「蝕まれた友情」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)
「一」の部分に、友人が海でおぼれかける場面がある。なんとか泳ぎきり、浜へたどりつく。
青い顔をして、君は砂の上に水を吐いた。その水に油が浮いてゐた。その昼、佐久間の家(うち)で天ぷらを食つた、その油だ。
思わずうなってしまった。うまい、というと「小説の神様」だからあたりまえなのかもしれないが、うまい。ほんとうにうまい。リズムが正確である。意識、思考のリズムが、これ以上ないくらいに正確である。
その水に油が浮いてゐた。
これは読んだ瞬間、なんのことかわからない。おぼれかけた人間が、丘にあがって水を吐く。海で飲んだ水を吐く。それまでは、わかる。でも、油? なぜ? 海に油が浮いていた? そういう汚い海で泳いでいた? いや、違う。
何?
これは、水を吐いている友人を見ていた志賀直哉自身の疑問かもしれない。驚きかもしれない。
その驚きを解明するようにして、「過去」が思い出される。昼食に天ぷらを食べた。その天ぷらの油が、まじっているのだ。
この、水を吐くという「ありふれた事実」。それに油が浮いているという不思議な現象。それを見る驚き。それから、理由がわかる。納得する。その意識のリズムが、ほんとうにリアルである。
たとえば、これを、
君は水を吐いた。昼、佐久間の家で天ぷらを食べたので、その天ぷらの油が消化されないまま、吐いた水に浮いていた。
という具合に、途中に「理由」を挿入してしまうと、意識の流れとは違ったものになる。ある事実を説明するのに、「理由」を途中に挿入すると、そこに起きていることのスピードがにぶる。事実を見て、人間の意識は動くのだが、その動きが、実際に動いたままの動きとは違ってきてしまう。
意味としては同じことを書いているのに、まったく違ったものになってしまう。
ことばが伝えるのは「意味」だけではない。いや、「意味」などどうでもいいのだ。重要なのは、ことばの運動(動き)が、意識の動きとどれだけ合致しているかということなのだ。意識の動きのスピードをそのまま再現した文章が、ひとをひきつけるのだ、と思う。
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