詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンジェロ・ロンゴーニ監督「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」(★)

2010-03-22 23:09:52 | 映画

監督 アンジェロ・ロンゴーニ 出演 アレッシオ・ボーニ、クレール・ケーム、ジョルディ・モリャ 

 カラヴァッジョという画家を私は詳しくは知らない。映画で紹介されている作品の何点かは見たことがあるが、どこで見たかは思い出せない。画集で見たものもあるかもしれない。
 この映画では、カラヴァッジョを人間のリアルな肉体を描いた画家としてとらえている。絵に登場する人物は、題材とは無関係に、カラヴァッジョがみつけだしてきた人間である。人間をモデルにして、たとえばマリアを描いた。カラヴァッジョの描く人物は、それが聖書のなかの人物であっても、空想で描かれたものではなく、実在の人物をモデルとしている--そういう紹介のされかたをしている。
 たぶんそのとおりなのだと思うけれど。
 実在の人物のなかに、たとえばマリアを見出していく--そのときの、肝心な「過程」が映画からは見えて来ない。偶然、美人を見つけて、その美しさに、あ、マリアだと思ったなら思ったでもかまわないけれど、そのときの瞬間的な「ひらめき」(インスピレーション)が、もどかしいくらい伝わって来ない。
 何度かあらわれる死に神(?)、馬に乗った黒い仮面の男--その出現が、まるで「絵に描いたように」リアルではないからだ。なぜ、黒い仮面、黒いマント、黒い馬が死に神? モデルは?
 そうなんだなあ。この死に神にだけは「モデル」はいない。
 カラヴァッジョにとって、「死に神」の「モデル」がいない以上に(もしかしたら、カラヴァッジョは「死に神」を見たかもしれないけれど……)、この映画の監督に「死に神」の「モデル」がいないのだ。
 カラヴァッジョはもちろん実在の画家、彼の絵を愛し、彼を支えた人たち、絵を依頼し絵のモデルになった人たち、そして、16世紀という時代、ローマにも「モデル」は存在するが、「死に神」だけには「モデル」がいない。
 そのために、「死に神」が紋切り型になってしまっている。あら、つまんない。
 「モデル」の一番の強みは、そのひと自身の「過去」を持っていること。画家の(作者の、映画では監督の)、想像できない「過去」、オリジナリティーを持っていること。(俳優自身もそうだね。)その、その人のオリジナリティーが「空想」を突き破って、「物語」を現実にかえてしまう。そういう強烈な力を持っている。
 でも、「死に神」には「モデル」がいない。
 カラヴァッジョが「モデル」なしには作品を描けなかったのなら、そのカラヴァッジョを苦しめた「死に神」にも「モデル」は必要。常にカラヴァッジョの「肉眼」のなかに生きていた「死に神」を監督が「モデル」をとおして共有していないから、なんだ、これは、単なるカラヴァッジョというストーリーのなぞりじゃないか、ストーリーを突き破る「詩」がないじゃないか、という感じになってしまう。
 「モデル」がいないなら、描くのをやめればいいのだ。この映画は「死に神」を除外してつくりなおせば、「リアル」な肉体に惹かれて、ただその「肉体」の実在性、「肉体」が抱え込む光と影にひかれて絵を描いたカラヴァッジョの姿をもっと「リアル」に再現できたのではないだろうか。

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誰も書かなかった西脇順三郎(119 )

2010-03-22 22:40:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「あかざ」は、自然の無常が好き、なぜなら詩は自然の無常と向き合ったとき、「私」のなかに生まれるものだから--という西脇の詩学が鮮明にでた作品である。詩の最初の方に、

だが考える人間の話をするのは
恥かしいのだ。

 という行が出てくるが、この「恥かしい」の定義はむずかしい。だから、そのことについては、書くことを保留しておく。
 後半の、ことばの動きが、私はとても好きだ。

翌朝はタイフーンが去つたひとりで山へ
あがつて青いドングリの実を摘んだ。
もう人間の話はやりたくない
でも話さなければならない
スリッパをはいて話をした。
紺色に晴れた尖つた山々のうねり
の下でこのテラコタの大人は笑つた
「ソバでも食べてお帰りなさい。また
忘れなければ花梨を送りますぜ」 

 「テラコタ」は「素焼き」のことだろうか。「素焼き」のように素朴な、いわば「自然の無常」と共鳴するひと--という思いが、西脇のなかにあるのだろうか。
 というようなことは、「意味」的には重要かもしれないけれど、これも保留。というか、書くのは省略。
 この後半の部分では、「スリッパをはいて話をした。」の1行が、とても好きだ。無意味である。「もう人間の話はやりたくない/でも話さなければならない」という重苦しさを完全に蹴っ飛ばしてしまっている。
 「スリッパ」という弾ける音が軽くて、気持ちがいい。
 そして思うのだ。最初に「保留」したこと、「恥かしい」のことを。
 「スリッパ」の軽い音、そして軽い存在(なくても、まあ、こまらない、少なくとも死ぬことはないなあ)--これが「恥かしさ」の対極にあるものだと。
 「考える人間の話をするのは/恥ずかしいのだ。」また、話したくない人間のことを話さなければならないのも「恥かしい」。だから、その話の内容は書かない。けれど、「スリッパ」をはいて話したことは「恥かし」くはない。「スリッパ」のことは書いても「恥かし」くない。だから、書いている。
 無意味と軽さ。話(考え?)をつなげてひとつのものにするのではなく、つながっていくものを叩ききることば、その音、その無意味さ--そこに、人間の「すくい」のようなものがある。
 最後の2行。
 西脇が何を話したか、そんなこととは関係がない。話(講演?)は話(講演)。終われば、話したことばなど捨て去って、ソバを食べる。その断絶のあざやかさ。それに結びつく「スリッパ」である。





評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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小久保佳世子『アングル』

2010-03-22 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小久保佳世子『アングル』(金雀枝舎、2010年01月29日発行)

涅槃図へ地下のA6出口より

 巻頭の一句である。とても気に入った。「涅槃図」は開かれている美術展の目玉、ないしは小久保がその展覧会でぜひ見たいと切望している作品なのだろう。だから、美術館への通路ではなく、作品の名前が来る。場所を作品が越えている。地下鉄(たぶん)の出口には、「A6出口」が美術館に通じていると案内してあるのだが、その他人の(?)つくってくれた案内を通り越して、こころがすでに美術館のなかにいる。美術館のなかの「涅槃図」とともにある。その感じが気に入った。「A6出口」という無機質なことばが、小久保のこころの熱さを逆説的に浮かび上がらせている。
 俳句というのは、基本的には、向き合っている対象といったいになり、私が対象であり、対象が私であるというような世界なのだと思う。そういう「定義」(?)からすると、小久保の巻頭の作品は少し風変わりということになるかもしれないが、私は俳句の門外漢なので、こういう作品に惹かれてしまう。
 季語がないのだけれど、こころが先回りする感じが「春」につながる。暗い地下(鉄)から、光あふれる屋外へ。その光の向こうにある「涅槃図」。地下からの出口が「涅槃」につながる--そう思うとき、差しこんでくる光がある。その書かれていない「光」に春を感じる。あるいは、これは、この句を読んでいる「いま」が春だからそう思ってしまうのかもしれないけれど。
 「出口より」の「より」も、なんとなくおもしろい。口語では「から」になる。私は「より」なんて言わない。言った記憶がない。思い出せない。そういうことばがある。けれど、「意味」は知っている。「意味」は知っているけれど、絶対に言わないことば--それに触れると、なんといえばいいのか、「頭」のなかに「肉体」がぐにゅっとねじりこんでくる感じがする。自分の「肉体」ではなく、だれともしれない「肉体」が。「他人」が、「肉体」のまま、入ってくる感じがする。「より」ということばとともにある「肉体」というものが、ぐにゅっと入ってきて、そこから私の「肉体」へともどっていく。喉が、舌が、発声器官が、その「音」をつくりだすために動く。その不思議さ。そのとき、あ、そうだ、そういうことばがたしかにあったのだと思い出す。
 「出口より」、あ、「より」か……と思うのである。
 そして、このときの変化が「涅槃図」ということばが「頭」に思い起こさせるもの、「肉眼」に思い起こさせるものとも、いくらか似ている。「涅槃図」なんて、(なんて、といってはいけないのかもしれないけれど)、まあ、私の関心の外にある。それらしいものはわかるけれど、具体的に思い出すものなどなにもない。なにもないけれど、たしかにそれはあって、そしてただあるだけではなく、ある人々(ある時代)にはひとととても強烈に結びついていた。「より」のように、「肉体」にしみついていたんだなあ、と思うのである。
 そういうものがいっしょになって「地下」とも響きあう。「出口」が導く「トンネルのような通路」とも響きあう。無意識というと少し違う気がするけれど、「肉体」の奥に眠っていたものが呼び覚まされて動きだす感じ--そしてその先にある「涅槃図」。うーん、と考えはじめる。
 そういうものへ、そういうことへ、私のことばは動きはじめる。
 あ、これは「俳句」の鑑賞じゃなくなっているなあ、と思いながらも、まあ、いいか。私は俳句のことは知らないのだし……。

 ほかに気に入ったのは。

山車を曳くわけの分からぬものを曳く

 「わけの分からぬ」がいい。そういうものが、ある。17文字のなかに「曳く」が2回出てくるが、この繰り返しが「わけの分からぬ」と強烈に結びつく、その強烈さもいい。わかっていることは「曳く」という人間の「肉体」の動きだけである。曳いているのは「山車」だけなのか。そのとき「肉体」はいったい何を曳いているのか。たとえば、そこには存在しない「涅槃図」を曳いてはいないか。そしてそのとき、肉体はもしかすると、いま、ここ、ではなく地下の「A6出口」へ向かってはいないか。--もちろん、こういうことは、ここには書かれていな。書かれていないから、きっと私の感想は「わけの分からぬ」感想になっているのだと思うけれど、そういうことを、私は考えてしまう。感じてしまう。

 飛躍して言ってしまうと、小久保のことばは「肉体」をもっている、と感じるのだ。それが、おもいしろい、と感じるのだ。私は。
 抽象が「肉体」をもっている、という感じがするのだ。

無いものを数へてをれば桜かな

 この句にも、「山車」につうじるものを感じた。また、「数へる」「をる」という旧仮名遣いのなかにもある「肉体」も同時に感じた。
 現代仮名遣いにも「肉体」はあるけれど、旧仮名遣いの方が、何かしら「肉体の肉体」という感じがする。強くて、太い。強靱だ。そういうものがあってこそ、抽象というものが動くのかもしれない。動かせるのかもしれない。

ダイバー消え水面に臍のごときもの

 一句選ぶとすれば、私は、この句を選びたい。写生の句ということになるのかもしれないが、この句では「わけの分からぬ」や「無いもの」というような抽象の代わりに「臍」というなじみのある「肉体」が登場する。そして、それが具体的で誰もが知っているもの、知っているだけではなく、もっているものなのに--あ、それが突然、抽象になってしまうのだ。
 「臍のごときもの」だから、それは比喩なのだが、比喩になることで「肉体」が抽象になる。具象が抽象になる。
 小久保はしっかりした「肉体」をもっているだけではなく、その「肉体」をきちんと動かしていく「精神」をもっている。
 そういうことを感じた。

アングル
小久保佳世子
金雀枝舎

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