詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本しのぶ「ハジマリハジマリ」ほか

2010-07-30 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山本しのぶ「ハジマリハジマリ」ほか(「組子」18、2010年05月20日発行)

 山本しのぶ「ハジマリハジマリ」は、ことばがゆっくり動く。ゆっくりなのだけれど、着実に進んで行く。「いま」がだんだん「いま」でなくなる。「ここ」がだんだん「ここ」でなくなる。けれど、ゆっくりなので、その「いま」ではなくなった時間、「ここ」ではなくなった「場」が、「いま」「ここ」であってもかまわない、という気になる。

アラームが鳴って
一日の始まりを告げる
年が明けると
新芽と同じく
昼間の時間が伸びてくるから
カーテン越しの朝の予感も早まった

 「昼間の時間が伸びてくるから」がとても奇妙だ。ふつう、昼間の時間が伸びたと感じるのは、夕方。なかなか日が落ちないので「日が伸びたねえ」という。朝が早くあけるのは、「夜が短くなったねえ」と言う。
 でも、たしかに1日は24時間で、昼の時間が伸びるというのは夕方の方向(?)にだけ伸びるのではなく、夜明けの方向にも伸びていることになるから、「朝が早くなる」というのは正しいいい方になる。
 でもね。
 一瞬、あ、と思うでしょ。その「あ」の瞬間、「いま」が「いま」でなくなる。「いま」というのは、つまり、「流通言語」でとらえたときの、「流通意識」の「いま」なんだけれど、それが、山本のことばによって、一瞬、ずれる。そして、それは一瞬であって、「あ、そうか、そういうことなのか」と
納得して「いま」にもどってくる。「そういういい方があってもいいか」と思えてくる。
 そんなふうに思わせることばの動きがおもしろい。
 「新芽と同じく」という「比喩」が、とってもおかしい。読んだ瞬間にはおかしさがわからないが、1連とおして読み終わったとき、この比喩、おもしろい、絶妙と思ってしまう。
 ついでに、昼間の時間が伸びて、それで朝が早まるなら、新芽が伸びたらどうなる? などと、ついつい想像する。「朝が早まる」かわりに、新芽では何が起きる? 根っこが伸びる。昼が伸びの方向とは逆方向にも時間が伸びる(早まるように侵入してくる?)なら、目が伸びる方向とは逆方向にも伸びるものがあるはず。それは、根っこ。
 それは、見えない。
 昼の時間が、逆方向に伸びてきているのも、わたしたちは、ふつうは気がつかない。そういう「見えないもの」がどこかにあって、その「見えないもの」にわたしたちは動かされている。(支えられている。)
 ほら、そう思うと「ここ」が「ここ」ではないような気がしてくるでしょ? 何か見えないものがわたしたちを支えている。でも、それって、よくわからないから、「ここ」は「ここ」さ、とうそぶいている。「ここ」が「ここ」でなくたって、別にかまわないさ、と思い込んでいる。
 なぜだろう。

わたしには
朝がふたつある
母親の顔の朝と
恋人の顔の朝
迎える場所はそれぞれ違っていても
わたし自身は変わらない
もう一人クローンがいればいいと願った事もあったけれど
本物をどっちに奥かで悩むかも知れないので
やっぱり必要ない

 「わたし自身はかわらない」。なるほど。わたしたちは、「わたし自身」という「いま」とか「ここ」とは違う「基準」というか、よりどころを持っている。
 「いま」とか「ここ」というのはみんなで「共有」するもの。みんなで(大勢)で共有するから、そこにはときどき、新芽が伸びるときのように昼間の時間が伸びて朝が早くなる、というようなちょっと違うんだけれど、そういういい方もできるというような、奇妙な「遊びの場」(遊びの時間)、余裕(?)のようなものがしのびこんできて、まあ、それが「世界」の潤滑油のようでもなるんだろうなあ。
 そして、そういうものに出合ったときも、うろたえたりせずに「わたし自身」というものへ帰っていく。「わたし自身」は「変わらない」。昼間がのびて朝に侵入してきても、朝起きるという「わたし自身」は変わらない。「朝が早くなった」ということは「わたし自身」になじみのある世界である。「わたし自身」が変わらなければ、「世界」だって変わりようがないのである。
 これは「開き直り」のようなものであるけれど、山本自身で、昼間が伸びるから朝が早まると言っておいて、「わたし自身」が変わらないから「世界」は変わらない、なんていう主張はいいかげん過ぎない?
 論理的(?)に押し進めれば、ことばはそう動いていくのだけれど、そんなことは知ったことではない。人間というのはだいたい、いいかげん、というか、矛盾したものなのだ。
 「ふたつの朝」「母親の顔と恋人の顔」。「ひとつ」でありながら「ふたつ」という矛盾はありきたり。そういうものなんだから、昼が伸びて朝が早くなるとしても、「わたし自身」は「わたし自身」。
 そんなふうに思うこと自体、ほんとうはそれまでの「わたし自身」とは違っているのだけれど、それも、まあ、どうでもいいのだ。
 そんなことをくっきりと区別すると、めんどうくさい。「ことばで書いたことを正確に守るわたし」と「ことばの運動など気にしないでいきているわたし」というふうに、「わたし」を「ふたり」にしてもいいかもしれないけれど、そのとき、やはり「本物をどっちに置くか」で悩むことになる。だから、区別しない。時と場合に応じて、いったりきたりする。
 いいなあ、この開き直り。強さ。

朝のそれぞれで
アラームは鳴り響く
いつだって本物(おそらく)のわたしを悪い夢から目覚めさせ
フルカラーの現実に引き戻してくれる
そうだよ
愛おしいものたちは
夢の外にいるのだから
数回目のアラームを止めたら
えいやっ
わたしにスイッチを入れる

 「夢」とはことばの運動かなあ……と書きはじめると、面倒になるから、この詩については、ここまで。「えいやっ」と切断。「わたし自身」というような面倒なものではなく「わたし」にもどる山本にあわせて、わたしも「本物」(たぶん)のいいかげんな人間にもどり、詩なんて、どこがおもしろいなんて書いたってしようがない。読んで笑っておしまいなんだから、あとは勝手に考えてね。

 「靴磨き」という詩も、「複数のわたし」と「わたし」のことを書いている。

今ここにある靴たちが
本来のわかしの心の形なのかもしれない
ああだけど
そんなことに囚われるのはよそう
リボンのついた心で
誰かに会いたいときもある
爪先がじんじん痛くなるほどの
ヒールで追いかけたいときだって
これからだってきっとある

 「今ここ」は「今ここ」にすぎない。そして、「これから」も、いつでも「今ここ」になるのだ。「わたし自身」が「わたし自身」である以上に、「今ここ」は「今ここ」なのだ。いつでも、どこでも「今・ここ・わたし自身」。「わたし自身」がいるところが「今・ここ」なのだ。

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