詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日原正彦「春の落葉」、大西美千代「人生の途中でりんご飴を売っている」

2010-03-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
日原正彦「春の落葉」、大西美千代「人生の途中でりんご飴を売っている」(「橄欖」87、2010年03月03日発行)

 日原正彦はことばそのものが好きというよりは、ことばを動かしていくことが好きである。
 詩人とは(あるいは作家とは)、まずことばが大好きな人のことだが、ことばが好きには大別してふたつある。ひとつは、そのことばそのものが好きというひと。きのう取り上げた井上瑞貴もそうだろうけれど(そのつづきで、この感想を書いている)、たとえば清水昶。ただ、あることばがつかいたくて、そのことばにひっぱられて書いてしまう詩人。もうひとつは、「単語」ではなく「論理」が好きなひと。「論理」というとおおげさだけれど、ことばの動きが好きというひと。ことばはここまで動かせる--そういうことを感じながら、そのことに快感を覚えて、それにおぼれるひと。たとえば清水哲男。
 日原正彦は、後者である。
 「春の落葉」の1連目。

青鼠色のうすい毛布をかけて
窓辺のソファに午睡する君
閉じたまぶたの裏からねむりは育てられ
心の裏の深みへ徐々にひらいてゆく


 「青鼠色」という書き出しには、ことばそのものへの嗜好も感じられるし、「うすい」というひらがなの表記にも、ことばそのものへのこだわりが感じられる。けれど、それにもまして強く感じるのは、3、4行目のことばのていねいな動かしかたへのこだわりである。
 「徐々に」。
 これが日原のキーワードである。日原のことばの動きの特徴である。日原のことばは過激には動かない。乱暴には動かない。何かの動きを、どれだけ微細に表現できるか。つまり、動きをどれだけ微分し、その微分の集積として、全体を積分できるか、という方向へ動いてく。「微分・積分」が「徐々に」である。
 2連目を読むと、そのことがよくわかる。

どこか遠い窓から漏れだした薄命の音楽家のピアノ曲の数小節が
光りたゆたいながら やってきて
君のうすももいろの耳たぶにとまる
そして 震えながら ふっと
消えては 余韻となって顕れ
消えてはまたその余韻となって顕れして
君の無邪気な夢をまさぐる
花芯をまさぐる虻のように

 「薄命の」音楽家、というような念おし(これは「うすい」毛布をひきずっている)をとおして、その「薄命」の「薄い」「少ない」「かすかな」というようなニュアンスの世界へ日原はさらにはいっていく。(「薄」は「すくない」からこそ「数小節」という小さいものをひきよせ、それにまみれていく。--あ、まみれていく、というのは私の印象であって、日原はそういう運動を自ら好んで選んでいる。)
 その運動の「さらに」というのは「徐々に」というのにひとしく、そして「徐々に」というのは、ときに繰り返しのことである。「うすい」毛布→「薄」命の→うすいももいろのなかに繰り返しがあるが、そうしたことだけでは、日原は満足できない。

消えては 余韻となって顕れ
消えてはまたその余韻となって顕れして

 「繰り返し」と私が呼んだものは「また」ということばで表現されている。日原は「繰り返す」ということにつかれない。それはまるでモーツァルトである。何度も何度も繰り返して、その繰り返しのなかに、自分自身で酔っていく。

こうしてたしかに内と外へ運ばれていったもの
甘い夢に汚れた音符によって

めざめた君は
たしかに 盗まれたものとなっていて
あおいためいきのなかに
美しい薄利の手ざわりを感じている

 この3連目と4連目のあいだの「あき」。
 「甘い夢に汚れた音符によって」、どうしたの? そのことばは、いったい、何が引き受け、ひとつの文章として完結するのか。
 日原は、すぐには言わない。「徐々に」いう。「徐々に」というのは、ときに寄り道をして、ということでもある。すぐに言えることなのに、そのすぐを遠ざけるために回り道をする。それもゆっくりと。
 その「ゆっくり」は非常に念が入っている。すぐに動くのではなく、つまり、ことばそのものとして動きはじめるのではなく、「あき」、ことばの「沈黙」、「間」をぐいとためこんでから、深呼吸して、息を胸にためこんでからゆっくりと息を吐き出す具合に、ゆっくりと遠回りをする。
 1連目の「ねむり」から4連目への「めざめ」へ。そのとき「青鼠色」は「あおい」に純化(?)させられているのだが、その「青鼠色」から「あお」への変化のように、それは激変ではない。「青鼠色」から「黄色」というような過激な変化ではない。あくまで、「徐々に」の範囲におさまる動きである。
 その動き。それを日原は「美しい剥離」と読んでいるのだが、「美しい」と言ってしまう念押しと、「剥離」と「薄命」の音の響きあい、よびかけのようなものに、私は、あ、気持ち悪いと、やっぱり、いつもと同じ感想を書いてしまう。
 この日原の、ていねいすぎる独特のことばの運動--それは、別の観点から見れば超絶技法なのかもしれないけれど、どうも私にはなじめない。



 大西美千代「人生の途中でりんご飴を売っている」は3人目の恋人のことを「詩に書いている」(思い出している)という作品である。その3、4連目。

売れないりんご飴の向こうを
人間たちが歩いていく
少しずつ似たような影を重ね合わせ
一番空に近いところ
不幸せそうな顔をしているのは
わたしかもしれないと女は思う

もっとじょうずに
悲しむべきだった

 「人間たちが歩いていく」の「人間」という音の響きがいいなあ。「わたし」からふっきれている。「わたし」と「人間」が切り離されている。日原のことばの「徐々に」はべたべたでもあるのだが、大西は「飴」を売っているにもかかわらず、そこには飴の「べたべた」がない。ことばに淫していない。
 あ、そうなのだ。
 ことばは、説明しなくていいなのだ。ていねいに(徐々に)繰り返して言ってもらわなくても、わかるのだ。人はみな「経験」というものをもっている。ことばは、そういう世界へ一気に飛び込んでいく。「徐々に」ではなく。

もっとじょうずに
悲しむべきだった

 いつ、どこで--などということは語らなくていい。そんなことを語らないとわからないひとには、どれだけことばを費やしても、「もっとじょうずに/悲しむべきだった」はわかるはずがないからだ。
 大西は、ひとと「わたし」は違うということをはっきり認識している。違うからこそ、違いをこえて同じになれることを知っている。


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