詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(10)

2010-07-20 10:03:36 | 志賀直哉

「馬と木賊」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「馬と木賊」は、かなりかわった文章である。「「馬」といふ活動写真は面白かつた。」とはじまるが、「馬」がどういう映画なのか、よくわからない。
 映画は、

 母馬(おやうま)が売られた仔馬を気狂ひのやうになつて、嘶(いなな)きながら探し廻はる場面を見、

 という2段落目(2行目)の途中までに書かれた、それだけである。志賀がこの文書をを書いた当時は評判になった映画で、なんの説明もいらないということかもしれないが、誰が出たとも、どんなストーリーとも書いていない。志賀が書いている部分がクライマックスなのか、ほんのエピソードなのかもわからない。
 文章は、このあと、

私は昔、赤城(あかぎ)の山の上で、はぐれた馬の親子が互に呼び合つてゐるのを見た時の事を憶ひ出した。

 とつづいて行く。
 そして映画ではなく、志賀の実際に見た馬の描写がつづく。はぐれた馬の親子がやっと互いを見つけ出したときの喜びの様子、それが一転して何もなかったかのように草を食べはじめたときの様子を書いている。
 それから突然、能「木賊刈(とくさかり)」で、人さらいに連れて行かれた子どもと老翁が再会し、喜ぶ場面を見たときの感想を書いている。
 老翁の喜びの動きを見て、

馬の親が出会つた喜びに暫く跳(と)んでゐたのよく似てゐた。
 私が「木賊刈(とくさかり)」を見たのは今から凡そ二十年前(まへ)、馬のそれを見たのは二十七年前(まへ)、そして最近活動写真の「馬」を見て、前の舊い二つを憶ひ出した。

 と終わる。
 
 映画の感想は?

 まったくのしり切れとんぼというか、映画などどうでもいいような感じの文章なのだが、不思議に、その映画を見てみたい気持ちになる。
 なぜなんだろう。
 志賀直哉は、「馬」という映画を見て、あたかもはぐれた馬の親子がやっと再会したかのような、そして生き別れになっていた子どもと老人が再会したかのような感覚になったのだ。
 その感情が、そこにあふれているからだ。「映画」の説明ではなく、映画にふれたときの志賀の感情が、そのまま、ルール違反(?)のように、直接、そこにあふれているからだ。みたこともない形であふれているからだ。
 「馬」をとおして、赤城山で見た馬の親子に再会し、能「木賊刈」に再会した。そのとき、志賀は馬の親子のように飛び跳ねていた、老翁のように体が動いていた、ということだろう。志賀は、そのとき赤城山の馬になり、能のなかの老翁になっているのだ。
 --もちろん、こころのなかでのことだが。

 文章の途中、

老翁の感情がその儘に映つて来た。

 という表現がある。この「映る」。これが、この短い文章のハイライトであると思う。
 「映る」というのはふつう「反映」のことだが、「はえる・かがやく」というような意味もある。志賀は、老翁の感情が、老翁の動作のなかから、まるで「いのち」のように輝きだしてきて、それが直接、志賀をとらえた、という意味でつかっていると思う。
 赤城山で馬の親子を見たときも、きっとその感情が馬の動きのなかから光となってあふれだし、志賀がそれにとらえられたというのだろう。
 ある感情が、その感情の主体(馬、老翁)を突き破って、ひかりとなって輝き、あふれだす。それが「映る」。そして、それを見るとき、その「いのち」が志賀直哉に「移ってくる」。
 「映る」から「移る」へ。それは「感染する」(うつる)ということかもしれない。
 そして「移る」「感染する」というのは、ある存在と存在、ほんとうは離れているのに、それが接触するということでもあるのだが、そのときの「離れている距離」というのは、その瞬間消えてしまう。
 志賀は、能を見たのが何年前か、赤城山で馬を見たのが何年前か、わざわざ書いている。それは、そこに書いてある「時間--時の距離」が、映画をみたその一瞬、消えてしまったということだ。
 感動というのは距離をなくし(消して)、「いま」「ここ」にあるものとして「共振」することなのだと思う。
 志賀直哉は、この「共振」を剥き出しの形で、ぐい、と押し出してくる。



志賀直哉全集 (第3巻)
志賀 直哉
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荒木元「空の傾斜 2」、北川朱実「中空の地図」

2010-07-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木元「空の傾斜 2」、北川朱実「中空の地図」(「この場所 ici 」3、2010年06月30日発行)

 詩を読んでいて、その全体が気に入るというのではなく、ある部分がとても好きになるということがある。
 どこが好きで、どこが嫌いか--そういう詩を読むと、自分自身がリトマス紙かなにかで分類されているような気持ちにもなる。いったい私は何か好きなのだろう。そこから少しだけ考えてみるときがある。

 荒木元「空の傾斜 2」の途中。

水たまりはしだいに空を押しひろげ
暗さを増していった

 この2行はとても好きだ。繰り返し繰り返し読みたい気持ちになる。実際、何度も読んでしまう。雨が降って、そしてまだ降っていて、水たまりはしだいに大きくなる。それを水たまりが大きくなるといわずに「空を押し広げる」。そして、「暗さを増して」いく。それは「水たまり」の「暗さ」なのだろうけれど、とても深い。「水たまり」と「空」の間にある「空間」の深さに匹敵するような深さである。
 たぶん、「水たまりがしだいに空を押しひろげ」たときに、そこに意識していなかった空間ができるのだ。そして、そのなかにある「暗さ」が「水たまり」に映り、「暗さを増して」いく。「暗さ」は、「水」そのものの「暗さ」ではなく、「水」が映す「暗さ」。そして、その「暗さ」は単に水に映る、水を深くするというだけではなく、何か「水」をあふれて、空と水のあいだにある「空間」そのものをもかえていくように思えてくる。
 そこでは、水に何かが映る、そして水がかわるということだけではなく、その映し出された何かを見ることによって、その姿を映しだしたもの--それ自体が変わっていくようでもある。
 このイメージは、次のように広がっていく。

駅前広場の一本の木
見あげる空の深さの分だけ
その根方で
からだはふかく沈みつづける

 水を中心にして「深さ」が天と地の両方に、拮抗するように領域をひろげる。「見あげる空の深さ」とは「空の高さ」のことだが、水にとっては、それは「底」へ展開する運動なので、「深さ」になる。そして、「深さ」はのぼるではなく、「沈む」。視線は、空を見上げ、のぼるが、他方からだはその反動で「沈む」。
 この運動は、矛盾するふたつの方向が同時に存在することによって、はじめて成立する。どちらか一方では、おもしろくない。つまり、不思議がない。考えを刺激しない。あたらしい次のことばの運動を誘わない。矛盾だけが、あたらしい運動を誘うのだ。
 だが、その運動がもう一度言いなおされて、次のようになるとき、私はちょっとがっかりする。

雨は
吸い上げたいのちと ひとつづきの静けさで
葉をうちつける

 何がいけないのだろう。何が邪魔してしまうのだろう。
 矛盾を「ひとつづきの静けさ」ととらえなおすのは、とても美しい。そうか、矛盾とは「ひとつづき」であることによって「矛盾」に「なる」のだ、と感心する。気がつかなかった。「ひとつづき」。とてもいいことばだ。いつか、矛盾を説明するときに借用しようと思う。
 感心しながらも、私がつまずくのは、たぶん「いのち」ということばのせいだ。
 「暗さ」「深さ」をつなぐのが「いのち」か。うーん。私は、既成概念にとらわれているのだと反省しながら書くのだが、「いのち」なら「明るさ」「高さ」の方がぴんと来る。「暗さ」「深さ」を「いのち」というのなら、もう少し、その部分を「押しひろげ」てみせてほしい、ことばで読ませてほしい、と感じ、その瞬間に、じれったいような、変な気持ちになる。
 ことばの運動の先を追いつづけるよりも、なぜか、「水たまりはしだいに空を押しひろげ/暗さを増していった」という2行を繰り返し読んでいたい気持ちになる。



 北川朱実「中空の地図」は書き出しにひかれた。

よく見えるから
こんなにも見晴らしがいいから
もう誰ともすれ違うことはないと思ったのに

夜明けに
知らない手が
知らない窓をあけるのを見た

一日が
地上三十メートルから始まるこの部屋は
遠い どんな場所とつながっているのか

 荒木が「ひとつづき」と呼んだものを、北川は「つながる」という動詞で書いている。
地上三十メートルから始まるこの部屋は
遠い どんな場所と「ひとつづき」なのか

 そう書き換えてみるとき、荒木と北川が急接近する。
 そして、その違いも見えてくる。
 北川は「つながる」(つながり)を考えるとき、そこに「ひと」(他者)を差し挟む。「いのち」ではなく、「他者」という具体的な存在を差し挟む。その「他者」は「知らない」ということを出発点としている。「知らない」、つまり接点がない--「ひとつづき」ではない、だから、それを「つなぐ」のである。「つない」で、「つながる」に「なる」のである。
 引用しなかったが、荒木が「葉」(これは引用部に登場する)や「浜辺」「雲」「鳥」というものが「いのち」と「ひとつづき」である。それは「他者」ではなく「自然」というものかもしれない。
 けれど北川の「つながる」は何よりも「人間」なのだ。詩の後半には「友人」が登場する。北川は、その友人に地図を書いている。

日暮れて
帰り道を聞かれて
川を書き 橋を書いたけれど

書くはしから
インクが滲んでいく

水を吸い上げて
紙も
木へ変える途中なのだろう

 あら。
 ふいに、荒木と同じ「木」がでてきて「水」がでてきた。
 この最後に、私は不満(?)をもっているのだが、まあ、それは今回は書かない。
 北川を弁護(?)して言えば、「他人」と向き合うことで、北川自身が「知らないひと」になり、そのとき見えてくるものは「他人」そのものではなく、「他人」と「わたし」をつなぐ、それこそ「いのち」なのだろう。そして、それを書こうとして、「木」にたどりついたのだろう。
 そして。
 その「木」に関して言えば、(これは蛇足なのだろうけれど)、やりは荒木と北川では違う。荒木の場合はあくまで「自然」でしかないが、北川は「木」を「紙」との「つながり」でとらえ直している。人間が手を加え、「木」を「紙」にする。その「紙」が「木」にかえる。それは「人工」と対比しての「自然」である。
 北川のことばにはいつでも「人間」の生き方がひそんでいる。

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