詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベルナー・ヘルツォーク監督「バッド・ルーテナント」(★★★★★)

2010-03-01 22:35:00 | 映画

監督 ベルナー・ヘルツォーク 出演 ニコラス・ケイジ、エヴァ・メンデス、ヴァル・キルマー

 冒頭、水没したニューオリンズが出てくる。その水面を蛇が泳いで行く。蛇が不気味だが、それ以上に水が不気味である。まるでなにも起きなかったかのように、はじめからそこに存在しているかのような静かさで動いている。蛇の動きは小さな動き(体に合った動き)だが、水もまた水の容積にしたがって動いているので、ゆったりしているのはその水が深くて、とてつもない量だということを暗示している。ふつう、蛇が泳げば、その動きにあわせて水紋ができる。この映画でも蛇の泳ぎにあわせて波紋はできるが、それはもっと大きな水そのもののうねりに吸収されてしまう。ねっとり、と。水--のはずなのだが、それは清流の水とはもちろん違っている。何か、水以外のものをその内部に抱え込んでいて、その不純物のためにねっとりとした肌触りをもってしまった水--そういう感じである。
 でも、ほんとうに、そうなのか。ほんとうに水が不純物を含んでいて、そのために水がねっとりと見えるのか。それとも、見る私の方に、純粋な、透明な水以外のものを見たいという意識できない欲望(映画なのだから、現実では見ることのできない何かを見たいという欲望)があって、そのために水がそんなふうに見えるのか。蛇が泳いでいるが、その蛇に不気味なものを見たい、蛇が象徴するもの、たとえばセックス(アダムとイブにセックスを教えたのは蛇である)の官能と苦悩を見たいと思うから、蛇が泳ぐときの水の波紋、水全体の光(反射か、内部からの発光なのか)が気になるのか……。
 そんなことを思っていると、映画はなんとも不思議な世界へ突き進んでいく。
 ニューオリンズの刑事。彼ニコラス・ケイジは、冒頭の水没した街(刑務所?)で非難しそこねた犯罪者を救出する。そのことで表彰される。勇敢で、仕事熱心の一面をもっている。一方で、ニコラス・ケイジは証拠品のドラッグをくすね、高級娼婦エヴァ・メンデスといっしょに使用し、中毒になっている。ギャンブルに手を出し、多額の借金を抱えている。どうしようもない堕落した刑事でもある。その刑事が、ドラッグの取引現場で起きた殺人事件を捜査していく。ストーリーは、そういうものなのだが、あ、ストーリーは関係ないなあ。
 まず引き込まれていくのが、ニューオリンズの街の映像である。美しくない。汚くもない。美しさも汚さも、実は同じである。それが印象的であるためには、一種の「切れ」が必要である。だれでもが(と私は思っているが)、映像を撮るとき、そこに「切れ」を持ち込む。シャープさ。視点の独特のたしかさ。他人が見ることのできない鋭い何か。そういうものに、私は引き込まれていく。--ところが、この映画では、そうではなくて、「切れ」がないことの不思議さに、ぐいと視線をつかみとられてしまう。
 美しさも汚さも、一種の「純粋さ」であるけれど、この映画の街には、「純粋さ」がない。不純なのである。(不潔、というのとはちょっと違う。)どうして、こんなふうに不純なのか--と思う一方、この不純さ、どこかで見たことがあるなあと、私の「肉体」は反応する。何かがいやになったとき、何かがめんどうになったとき、すーっと目の前に押し寄せてくる風景に似ている。どうせ、何もかわりっこない、と怠惰になる瞬間の視界に似ている。
 ベルナー・ヘルツォークは「フィッツカラルド」「アギーレ神々の怒り」の監督だが、その二つの映画に共通しているのは、とんでもないことをしようと悪戦苦闘して、最後は疲れ切って、まあ、どうでもいい--という感じで映像を撮ってしまったような不思議な生々しさがあるが、この映画では、それが最初から街にただよっている。街は、「フィッツカラルド」「アギーレ神々の怒り」に登場した人間の手におえない(人間の手を超越した)自然の力のように、何か人間の力を超越したものによって作らされていて、そこにいる人間は、そこにいるだけで、そこで生きていくだけで疲労困憊し、何をするにしても、ああ、もういやだ、もうめんどうくさいという気持ちになる。そういう気持ちからみつめた街に見えるのだ。
 刑事はドラッグ中毒なので、ときどき幻想が紛れ込む。交通事故の現場のワニ。ワニにぶつかって車が横転し、事故が起きたように、最初は見える。そして、その死んだワニをじーっとみつめて去っていくワニまで登場する。しかし、それはほんもの? どうも幻想のようである。刑事はまた、張り込み中、机の上にイグアナを見るが、それは他の刑事たちには見えないという。幻想が現実と区別せずに、そのまま映像化されているのだ。もし、幻想と現実が区別なく映像化されているとしたら、たとえば彼がこの映画のストーリーのきっかけとなっている殺人現場で見た「詩」のノートと金魚は? 不思議なひれのついた金魚は? 現実? 幻想?
 刑事は、捜査の過程で、ドラッグの売人に会う。ともにドラッグをやる。売人に捜査情報を与え、ドラッグの売り上げの一部を受け取る。一方で、罠を仕組んで、その売人たちを逮捕し、手柄をたてる。殺人事件そのものを解決する。
 あ、これは、現実? 幻想? つまり、刑事の夢? しかし、それが夢だとして、どこまでが夢でどこまでが現実なのか。事件を解決し、手柄を立て、出世するというのが夢なのか。あるいは逆に、善良な刑事ではなく、悪徳にまみれた刑事になり、ドラッグをもっているカップルをおどしてセックスをすること、高級娼婦とドラッグをつかって官能的なセックスをすること、あるいは売人組織のなかにふかく食い込み、とてつもなくハイになれるドラッグを悪人たちといっしょに楽しむこと、そうやって現実から逃避して生きること--それが夢なのか。
 人間にはだれにでも悪徳に染まりたい夢がある(と、私は信じている)。悪に染まり、いま、ここではない、何かとっぴょうしもないものを体験してみたい。落ちることで自分ではなくなってしまいたいという欲望がある。--それは、冒頭の、どこまで広がっているかわからない水の、その内部の深み、内部の不純物のようなものかもしれない。それに比べると、実際に姿を見せてしまう蛇などはかわいらしいものだ。同じにように、たとえばドラッグを売って金を手にいれる、あるいはギャンブルで人を破滅させる悪人などは、かわいらしいものかもしれない。そういう「悪人」を生み出してしまう、欲望の住処としての「街」--街の奥底にうごめいている、まだ形にならない欲望そのもののうごめきの方がはるかにこわいのだ。
 この映画に出でくるニューオリンズの街を、何かがいやになったとき、何かがめんどうになったとき、すーっと見えてきてしまう何かに似ていると書いたが、人間の奥底にうごめいている形にならない欲望も、そういう瞬間にてらりと光るものかもしれない。
 おぼれてしまいそうな、不思議な映像である。「美学」ではなく「美学」を否定したもの、「美」の定義から逸脱したものが、この映画の奥に動いている。




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安水稔和『ひかりの抱擁』

2010-03-01 00:00:00 | 詩集
安水稔和『ひかりの抱擁』(編集工房ノア、2010年03月01日発行)

 阪神大震災後を記録した詩集である。「生きのびる」という作品に、とても不思議なというか、はっと胸をつかれる1行がある。

新潟で夕方に震度7の地震があった日の午後
いつものように木を見に行って気がついた
むき出しの木質部がさらに広がっていた。
近づいてみると
焦げた樹皮の一部が浮いている。
触れると剥(は)げそうで
剥げ落ちて白い木質部が広がった。
--なぜ、今なのか。

九年前の一月の震度7の寒い朝に
燃えた街で焼けた木は
あれから黒焦げの樹皮を落として
木の芯をあらわにしたが。
焦げていないまわりの樹皮がふくらみ
盛りあがって木の芯を包みこんだ。
生きのびて立つ木。
--それがなぜ、今。

カルス【calls 】
傷ついたとき受傷部分に盛り上って生ずる癒傷組織。
ここで質問。
この九年間ずっとこの木は焦げた樹皮を落し
カルスを生じてきたのでしょうか。
これからもこの焼けた木は焦げた樹皮を落し
カルスを生じるのでしょうか。
--ほんのすこしでもいい、思ってください。

焦げた樹皮の地に落ちる乾いた音
滑らかな木の芯の発するつらいやさしい声。
日の記憶。
生きのびた木が
生きたいと立っている。
そのそばで生きのびた人が
生きたいと並んで立っているのだが。 

 3連目の最終行。「--ほんのすこしでもいい、思ってください。」は、木が常にカルスを生じてきたか、そしてこれからもカルスを生じさせていきるか、そのことを「思ってください」というのだが、この「思う」とは、どういうこころの動きだろう。「思う」の前の行は、疑問形である。だから、この場合の「思う」は考えるということになる。「これまで生じてきかた」「これからも生じるだろうか」という疑問形である以上、その疑問を「思う」ということは「はい」か「いいえ」の「答え」を考えるということになる--はずである。
 ところが、「思う」というのは「考える」ということとは違うのだ。「考え」れば、こたえは「とい」「いいえ」になるが、「思う」とき、そこには「はい」「いいえ」以上のものが含まれてしまう。
 4連目は、安水の自問自答、その自らの答えにあたるが、そこには「はい」「いいえ」はない。「はい」「いいえ」を超えたものがあふれている。

生きたいと立っている

 これは生きたいと「思い」立っている--という意味である。「思ってください」の「思って」は、この行の省略されている「思い」につながるのだ。カルスが生じたか、これからも生じるかを考えるのではなく、その木が生きたいと「思っている」ということを「思う」--木といっしょに、その「思い」を共有する。そうしてください、と安水は書いているのである。
 「生きのびた人が/生きたい」と「思う」。それは、生きのびることができなかった人たちもまた、きっと生きのびたいと「思い」ながら亡くなっていったと「思う」ことなのである。

 ことばは、省略されたとき、強くなる。省略されるのは、そのことばが、書き手にとってあたりまえのこと、あたりまえすぎてことばにすることを忘れてしまうような大事なこと、つまり「思想」だからである。
 「思想」は書かれたことばのなかにあるのではなく、書くことさえ忘れてしまったことば、省略されてしまったことばのなかにある。
 そしてそれはいつも、つかわれるとしても、すこし違った「意味」であらわれてきてしまう。「思ってください」のように。あるいは、また別のことばとなってもあらわれる。
 「神戸 はじまりの歌」の4連目。

あのとき亡くなった人は
いなくなったのではない。
あの人は私のなかで微笑(ほほえ)んでいる
わたしが忘れないかぎり。
あの人たちはわたしたちといっしょに生きていてくれる
わたしたちが生きているかぎり。

 わたし(わたしたち)が「忘れない」かぎり、「生きている」かぎり、の「忘れない」「生きている」とは、別のことばで言えば「思う」なのだ。そして、その「思う」は必ず「生きたい」という「思い」なのだ。
 生きたいと「思う」とき、その「思い」のなかにかならず亡くなった人たちは、いっしょに「生きてくれる」。
 安水は、繰り返し繰り返し、そのことを書いている。


安水稔和全詩集
安水 稔和
沖積舎

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