詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

早矢仕典子「黒い絵画」

2010-07-10 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
早矢仕典子「黒い絵画」(「no-no-me」11、2010年07月15日発行)

 ひとはなぜ書くか。ことばを動かすか。書けないからである。自分が感じていること、見たこと、聞いたことが書けない。いままで知っていることばでは書けない。だから、それを何とか別のことばでいいから、書きたい。そう思うのだ。どう書いていいかわからない。ことばがどう動いていくのか、わからない。だから、書くのだ。
 早矢仕典子「黒い絵画」を読みながら、そう思った。

ひとの詩を読みながら うとうと していると
誰やらの眠りの中 からずるずると持ち帰ってしまったこの
みょうな だれやらの桃 じゃない 腿の付け根 の方から
かぶりついていた という食感! 女だったか 男だったか
プラド美術館では ゴヤのための薄暗い部屋で ゼウスの父
サトゥルヌスがわが子の 頭から かぶりついていたけれど
ちょうどそのようなサイズ の脚 だったような

 「みょうな」「食感」。詩を読みながら、「読後感」ではなく、「食感」。頭のなかではなく、感情のなかではなく、「肉体」のなかに残る感じ。口や、舌や、喉や、胃にのこる「みょうな」(妙なではない、妙という漢字で整理できない)何か。
 「桃」と書いて、すぐに「腿」と訂正したい何か。
 この、書きながら、書いても書いても、訂正(言い直し)をしないではいられない感じ--それを早矢仕は「みょう」と言っているのと思うのだが、それを何とかことばにしたい。いま書いたことばを訂正しながら、--言い換えると、否定しながら、ことばを探している。
 このリズムは、途中にふいに挟まれる1字空き、たとえば「だれやらの桃 じゃない 腿の付け根 の方から」の1字空きのリズムのなかに、きちんと書き留められている。ことばではなく、「1字空き」という、その空白として。
 書けない何か--「流通言語」(いまあることば)では空白でしかない何か、それにつまずきながら、それを跳び越えながら、早矢仕はことばを探すのだ。書きたいこと--というよりは、ことばを探す。書きたいことははっきりしている。けれど、それを書くことばがない。だから、それは、ことばを探す旅である。
 ことばを探す旅は何もことばのなかだけを旅するわけではない。「絵画」のなかも旅する。そのとき、絵画を見る「目」は目を逸脱していく。「目」でありながら、口になり、舌になり、喉になり、胃になる。そして、いくつもの「肉体」をくぐりぬけて、ことばになる。あ、いつでも、ことばは、「肉体」をくぐりぬけながら動いているのだと、早矢仕のことばを読むとわかる。
 早矢仕のことばが「肉体」であるから、そこで出合うのは、他人のことばであると同時に「肉体」でもある。

う となり もうこれ以上は という満腹感まで
持ち帰ってしまった ところが 脚をもがれたからだの方
でも それはなかろう こんな中途半端はやめてくれ と
あちら側からうったえてくる もっと ほら食べておくれ
そうはいわれても もうあの食感は二度とごめんだ 一度
目が覚めてしまった以上 戻りたくもない ゴヤの満腹
ゴヤの嘔吐 いやわたしだって もうごめんだ

 ここで早矢仕のことばを動かしいるのは「中途半端」という感覚である。それは「わたし」にあると同時に、「他者」にもある。「みょうな」は「中途半端」でもある。どこにも落ち着きようがない。「いま」を否定して、どこかへ行きたいが、その「どこか」がどこかはっきりわからない。ただ「いま」が嫌なことだけははっきりしている。「いま」ではない「どこか」。「ここ」ではない「いつか」。何か、「時間」とか「場所」とかの基準も入り乱れて、ただ、「いま」「ここ」を否定しなければ落ち着かない感じ--それが「満腹」、満腹すぎての「嘔吐」と重なって、つまり「肉体」の奥から突き上げてくる衝動となって、早矢仕を突き動かす。

それはなかろう 最後まで食べておくれ食べつくしておくれ
こちらもじつは わたしの姿をしたゴヤなのだった

 「最後まで」--あ、「最後まで」が「中途半端」を超えたところだね。でも、そんなことは、ことばにはできない。ことばはいつだって、「いま」を否定するだけなのだ。それしかできない。そして、そのできないことを、できないと知りながらやろうとするのが、たぶん「文学」なのだ。
 そして、そういうことをやっていると、「みょうな」ことが起きる。

こちらもじつは わたしの姿をしたゴヤなのだった

 「わたし」が「他者」になってしまう。「わたし」が「わたし」を超越してしまう。ことばは、結局、そういうところへ行く。「わたし」ではなくなってしまう。そうなることでしか、ことばは終われない。もちろん、そうやって「わたし」が「ゴヤ」になってしまったところで、今度は、その「ゴヤ」が「わたし」なのだから、また、ことばは動き回るしかない。終わることはできない。「終わり」は幻である。
 それはつまり、果てしない「循環」である。くりかえしである。
 そうであっても、やはり、動くしかないのである。最後まで、引用しておこう。

それはなかろう 最後まで食べておくれ食べつくしておくれ
こちらもじつは わたしの姿をしたゴヤなのだった 聴覚の
ない老いぼれたわたしは思い出そうとする いったい だれ
の どんな詩を喰らってこんなめにあっているのか その詩
こそがきっと 本物のゴヤなのだ ゴヤの満腹 ゴヤの嘔吐
最後まで食べておくれとうったえている 片方の脚以外無残
に食べ残された だれかの 眠りの中の
くろい絵


詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂

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