詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョージ・ロイ・ヒル監督「スティング」(★★★★)

2010-07-01 21:41:34 | 午前十時の映画祭
ジョージ・ロイ・ヒル監督「スティング」(★★★★)

監督 ジョージ・ロイ・ヒル 出演 ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、ロバート・ショウ、チャールズ・ダーニング、レイ・ウォルストン

 なつかしいなあ。ポール・ニューマンもロバート・ショウも生きている。ロバート・レッドフォードも若いし、青い。
 映画のつくりもなつかしいねえ。タイトルがきちんとあって、章仕立て。撮影はもちろんセット。ロバート・レッドフォードが町を歩く。ほら、ロバート・レッドフォードの影が濃くなったり薄くなったり、右に映ったり、左に映ったり。現実の太陽の光じゃ、そんなことはないよね。セットの証明のせい。わざと、それを見せている。いいねえ。なつかしいねえ。これは映画ですからね、嘘ですからね、と何度も何度も断わりながらストーリーが進んでいく。
 にくい、にくい、にくい。
 ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードがどんなふうにロバート・ショウを騙すか--その手口をずーっと事前に説明しながら、最後の最後は、ロバート・ショウではなく観客を騙す。ロバート・ショウももちろん騙されるのだけれど、観客の方がもっと騙される。
 ロバート・レッドフォードが口のなかに血弾(?)を入れるシーンをちゃんと見せているじゃないか--と、たぶん、監督と脚本家は言うだろうけれど、違うよねえ。その説明--あとだしジャンケンじゃないか。
 というようなことはさておいて。
 私がこの映画でいちばん好きなのは、ラストシーン。見事ロバート・ショウを騙す、チャールズ・ダーニングをも騙すというシーンではなく、何もかもがおわって、「舞台」を片づけるシーン。ここが好きだなあ。
 映画ですよ、映画ですよ。
 楽しかったでしょ?
 つくっている私たちもとっても楽しかった。
 でも、映画は映画。嘘は嘘。終わってしまったら、セットを片づけてみんなそれぞれの家へ帰っていくんですよ。
 いいなあ、このさっぱり感。
 こういう映画は、やっぱり絵に描いたような色男--現実には存在しない色男じゃないと、さっぱり感がでないよねえ。そういう意味では、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードは、いい組み合わせだねえ。ともに、「重さ」がない。日常を感じさせない。



 気になったことがひとつ。福岡天神東宝で見たのだが、映像のピントが甘い。シャープな輪郭がない。もともとそうだった? それともフィルムの劣化? あるいは映写技術の問題? もともと天神東宝の映写技術には問題があるのだけれど。特に「午前十時の映画祭」の作品を上映している5階の映画館の音はひどい。途中で必ず「ぶーん」という雑音が入る。どうにかしてよ。
                         (午前十時の映画祭、21本目)



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三井葉子『人文』(2)

2010-07-01 00:00:00 | 詩集
三井葉子『人文』(2)(編集工房ノア、2010年06月01日発行)

 三井葉子『人文』には俳句が出てくる。「枯野」という作品は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る 芭蕉」を踏まえている。とは、いっても、ほんとうに踏まえているのかどうかはわからない。ことばが「文」(文学)になるまでには、山の中の道が踏み固められてできるよりも、もっと時間がかかるかもしれない。芭蕉がつくった句であっても、そこに芭蕉だけが歩いているわけではあるまい。
 ということは。
 と、私は、突然飛躍するのである。その芭蕉も通っただろうけれど、芭蕉じゃないだれかの踏みしめた「足跡」を、自分の足でたどってみてもいいんじゃないだろうか。そのことばのなかに、だれのものであるかわからない「足跡」、いや、その足の裏の感覚を感じてもいいんじゃないだろうか。
 と、三井が感じるかどうかはわからないが、私は感じてしまう。
 三井が芭蕉の俳句を踏む。そうすると、その三井の足の裏には芭蕉の足を超えた、もっと別のひとの足の裏の感じ、ことばを踏みしめて歩く別のひとの足の裏の感じが「肉体」そのものとしてつたわってくる。それを、三井は、三井のことばで語り直している。

穴に入るまでのひと呼吸
蛙はちょっと考えている

穴に入るまでのひと呼吸
蛇も ちょっと
考えている

腐葉土の
いい匂い

栗も爆ぜる

ああ 世界かァ
とわたしは思う

どうしようかと考えているところを世界というのかァ とわたし
 は
思う

枯野という世界もあるのかと思う わ
はせをさん

 「どうしようかと考えているところを世界というのかァ」がすばらしい。ひとは(動物も)同じところをとおる。それが「道」になる。ことばが繰り返されて、「文」になっていく。とは、いうものの、そんな簡単には「道」にならないし、「文」にもならないだろう。そのたびに「どうしようか」と思う。ひとも、動物も。
 その「ひと呼吸」、「どうしようかなあ」と思う「ひと呼吸」が、しずかに「肉体」を動かすのだと思う。そこでは「ことば」は動かず、ただ「肉体」が動く。

 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」とは言うものの、実際に、駆けめぐりはじめるまでの「ひと呼吸」、決意のひと呼吸、踏み出すまでのひと呼吸--それが三井には、瞬間的に見えた、ということなのだろうなあ。



 この「ひと呼吸」を「蛙とびこむ」では別のことばで言っている。

死ぬわ というと
おお そうかとさきに死んでくれるおとこ

はずかしい というときにはずかしいことをして

ああ たったいちまい
こんなうすい皮を破ることができないとみもだえている
夜明けの
うすい
雲 の
ような

 うーん。「古池や蛙とびこむ水の音」という句が念頭に置かれているのだけれど……。そうか、古池の水面、その表面が「うすい皮」か--と思いたいのだけれど。
 私は、すけべなのかなあ。
 ぜんぜん違うことを考えてしまう。
 男と女のセックス。「死ぬ」とか「いく」とか。どっちが、先か。「はずかしいこと」なのか、「はずかしい」をとおりこしたことなのか。まあ、どっちでもいいけれど。その「死ぬ」というときの、瞬間的な、破壊。「うすい皮」? それは、この世とあの世の境にあるうすい皮かもしれない。
 それは、うーん、「死ぬ」といいながら、一回では死ねない。「ああ、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ」と身悶えながら、
 どっちが先に「死ぬ」?

 よくわからないねえ。

 ねえ、三井さん、「古池や蛙とびこむ水の音」を読みながら、ほんとうに、そんなことを考えたの?
 いや、そんなことは考えていません。かってに、いやらしいことを考えないでください。自分の妄想をひとの妄想にしないでください、ぷんぷん。
 叱られるかもしれないなあ。

 でも、私は考えてしまう。感じてしまう。そして、そういうこと--男と女のセックスのことだけれど、それはだれもが知っていることだけれど、そこには「道」は、まだないんだよなあ。「文」もないんだよなあ。あるように見えるけれど、それは勘違い。その人だけにしかわからない、「道」であり「文」である。そして、そのひとにだけしかわからないのだけれど、この「道」はみんながとおっている、みんなが「ことば」にしている。なんとか「文」にしようとしている。

 で、ここで、またとんでもない飛躍。「誤読」。

 古池に飛びこんだ蛙--その水面のうすい皮を破って、ぶじ、この世からあの世へと「死ぬ」--「死ぬ」といっても、生きている、というか、より強く生きていると感じる、その「水のなか」で、蛙さん、蛙さん、いまは、何を考えている? 感じている?
 それを聞いてみたい。
 でも、これは聞かなくてわかること。
 ほんとうにわからないのは、やっぱり「死ぬ」前の、「死ぬ」寸前の、つまり「うすい皮」を破る前の、「はずかしい」瞬間だね。
 なぜ、わからないのだろう。
 何度も何度もくりかえしているのに。
 わからないから、永遠にくりかえすのかな?

 三井が書こうとしているのは違うことかもしれないけれど、私は、色っぽくていいなあ、と思う。つやっぽくていいなあ、と思う。
 「文学」(文という道)のなかには、そういう色っぽいものがつまっている。「わび・さび」なんて、言ったって、それに辿り着くまでにひとはいろんなことをする。そのいろんなことをした「足跡」(足裏の記憶)が、どんなことばにもあって、それを芭蕉のことばから感じるなんて、超かっこいい。

 超かっこいい--なんて、軽薄なことばだけれど、三井のことばを「ほめる」なら、絶対、「超かっこいい」以外にない。



花―句まじり詩集
三井 葉子
深夜叢書社

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