詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(132 )

2010-07-09 12:28:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 きょうも「番外篇」。八木幹夫「西脇順三郎の風土」を読んだ。「幻影」27(2010年05月31日発行)
 『旅人かへらず』の詩に登場する「風土」について書いている。「六五」の

よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 この「さがみ川」は「相模川」であり、八木は土地鑑がある。それで、西脇のことばを現実の風景と結びつけ、そのときに感じる「違和感」を手がかりに西脇のことばを考えている。
 きのう読んだ澤のことばに比べると、私は、八木のような読み方が好きだ。八木は八木で「正解」を追い求めているのかもしれないけれど、西脇が具体的にどの風景を描いているかということよりも、西脇のことばに触れて感じたことを書いている。
 たとえば、

 西脇さんは目にした現実を画家の目でデフォルメし、ことばで対象を無時間の世界に置き換えてしまう。

 という具合である。八木は西脇を「画家」の目をもった詩人ととらえている。ただし、その「画家」は、八木の目とは違った世界をとらえる。そのことを楽しんでいる。

詩人の意識の底には常に絵画的記憶が眠っている。
 詩に表現された現実は、写真や映像とは異なる。(略)詩のことばは固定的な現実的像を限定しない。読者の中で勝手に映像化されたり、ある種の情感に変化したり、五感とは異なった像を脳のどこかに自由に結ぶのだ。

 澤と八木の違いは、「読者」の「勝手」、「自由」をどれだけ認めるかという部分にあると思う。澤は読者の「勝手」「自由」を排除して、西脇のことばの「正解」を探しつづけている。八木は、「勝手」「自由」があってもいいじゃないか、という。それは、八木が、八木自身の「勝手」「自由」で、西脇のことばを読み、いろいろ思っているということだ。
 こういう読み方が私は好きだ。
 理由は簡単。
 あれ、八木さん、そうなの? と、気楽に言えるからである。私は「相模川」の風景を見たことがないので、八木よりももっと勝手に、もっと自由に西脇のことばを読んでいる。私は、風景を気にしていない。

 で、思うのだけれど。

 西脇って、ほんとうに絵画的? 私は西脇のことばから「絵画」を感じることは少ない。風景が思い浮かばない、というのではないけれど、もっと違うものを感じる。
 たとえば、『第三の神話』の部分、

ペルシャ人のような帽子をかぶつて
黒いタビラコのような鬚をはやした
男がこの庭を造つたのだゴトン
紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする。

 この部分にふれて、八木は、

 「男がこの庭を造つたのだゴトン」というところで思わず私は可笑しくて吹き出してしまった。

 と書いている。吹き出してしまったが、やがて、「ゴトン」がシシオドシの音だとわかり、ことばが京都の詩仙堂の庭に収斂していく、一枚の「絵」になるのを、「目にした現実を画家の目でデフォルメし、ことばで対象を無時間の世界に置き換えてしまう。」というような感想を書く。 
 うーん。
 なんだか、かっこよすぎて、「可笑しくて吹き出してしまった。」というところからずいぶん遠くまできてしまったなあ。もっと、おかしいまま、笑ってよ、笑ったら違ったものがあふれてこない? 私は、そう思ってしまう。
 私は、実は、「男がこの庭を造つたのだゴトン」では笑わない。読んだ瞬間「ゴトン」はなんのことかわからないが、おかしくはなかった。同時に、「ゴトン」がとても重要だと、瞬間的に感じた。瞬間的に重要だと感じたから、笑えなかった。なぜ、重要だと感じたのか。とても単純である。「ゴトン」がないと、その行のリズムがあわない。「音」が足りない。
 前の2行の、特に「タビラコ」というわけのわからないもの(その前に「ペルシャ」があるので、なんだか外国の何か、もしかすると人?と思ってしまいそうな何か)、つまり、「絵」として浮かんでこない(絵画的ではない)ことばとつりあわない。
 音のバランスがとれない。
 「男が庭を造つたのだ」だけでは、その1行は「意味」が「絵」になりすぎて、前の行とつりあわない。
 そのアンバランスを「ゴトン」という音が重しのようにととのえる。「タビラコ」と「ゴドン」というふたつの、わけのわからない音が2行にわたった存在することで、音のバランスをとっている。
 そのことを私は瞬間的に感じた。
 絵画ではなく、何かほかのものが、西脇のことばを動かしている。
 それを私は「音楽」というのだけれど。

 それは、たとえば、次のような部分の感想を読んだときにも感じる。うーん。八木さん、そう感じるの? 私はまったく違うふうに感じるのだけど、とついつい、いいたくなる。

 三
  自然の世の淋しき
  睡眠の淋しき

 第一行目の詩句はまず常識の範囲で受け止めることができる。しかし「睡眠の淋しき」とはどういうことなのか。「ねむりの淋しき」と大和ことばでも可能なところを敢えて「睡眠(すいみん)」と漢語を持ち込んでくる点が新しい。さらに作品(二)の「人の世の淋しき」と作品(三)の「自然の世の淋しき」とは照応関係にもなっている。「人の世」と「自然の世」が等価であると言いつつ、いきなり「睡眠」が淋しいという発想には可笑しさと哀しさがつきまとう。

 私は、ここには「さ行」の音の響きあいがある、しか感じない。「し」ぜん。「す」いみん。「さ」び「し」き。そしてそれは、作品(二)の「うす明りのつく」のう「す」あかりとも呼応する。
 「意味」とは違うもの、「絵」とは違うものが西脇のことばを動かしていると私は感じてしまうのだ。
 それは、(四)かたい庭、(五)やぶがらしという一行ずつの詩においてもそうである。「かたい庭」を八木は枯山水の石庭と読んでいて、私は、思わず、あっ、と声を上げてしまったけれど(私は何も生えていない、土がかたくなった庭を思ったのだ)--それはそれとしておいて……。ここでも私は、「か」たいにわ、やぶ「が」らし、という音の呼応があるとしか感じないのだ。八木は枯山水の「枯淡」とヤブガラシの生命力の対比を読みとっているけれど、私は、「かたいにわ」「やぶがらし」とつづけて読むとき、とても気持ちよい音があるとだけ感じて、それがうれしい。
 あの有名な、「天気」でも同じ。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日。

 くつがえ「さ」れたほう「せ」きのようなあ「さ」/なんぴとかとぐちにて「さ」「さ」やく/「そ」れはかみの「せ」いたんのひ。--読んでいて、とても気持ちがいい。「さ行」はちょっと複雑で、ほんとうは「さ行」と「し行」にわけなければいけていのかもしれないけれど、この詩では、ちゃんと「し」が避けられて「さ行」だけが響きあっている。「ささ」やく、から「そ」れは、への音の移行が、私は特に、あ、いいなあ、と感じる。

よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 これも「沿ふ」「背負ふ」「憶ふ」という音のなかにある「お・う」のくりかえしがリズミカルでいいなあ、と感じる。そして、その音の美しさに聞きほれてしまうので「道をきいた昔の土を憶ふ」という行の変(?)な感じを、まあ、いいか、と思ってしまう。「道をきいた/昔の土を憶ふ」と切れるの? 「童子に道をきいた」でひとつながり? 昔の土って、その道は昔は土だったけれど、いまは舗装されている、ということ?
 わかんないけれど、まあ、いいか……。



 ついでに。
 八木のいっている「画家の目」という感じは、澤のことばで言いなおせば「イメージ」ということになるのだと思う。
 その澤が、「雨」という作品について書いていた。

南風が柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした。
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 この詩から、澤は「ダエナ」をひっぱりだし、ギリシャ神話をだし、エロチシズムを説明している。それは「正解」としかいいようのない注釈(解釈)なのだと思うけれど、こういう解説を読みながらも、私は、やはり「音楽」を感じる。
 「絵」を持ち込んで説明されているにもかかわらず、私が感じるのは「絵」ではなく、「音楽」である。
 「絵」というのは、私の感覚では「空間」である。「雨」では、視線が青銅、噴水、ツバメ、潮(海?)、砂、魚、寺院、風呂場、劇場とぬらしていく。それは「空間」のなかに、配置しなおすことができる。
 でも、「ダエナ」は? 雨が青銅から劇場までぬらしていくのが「いま」という時間だとすれば、「ダエナ」は? それは私には「いま」に属しているとは感じられない。「空間」が破られて、「空間」ではないものがあらわれている。
 それは、八木のことばを借りていえば「時間」かもしれない。八木は「無時間」ということばをつかっているが、「無時間」とは、「いま」を逸脱している、超越しているということだと思う。
 そういう「時間」のなかに「音楽」がある。「音楽」は「絵画」とは違って「空間」がけではなく「時間」がないと成り立たない。



野菜畑のソクラテス―八木幹夫詩集
八木 幹夫
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財部鳥子「由布島の道行き」、稲葉真弓「夜の鳥図譜」

2010-07-09 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「由布島の道行き」、稲葉真弓「夜の鳥図譜」(「鶺鴒通信」θ春号、2010年04月03日発行)

 財部鳥子「由布島の道行き」は「島だより」という小詩集(?)の1篇。

花を付けた水牛の車に乗って引き潮の浅瀬を渡る
 というはかりごとに乗って
まゆちゃんよ 走れ と三線を弾く牛飼いは
緩やかな島うたを唄う 揺られながら私たちも唄う
 というはかりごとに乗って
可憐な水牛と記念写真を撮ろう
 というはかりごとに乗って
私たちはカメラの前でポーズしている
涎の長い水牛の「まゆ」という名札に涙をこぼす

 旅をする。そのとき、私たちは新しい何かと出合う。それは風景であったり、習慣であったり、食べ物だったり、ことばだったりする。そして、その「出合い」はある程度予測できるというか、予定して出発するものである。ところが、思いもかけないものに出合うことがある。
 財部は、水牛の引く車に乗るということまでは考えていた。その車のなかで案内人が島歌を歌い、それにあわせて財部も唄う--ということもある程度夢見ていたかもしれない。けれど、その水牛に名前がついている、というとは考えなかっただろうと思う。
 そういう考えもしなかったことに出合ったときの、不思議、それがとても自然に書かれている。「名札に涙をこぼす」というのは、なんといえばいいのだろう、涙をこぼしたいという「欲望」のようなものを誘う。
 何にでも名前はある。車を引く水牛にだって、その水牛といっしょに暮らしているひとは「名前」をつける。「ちゃん」をつけて呼んだりもする。その、人間の、あまりにも自然な姿--自然過ぎて見えなかったものが、ふいに「名札」の向こうからあらわれてくる。
 そのとき、涙は--涙は、きっと「郷愁」のようなものだ。なつかしい何かに触れるのだ。見知らぬ土地、見知らぬ旅で、自分が知っているもの、知りすぎているもの、知りすぎているために忘れてしまっているもの(忘れていても、肉体が覚えていて、無意識にやりすごしてしまうもの)が、ふいに、こころの底からわきあがってくる。
 このよろこび。
 それは、涙を流すしかない。泣きたい。ただ、泣きたい。

 詩は、1行あきをはさんで、ふいに、別の世界へゆく。

私たちの茶色のイノセントに涙がこぼれる
思い出せば母の忌日だ
母の前世は「まゆ」だったと思うほど
私たちはやさしくなった

 財部の母は「まゆ」という名前だったかもしれない。違うかもしれない。どっちでもいい。どっちにしろ、母には名前があった。水牛に「名前」があるように、母には名前があった。名前を思い出すということは、母をより、具体的に、しっかりと思い出すことである。そのときの、より具体的に、しっかり--ということが、「暮らし」の、「肉体」の、「いのち」のやさしさだ。
 財部は、いま、それを、強い形で取り戻し、復元している。



 稲葉真弓「夜の鳥図譜」、探しているものが見つからない--という詩である。

まだ 会えない鳥を探しに行く
机に広げた鳥図譜の
どこかに きっと 私の卵はあるのだ

 「私の卵」ということばに、とても驚かされた。鳥図譜(図鑑のこと?)に私を探す--私はもしかするとツグミだったかもしれない、オオルリだったかもしれない、と思うのは、ありうることだと思う。
 でも、卵?
 その卵は、どっちだろう。稲葉が産んだ卵か、それとも稲葉が生まれてくる卵か。それはきっと真剣に考えはじめると、わからなくなる。たぶん、両方なのだ。稲葉が産み、そして稲葉が生まれてくる「卵」。
 ひとはだれでも、そういう「暮らし」をしている。「肉体」をかかえている。
 何かをすることは、その何かすることで、新しい「私」になることだ。何かをしはじめることは、何かを産むこと、そして何かをしつづけることは、何かになること。それは切り離せない。
 そういう切り離せないものを、稲葉は「卵」というひとことでつかみとっている。
 これは、(こういうことを書くといろんな批判が飛んできそうだけれど)、「産む性」としての女性だからこそ、つかみとれる実感なのだと思う。 

 この実感に、財部の作品について触れたとき書いた「郷愁」が、からんでくる--というのが、実は稲葉の作品である。多々し、私はその「郷愁」は「意味」としてはとてもよくわかったが、「意味」がわかるだけに「実感」がわからなかった。
 「卵」は、私は「産む性」ではないので「実感」がわからないはずなのに--なぜか、どきりとするくらい「肉体」に響いてくるのを感じた。
 「肉体」というのは、奥のところでは、男も女もかわらず、ただ、「いのち」である、ということかもしれない。
 そして「肉体」が「いのち」であるというのは。

 ちょっと、強引かなあ。

 「肉体」が「いのち」であるというのは、「人間」も「水牛」もかわらない。(もちろん、「鳥」もかわらない。)「いのち」には、みんな、名前があって、それが「いのち」を結びつけるのだ。きっと。

 だからね。というもの、またまた跳びすぎる飛躍なのではあるけれど。
 だからね、稲葉の詩の後半も「フルートの/漏れては消えていった音階」というような抽象的なことばではなく、「出せなかったミの音」とか何か、「卵」のように、具体的な「名前」であれば、きっと「郷愁」が「抽象」ではなく、「具体的」なのもになり、「実感」としてあらわれてくるのだと思うのだが……。



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