監督 アンジェロ・ロンゴーニ 出演 アレッシオ・ボーニ、クレール・ケーム、ジョルディ・モリャ
カラヴァッジョという画家を私は詳しくは知らない。映画で紹介されている作品の何点かは見たことがあるが、どこで見たかは思い出せない。画集で見たものもあるかもしれない。
この映画では、カラヴァッジョを人間のリアルな肉体を描いた画家としてとらえている。絵に登場する人物は、題材とは無関係に、カラヴァッジョがみつけだしてきた人間である。人間をモデルにして、たとえばマリアを描いた。カラヴァッジョの描く人物は、それが聖書のなかの人物であっても、空想で描かれたものではなく、実在の人物をモデルとしている--そういう紹介のされかたをしている。
たぶんそのとおりなのだと思うけれど。
実在の人物のなかに、たとえばマリアを見出していく--そのときの、肝心な「過程」が映画からは見えて来ない。偶然、美人を見つけて、その美しさに、あ、マリアだと思ったなら思ったでもかまわないけれど、そのときの瞬間的な「ひらめき」(インスピレーション)が、もどかしいくらい伝わって来ない。
何度かあらわれる死に神(?)、馬に乗った黒い仮面の男--その出現が、まるで「絵に描いたように」リアルではないからだ。なぜ、黒い仮面、黒いマント、黒い馬が死に神? モデルは?
そうなんだなあ。この死に神にだけは「モデル」はいない。
カラヴァッジョにとって、「死に神」の「モデル」がいない以上に(もしかしたら、カラヴァッジョは「死に神」を見たかもしれないけれど……)、この映画の監督に「死に神」の「モデル」がいないのだ。
カラヴァッジョはもちろん実在の画家、彼の絵を愛し、彼を支えた人たち、絵を依頼し絵のモデルになった人たち、そして、16世紀という時代、ローマにも「モデル」は存在するが、「死に神」だけには「モデル」がいない。
そのために、「死に神」が紋切り型になってしまっている。あら、つまんない。
「モデル」の一番の強みは、そのひと自身の「過去」を持っていること。画家の(作者の、映画では監督の)、想像できない「過去」、オリジナリティーを持っていること。(俳優自身もそうだね。)その、その人のオリジナリティーが「空想」を突き破って、「物語」を現実にかえてしまう。そういう強烈な力を持っている。
でも、「死に神」には「モデル」がいない。
カラヴァッジョが「モデル」なしには作品を描けなかったのなら、そのカラヴァッジョを苦しめた「死に神」にも「モデル」は必要。常にカラヴァッジョの「肉眼」のなかに生きていた「死に神」を監督が「モデル」をとおして共有していないから、なんだ、これは、単なるカラヴァッジョというストーリーのなぞりじゃないか、ストーリーを突き破る「詩」がないじゃないか、という感じになってしまう。
「モデル」がいないなら、描くのをやめればいいのだ。この映画は「死に神」を除外してつくりなおせば、「リアル」な肉体に惹かれて、ただその「肉体」の実在性、「肉体」が抱え込む光と影にひかれて絵を描いたカラヴァッジョの姿をもっと「リアル」に再現できたのではないだろうか。