をあらわす--はずである。
そのはずなのだけれど。
私は違うことを考えてしまう。
「一瞬」というのは、ある「時」と「時」のあいだのことだけれど、では、その「あいだ」とは何? 空間? 空間であるはずがない。それじゃあ、「時」? そうだとすると、「時A」と「時B」のあいだに「時=一瞬」があることになるが、これって、おかしくない? 「時A」と「時=一瞬」のあいだには、「時」は存在しない? 「一瞬」だから、そこに紛れ込めるものはない?
そうなのかなあ。違うような気がする。
「時A」と「時B」のあいだにある「一瞬」は「時」ではないのではないだろうか。「一瞬」というのは、たしかに学校文法(学校教科書、あるいは「流通言語」)では「時」をあらわすことばなのだけれど、田島は、ここでは「時」とは別の意味合いで「一瞬」をつかっていないだろうか?
では、それは何?
「こと」だと、私は思う。
1連目にもどる。
その「一瞬」、田島は「時」ではなく、「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」を思い出している。「わからなくなった」とき、田島にわかっているのは「わかっている「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」なのだ。
「一瞬」わからなくなったから、「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」を思い出したのか、それとも「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」を思ってしまったから、「一瞬」「川がどちらに流れているか」「わからなくなる」のか。
これは微妙な問題だが、田島は、この詩では、そんなふうにして、何かのあいだにふいにまぎれこんでくる「こと」を「一瞬」と読んでいるような気がするのだ。
の「一瞬」。そのとき、それはたしかに「短い時間」なのだが、娘は「時間」なのことなど考えていない。思い浮かべていない。彼女の髪を切った男の、傘屋の、傘屋なのにレコードを売っている男の、傘屋なのに塩辛を売り、するめイカを焼いている男のことを思っている。その男が髪を切ったのだ、とあしたはみんなに知られるというこことを思っている。あんな髪になったのは、あんな男が切ったからだ(切られたからだ)とだれかがいうに違いない。
それやこれやの「こと」が、「娘の心を鋭くえぐる」。「髪」という「もの」でも「短い時間」でもなく、「長い時間ともの」がからみあってつくりだす「こと」が娘の心をえぐるのだ。
「一瞬」という「時間」は測れない。測れないから「一瞬」ともいうのだが、それが測れないもうひとつの理由は、その「一瞬」には、「こと」がつっているからでもある。
*
井上瑞貴「秋は冬に始まる」。この詩のタイトルは「流通言語」の定義に反している。時間は逆行しない。冬は秋にはじまる、ならふつうの時間の流れだが、秋は冬に始まるでは時間の流れが逆流する--だから定義に反するというしかない。
流通言語を破壊していくのが詩であるから、この作品は、タイトルからすでに詩なのであるが、井上の書く「時間」もまた、田島の書いている「一瞬」のように「こと」そのものである。
最後の行の「時間」は「時間」ではない。「こと」なのだ。「きのう同じ花が咲いていた」という嘘にあわせるようにして、同じ花であるかどうかは別にして、そんなふうに、ある花が「きのうも咲いていた」という「こと」は、たしかにありうる。そういう「こと」を思い出せる。
「こと」は「ことば」のなかにあり、「嘘」もまた「ことば」でなりたっているので、「うそ」は「こと」をとおして、「時間」をこえるもの、「時間」をつきやぶってあらわれるものと手を結ぶ。
その「一瞬」、「こと・ば」が「詩」になる。
しかしまあ、井上はとてもとてもとてもことばが好きな詩人である。「きみの胸にかかる橋」。その書き出し。
「半音階」ということばが書きたくて、きっとこの詩を書いたのだ。「意味」はない。だから、この「半音階」は2連目では「半透明」ということばに変化するのだけれど、「半透明の毛布をかぶり/ぼくたちのすぐ横で眠りに落ちる」なんて、つまんなくない? 毛布、眠りってことばが近すぎない? 「半音階の毛布」にすればよかったのに、と思うけれど、まあ、しようがない。
ことばは読者を裏切った瞬間に詩になるのだ。
--といのうは、付け足しの感想。
田島安江「髪を切る」のことばは、読者を裏切るところからはじまる。
傘屋の男が歩いている
川に沿って
川がどちらに流れているのか
一瞬わからなくなる
傘屋の角を曲がると川にでることは知っている
傘屋なのに
レコードも売っているその店の男は
夜中に鋏を研いでいる
「髪を切る」。女が髪を切るとは、どういうときか。というのは、通俗的な疑問かもしれないが、まあ、そんなことを考えてしまう。私は通俗的だから。そうすると、タイトルとは無関係に、突然「傘屋の男」が出てくる。そして、「川がどちらに流れているのか/一瞬わからなくなる」と「傘屋」からも離れてしまう。
何が書きたいの?
「傘屋なのに/レコードも売っている」って、いったい何?
というようなことを思うのだが、不思議と、ことばの動きに誘い込まれてしまう。
「一瞬わからなくなる」--この行が決め手なのかもしれない。「一瞬」が決め手なのかもしれない。
田島のことばは「一瞬」しか存在しない。書きことばなのに、話しことばのように、いま、ここに、一瞬しか存在しない。すぐに別なものにかわってしまう。そして、そのかわったことをも即座に忘れて、最初のことばの「わき」にさっともどってくる。最初のことばに完全に重なるのではなく、別のものにかわったという刻印もないまま(刻印を印象づけないまま)、最初のことばの「わき」で知らん顔している。
いったい、何があったのか。
田島は説明しない。説明がしようがないのかもしれない。
何かわからないものが、さっと視界をよぎる。その「一瞬」というのは、何だったのかなあ、ということを一瞬考えさせる。
狭い土地の斜面に沿って
緩やかなのぼりの一本道が続いている
空が狭い
はるか向こうに海が見える
あのときと同じ暗い海が続いている
いかの塩辛を売りながら
男は
夕暮れになるとするめイカを店先で焼いている
男が娘の髪を切る
鋭い鋏で
サラリと
娘のカラダを離れた前髪は
深い闇へ落ちていく
娘は顔を上げることができない
娘は短くなった髪が気になって仕方がない
短くなったスカートよりも
短くなった上着の丈よりも
一瞬にして短くなった髪は
娘の心を鋭くえぐる
1連目の「傘屋の男」が「店」へもどったように、2連目の最後でも「店」が登場し、3連目には1連目の「鋏」がもどってきて、いよいよ髪を切る。そういう「物語」の領域を動きながら、
一瞬にして短くなった髪は
娘の心を鋭くえぐる
ここに、また「一瞬」が出てくる。
この「一瞬」も、1連目の「一瞬」も、「意味」としては「短時間」、意識できないような短い時間をあらわす--はずである。
そのはずなのだけれど。
私は違うことを考えてしまう。
「一瞬」というのは、ある「時」と「時」のあいだのことだけれど、では、その「あいだ」とは何? 空間? 空間であるはずがない。それじゃあ、「時」? そうだとすると、「時A」と「時B」のあいだに「時=一瞬」があることになるが、これって、おかしくない? 「時A」と「時=一瞬」のあいだには、「時」は存在しない? 「一瞬」だから、そこに紛れ込めるものはない?
そうなのかなあ。違うような気がする。
「時A」と「時B」のあいだにある「一瞬」は「時」ではないのではないだろうか。「一瞬」というのは、たしかに学校文法(学校教科書、あるいは「流通言語」)では「時」をあらわすことばなのだけれど、田島は、ここでは「時」とは別の意味合いで「一瞬」をつかっていないだろうか?
では、それは何?
「こと」だと、私は思う。
1連目にもどる。
川がどちらに流れているのか
一瞬わからなくなる
その「一瞬」、田島は「時」ではなく、「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」を思い出している。「わからなくなった」とき、田島にわかっているのは「わかっている「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」なのだ。
「一瞬」わからなくなったから、「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」を思い出したのか、それとも「傘屋の角を曲がると川にでる」という「こと」を思ってしまったから、「一瞬」「川がどちらに流れているか」「わからなくなる」のか。
これは微妙な問題だが、田島は、この詩では、そんなふうにして、何かのあいだにふいにまぎれこんでくる「こと」を「一瞬」と読んでいるような気がするのだ。
一瞬にして短くなった髪は
の「一瞬」。そのとき、それはたしかに「短い時間」なのだが、娘は「時間」なのことなど考えていない。思い浮かべていない。彼女の髪を切った男の、傘屋の、傘屋なのにレコードを売っている男の、傘屋なのに塩辛を売り、するめイカを焼いている男のことを思っている。その男が髪を切ったのだ、とあしたはみんなに知られるというこことを思っている。あんな髪になったのは、あんな男が切ったからだ(切られたからだ)とだれかがいうに違いない。
それやこれやの「こと」が、「娘の心を鋭くえぐる」。「髪」という「もの」でも「短い時間」でもなく、「長い時間ともの」がからみあってつくりだす「こと」が娘の心をえぐるのだ。
「一瞬」という「時間」は測れない。測れないから「一瞬」ともいうのだが、それが測れないもうひとつの理由は、その「一瞬」には、「こと」がつっているからでもある。
*
井上瑞貴「秋は冬に始まる」。この詩のタイトルは「流通言語」の定義に反している。時間は逆行しない。冬は秋にはじまる、ならふつうの時間の流れだが、秋は冬に始まるでは時間の流れが逆流する--だから定義に反するというしかない。
流通言語を破壊していくのが詩であるから、この作品は、タイトルからすでに詩なのであるが、井上の書く「時間」もまた、田島の書いている「一瞬」のように「こと」そのものである。
三ヶ月前の季節と間違えそうな季節が
風景の鍵として瞳を閉ざし
きのうも同じ花が咲いていたという嘘をぼくにつかせる
いつかあなたのきのうを尋ねてみれば
そんな嘘にたわむれる植物たちの時間が流れているのを知るだろう
最後の行の「時間」は「時間」ではない。「こと」なのだ。「きのう同じ花が咲いていた」という嘘にあわせるようにして、同じ花であるかどうかは別にして、そんなふうに、ある花が「きのうも咲いていた」という「こと」は、たしかにありうる。そういう「こと」を思い出せる。
「こと」は「ことば」のなかにあり、「嘘」もまた「ことば」でなりたっているので、「うそ」は「こと」をとおして、「時間」をこえるもの、「時間」をつきやぶってあらわれるものと手を結ぶ。
その「一瞬」、「こと・ば」が「詩」になる。
しかしまあ、井上はとてもとてもとてもことばが好きな詩人である。「きみの胸にかかる橋」。その書き出し。
時々島が
ぼくたちの海に
まるで半音階の響きとなっている
「半音階」ということばが書きたくて、きっとこの詩を書いたのだ。「意味」はない。だから、この「半音階」は2連目では「半透明」ということばに変化するのだけれど、「半透明の毛布をかぶり/ぼくたちのすぐ横で眠りに落ちる」なんて、つまんなくない? 毛布、眠りってことばが近すぎない? 「半音階の毛布」にすればよかったのに、と思うけれど、まあ、しようがない。
ことばは読者を裏切った瞬間に詩になるのだ。
--といのうは、付け足しの感想。
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