長嶋南子「ホームドラマ」(「現代詩手帖」2010年07月号)
女のことば、男のことば--という区別はあるのか、ないのか。私はときどき(ときどき、ですから、ね)差別主義者になる。そして、女のことばは、ある。そう思い込む。たとえば、長嶋南子「ホームドラマ」。
病んだり死んだりしてドラマは進むので
夫には死んでもらった 次は子ども
ムスコの閉じこもっている部屋の前に
唐揚げにネコイラズをまぶして置いておく
夜中 ドアから手がのびてムスコは唐揚げを食べる
とうとうやってしまった
ずっとムスコを殺したかった
こういうことばは男には書けない。あ、正確には、私には書けない。そういうとき、私は単純に、これは女のことばだ、と思う。そう思うことで、安心(?)する。
他人、他者--そういう外部の「肉体」に対する向き合い方が、どうも男と女は根本的に違う。どんなに勉強(?)したって、男には絶対にもちえない「肉体」感覚がある。女の「肉体感覚」--というと、まあ、これは変ないい方で、より正確に言うと、男の私にはたどりつけない「肉体感覚」というものが、ある人たちの書くもの、つくるもののなかにある。そして、その「ある人」が女であるとき、私はそれを「女の肉体感覚」というのだけれど……。(差別主義者--という批判があるとこわいので、私は、こんなふうにせっせと弁明しながら書くのだが……。)
私にとって「他者」(他者の肉体)というのは、あくまで「外部」である。(この、「外部」については、きのうの日記の浦歌無子の作品について触れたときに書いた。)そして、それは「接点」はあるかもしれないが、接続はしていない。切断している。
人間の肉体というのは不思議で、自分の肉体でなくても、たとえば路傍で腹をかかえてうずくまり、うなっている人を見れば、あ、この人は腹が痛いのだとわかる。他人の肉体と自分の肉体をつなぐ、なんらかのものがある。何かが他人の肉体と私の肉体をつないでいる。そのために、私たちは、自分の痛みではないものを、わかる。わかるけれども、そしてときにはわかるをとおりこして「実感」にもなることがあるが、実感しても、次の瞬間にはその「実感」を忘れて、救急車を呼んだりする。実際に、倒れてうなっている人は、痛みのせいで救急車を呼ぶことはできないが、他人である私は、それができる。つまり、完全に他者とは切断しているから、そういうことができるのだ。
男の感覚は、そこから先へは進まない。(私の場合は、進まない。)ところが、女は、違う。
腹痛の例をそのまま拡大できればいいのだけれど、それではうまく語れない。つづかない。私のことばは動いていかない。--要するに、破綻する。うまくうそが言えない、ということかもしれない。
だから、突然、ここで長嶋のことばに戻る。
長嶋のことばを読むと、どうも、他人を、具体的には、この詩には夫とムスコが出てくるが、そのふたりは、長嶋とは「切断」していない、と感じてしまうのである。長嶋と夫、ムスコが「切断」しているというのは科学的事実(?)であり、切断しているからこそ、夫が死んでも長嶋は生きている。ムスコを殺しても長嶋は死なずに生きている--ということなのだが。
あ、それでは、何かが違うなあ。
夫が死に、ムスコを殺しても、長嶋の肉体にはなんの変化もない。それは、長嶋の肉体と夫の肉体、ムスコの肉体が「切断」されているからではなく、逆に、しっかりと接続しているからである。夫が死んでも、ムスコを殺しても、長嶋の肉体に変化がないのではなく、逆なのだ。長嶋の肉体と夫、ムスコはしっかりと「接続」している。「接続」しているから、夫が死んでも、ムスコを殺しても、長嶋の「肉体」のなかでは夫は死なない、ムスコは死なない。だから、何度でも長嶋は夫を死なせることができるし、ムスコを殺すことができる。長嶋が死なないかぎり、夫は死ねない。ムスコは死ねない。--そういう「肉体感覚」が、そのまま、長嶋のことばになっている。
長嶋にとって、夫の死、ムスコ殺しは、「精神的な世界」のできごとであって、「肉体的な世界」のできごとではない。肉体はいつでも夫とムスコの「いのち」を長嶋の「もの」として肉体のなかにもっている。しっかりと、それはつながっている。
うんだのはまちがいです
うまれたのはまちがいです
まちがってうまれました
まちがってうんでしまいました
まちがわずにうまれたひとはいません
「まちがう」--それが「つながり」である。「正しい」ではなく、「まちがう」ことが「接続」のすべてなのである。長嶋の肉体と夫の肉体、そしてムスコの肉体は「接続・連続」していない。これは科学的に「正しい」。でも、それを長嶋は「接続・連続」していると間違えている。
間違えることが「接続」のすべてである--というのは、先に書いた路傍の腹痛の人間の例にもどると説明できるかもしれない。
私たちは、路傍にうずくまり、呻いているひとを、「腹痛だ」と「間違える」。間違えた結果、おおあわてで救急車を呼んだりする。ほんとうは痛くないかもしれない。芝居だったかもしれないし、腹痛ではなく、脳の障害だったかもしれない。「正解」はあとになってみないとわからない。「正解」がわからないままの、強引な想像、自分勝手な想像(腹が痛いと感じるのは、私の勝手な想像である)は、「まちがい」である。そして、この「まちがい」(勝手な思い込み)が人と人の、離れて存在する肉体を強く結びつけてしまう。
でも、その「まちがい」は結果的に路傍に倒れているひとを助けることになるから「まちがい」ではなく、「正しい」ことなのでは?
あ、そうなんだねえ。そこが問題なんだねえ。
「まちがい」なのに「正しい」。そういうことが、世の中には無数にある。「正しい」方がまちがっていて、「まちがっている」方が正しい--そういう結果になることが、無数にある。「まちがい」と「正しい」は、どこかでとても強い力でねじれながら「接続・連続」している。
その、「接続・連続」の仕方--そこに、私は「女」を見てしまう。
男には、こういう「まちがい」と「正しい」を「接続・連続」させる「肉体」がない。「肉体」がないから、私は、まあ、しちめんどうくさいことばを長々と書き、少しはそれに近づけたかなあ(近づきたいなあ)と思うのだ。
女は、「まちがい」であっても、それを自分の「肉体」で「つないで」しまえば、それは「正しい」になることを知っている。世の中で何がいちばん「正しい」か。生きていることである。生きているものがいちばん正しい。自分の肉体が生きているかぎり、ひとが「まちがっている」と言おうが、あるいは自分で「まちがっている」と感じようが関係ない。それは「正しい」なのである。
いのちを受け入れ、いのちを産んで、どうなるかわからないけれどともかく「つないで」しまう。それが女だからである。生きて、「つないだ」ものが「正しい」のだ。それだけが絶対に「まちがっていない」ことなのだ。
主婦はなにごとがあっても子はうみます
ご飯をつくります
まちがってうまれてしまったのに
大きな顔をしています
主婦は大きな顔になるのです
小さい顔のひとはまちがえても主婦にはなれません
「まちがい」が「つながる」。そして「正しい」に「なる」ように、女は女に「なる」。ボーボワールが書き漏らした「女になる」がここにある。「哲学」(思想)という「うそ」にはならなずに、「肉体」に踏みとどまることで、けっして「まちがえない」に「なる」力がここにある。
きのう子どもを食べているゴヤの絵を見ました
きのう天丼を食べました
カロリーが高いのでめったに食べません
どんぶりのなかにムスコがのっています
母親に食べられるのは
たったひとつできる親孝行だといっています
そして、ムスコを殺す、食べる、というのは、母親がムスコにできる唯一の「孝行」ということに「なる」。ムスコを自分の「肉体」にしてしまう。「まちがい」を自分の「肉体」のなかにあるものにしてしまう。長嶋の「肉体」のなかにあるもの--それだけが、あらゆる「まちがい」を「つなぎ」、「正しい」を瞬間的にあらわすのだ。
こういう女の哲学(女のことば)は、すごいと思う。
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書きそびれたが(途中で、きのう書いた浦歌無子を引き合いに出しながら、浦について書きそびれたが)、女は「外部」を自分の「肉体」にする。あるいは自分を「外部」にしてしまう。そして、その往復を「自然」にやってしまう人間のことなのかもしれない、とも思った。