詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(12)

2010-07-26 12:53:41 | 志賀直哉

「蝕まれた友情」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「一」の部分に、友人が海でおぼれかける場面がある。なんとか泳ぎきり、浜へたどりつく。

 青い顔をして、君は砂の上に水を吐いた。その水に油が浮いてゐた。その昼、佐久間の家(うち)で天ぷらを食つた、その油だ。

 思わずうなってしまった。うまい、というと「小説の神様」だからあたりまえなのかもしれないが、うまい。ほんとうにうまい。リズムが正確である。意識、思考のリズムが、これ以上ないくらいに正確である。

 その水に油が浮いてゐた。

 これは読んだ瞬間、なんのことかわからない。おぼれかけた人間が、丘にあがって水を吐く。海で飲んだ水を吐く。それまでは、わかる。でも、油? なぜ? 海に油が浮いていた? そういう汚い海で泳いでいた? いや、違う。
 何?
 これは、水を吐いている友人を見ていた志賀直哉自身の疑問かもしれない。驚きかもしれない。
 その驚きを解明するようにして、「過去」が思い出される。昼食に天ぷらを食べた。その天ぷらの油が、まじっているのだ。
この、水を吐くという「ありふれた事実」。それに油が浮いているという不思議な現象。それを見る驚き。それから、理由がわかる。納得する。その意識のリズムが、ほんとうにリアルである。
 たとえば、これを、

君は水を吐いた。昼、佐久間の家で天ぷらを食べたので、その天ぷらの油が消化されないまま、吐いた水に浮いていた。

 という具合に、途中に「理由」を挿入してしまうと、意識の流れとは違ったものになる。ある事実を説明するのに、「理由」を途中に挿入すると、そこに起きていることのスピードがにぶる。事実を見て、人間の意識は動くのだが、その動きが、実際に動いたままの動きとは違ってきてしまう。
 意味としては同じことを書いているのに、まったく違ったものになってしまう。

 ことばが伝えるのは「意味」だけではない。いや、「意味」などどうでもいいのだ。重要なのは、ことばの運動(動き)が、意識の動きとどれだけ合致しているかということなのだ。意識の動きのスピードをそのまま再現した文章が、ひとをひきつけるのだ、と思う。


小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)
有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤
講談社

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中田敬二『島影』

2010-07-26 00:00:00 | 詩集
中田敬二『島影』(思潮社、2010年05月20日発行)

 中田敬二『島影』はウェブに書かれた詩である(と、帯に書いてある)。私は眼を悪くしてから、あまりウェブを巡り歩かないので、こうして本になったのを読む。
 「片言(かたこと)集」は4行ずつの集まりである。タイトルは特になく、代わりに番号がある。一日に何篇かずつ書いているのだろう。似たようなリズムのことばがつづく。「ヤだなア」という詩が3篇ある。

327

クニって ヤだなア
大地を切り裂き
旗を立て
戦車をならべ

328

詩人って ヤだなア
そのブルーな好色
そのリエゾンな陶酔
そのモダンな孤高

329

テレビも ヤだなア
たらふく食って 飲んで
でかいかおしてる
おれ おれ おれ

 簡単にことばにしすぎている感じがする。ことばがつまずかない。唯一「リエゾンな陶酔」ということばに、ちょっとこころが動いたが、その瞬間、あ、こんな部分にこころが動くなんて、「ヤだなア」と思ってしまった。
 文学文学している。
 そのまわりのことばが、「流通言語」でありすぎるので、ふいにあらわれた「リエゾンな陶酔」という異質なことばの結びつきに反応してしまう私がいやになってしまう。
 そして、思った。
 中田のこの「片言集」は一種のリトマス紙である。ときどき「文学文学」したことばがでてきて、どっちが好き?と読者に迫ってくるのである。

338

胡蝶ランのつぼみが倒れ
おれの脚が血を噴いた
羽化する寸前
きりきりと傷口が痛んだ

 「胡蝶ラン」から「蝶」が「羽化」していく。そのイメージが「肉体」(脚、傷)と重なる。これも「文学文学」しているねえ。

340

時空は一体なのだから
時間は空間なのだから
空間さえあればいい
時間に追いこされて

 これは「哲学哲学」している。これに反応してはだめなんだろうなあ。これは罠の一種なんだろうなあ、と思う。
 では、罠ではないことばはどこにあるか。
 「テングザル と 空」。そこにとてもおもしろいことばがある。

おお
かゆいそら

 という2行のあと、「かゆい」の文字が、体をひっかいたように「か」「ゆ」「い」とばらばらになって、また寄り集まっている。ここではその文字の配列を再現できないので、ぜひ、詩集で読んで(見て?)ほしい。
 「かゆい」がかゆがりながら、遊んでいる。かゆい、が、ゆかい、になる。
 そして「かゆいだいち」ということばにつながっていく。
 ここにあるのは、「意味」ではない。「遊び」である。そして、その遊びが「文学文学」したものを一気に吹き飛ばす。
 こういう詩がもっとあればなあ、と思う。そうすると、とても楽しいのに。




島影
中田 敬二
思潮社

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