詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(133 )

2010-07-11 15:20:41 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇順三郎のことばに対するまじめな研究論文を読んだ後につづけて書くのは、なんだか窮屈な感じがするが、まあ、書きつづけてみる。書きはじめれば、きっと気分も変わるだろう。(「日記」なので、私は気楽である。)
 『失われた時』(1960年)。その「Ⅰ」。

夏の路は終つた

 私はこの書き出しが好きだ。何が書いてあるか、はっきりとはわからない。有無をいわせず「終つた」と断定してしまう意志(?)の強さにぐいと引きこまれる。強いリズムに引きこまれる。

 「夏の路は終つた」。これはしかし、なんだろう。
 「夏の路は終つた」というが、現実にはそういうことはありえない。「夏」は終わるだろうが、「路」が終わるということはない。正確にいうなら、路を歩く夏は終わった--ということになるだろう。けれど、西脇はそういう「学校教科書」文法とは違ったことばをつかう。
 「夏の路は終つた」--この行で、他の読者はどんなイメージを思い浮かべるのだろうか。たとえば夏の野。丘のようになっている。路がのぼっていって、空中で途絶えている。あるいは、遠い遠い野。路は遠近法の焦点のように消えている。
 書きながら、あ、私は無理をしてイメージをつくり出しているなあ、と思ってしまう。私は、不思議なことにイメージを思い浮かべない。「路」がぜんぜん思い浮かばない。
 西脇が絵画的(イメージ)詩人であると聞くとき、私が落ち着かなくなるのは、こういう体験があるからかもしれない。
 私は「路」をイメージとして思い浮かべることができない。あえていうなら、私は突然、「イメージ」の欠落に落ち込む。「路」が見えないまま、その見えないものが何かあるとという短いことば、その短さの中にあるリズムの強さが、2行目へ一気に引きこむ。

あの暗い岩と黒苺の間を
ただひとり歩くことも終つた

 あ、「路」というのは、どこか山の中だね。それは「路」ではなく「径」という字でもあてるべきものかもしれないし、もしかすると「けもの道」ですらないかもしれない。だれも歩いていない。ただ西脇だけがぶらぶらと歩いているだけである。
 「路」なんて、ない。
 2行目にきて、あ、「路」なんてないじゃないか、ということに気がつく。そしてそのとき、「黒い岩」と「黒苺」は、見えるのである。「路」を消して、リアルに浮かび上がってくるのである。
 このイメージ(?)の、まったく見えなかったり、突然くっきりみえたりする「差」が楽しい。
 正確に表現することはできないが、西脇のことばは「イメージ」を残さない。次々に消してしまう。「絵画」というのは、イメージを平面に定着させたものである。けれど、西脇はイメージを定着させていない。むしろ、次々に消している。それは「絵画」ではない。(あえていえば、映画がイメージをつぎつぎに消しながら突き進むけれど……。いうならば、それは「映画的」であるかもしれないけれど、絵画的ではない--私にとっては。)

魚の腹は光つている
現実の眼の世界へ再び
楡の実の方へ歩き出す

 もう、ここには「路」は完全に消えている。そして黒い岩も黒苺も。
 「現実の眼」ということばを正直に信じれば、西脇にとって「夏の路」は「現実の眼」が見たものではなかったことになる。「魚の腹は光つている」からが「現実の眼」で見るものになる。
 「失われた時」はプルーストを思い起こささせる。「楡」はトーマス・マンを思い起こさせる。そうすると、「現実の眼」というのは必ずしも「現実」ではないかもしれない。「文学」というか、「芸術」をくぐりぬけてきた眼ということになるかもしれない。
 そのことから逆に、「夏の眼」を想像してみるなら、それは「文学(芸術)」を離れた眼になるかもしれない。なまの肉体の眼。いや、自然の眼。加工されていない眼。文学から遠く離れて、休んでいる眼。そういうことになるかもしれない。

 西脇は「眼」の経験を書こうとしている。けれど、それは私たちがふつうにいう「眼」ではない。「文学の眼」と「自然の眼」の違いを体験する眼である。
 私たちの意識は(当然目も、つまり視神経も)、私たちがなれ親しんできた「生活」に影響されている。知らず知らずに「文学的」に世界を見てしまう。それを「夏」に体験した「自然の眼」に、あたらしく体験させてみる--そのときの、内的変化(精神・意識の動き)を西脇は書こうとしている。
 私は、そう感じられる。
 「眼」が体験するものだから、それは一義的には眼にみえるイメージ(絵画)に似ているかもしれないけれど、それは絵画として定着させようとすると破綻してしまう--私は、そう感じてしまう。
 絵画とは別のものが西脇の「芯」に存在する--と私はいつも感じてしまう。




西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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トッド・フィリップス監督「ハングオーバー」(★★★★★)

2010-07-11 12:00:00 | 映画

監督 トッド・フィリップス 出演 ブラッドリー・クーパー、エド・ヘルムズ、ザック・ガリフィアナキス、ヘザー・グラハム

 とてもよくできた脚本である。(脚本家、だれ?)特に新しい何かが描かれるわけではないが、リズムがよくて、細部がとてもていねいである。ドタバタなのに。こういう映画は、私は2回見るというとはないのだが、今回は、昨年秋にニューヨークへ行ったときに見たのが忘れられずに、また見てしまった。
 いちばん好きなのは虎のシーンだなあ。私はもともと虎が大好きで、虎が出てくればそれだけで50点プラスしたいくらいなのだが……。(「地獄の黙示録」も虎のシーンがあるから+αの評価だけれど。)まあ、その虎は置いておいて。
 と書きながら、ふと。
 酔っぱらいって、英語でも虎? ふいに気になってしまった。
 ということは、またまた、おいておいて。
 というふうに、この映画も、適当にストーリーが進んで行く。
 で。
 もし、虎よりも好きなシーンがあるとすれば。スタンガンのシーンかなあ。主人公の3人が釈放してもらう代償に刑務所ツアー(警察ツアー?)の子供たちのスタンガンの標的になる。
 警官「誰か、撃ってみたい人?」
 子供「はーい、はーい、はーい」
 このシーンの、わきの方、スタンガンショーを提案した警官2人とは別に、ツアーの案内役らしい警官がいて、その警官も子供と一緒になって、
 「はーい」
 と真っ先に手を挙げる。
 いいなあ、これ。
 無責任で。
 これに先立って、逮捕された3人を携帯電話のカメラでふとった少年が撮影するシーンがある。それに怒った3人のうちのひとり(彼もまたふとっちょである)が、電話をけりとばす。少年は「何するんだ、いつか復讐してやる」と、声には出さないがにらみ返す。その少年も「はーい」と手をあげ、ちゃんと復讐する。
 ね、ちゃんと伏線が生きているでしょ? しかも、無理がないでしょ?
 この映画、きっと、ラスベガスで聞きかじったあれやこれやのデタラメを全部盛り込んでいるのだと思うけれど、その盛り込み方に無理がない。
 そして、容赦がない。何といっても、酔っぱらっていて何も覚えていない。それが設定だから、何が起きてもぜんぜんおかしくない。
 問題はリズムだけ。
 滞ってはだめ。ただひたすら駆け抜ける。
 設定が、行方不明になった「花婿」を結婚式までに見つけ出すという「時間制限」があるから、まあ、駆け抜けないことにはしようがないのだけれど、ほんとうにスピーディー。伏線はきちんとしているけれど、逆戻りをしない。状況説明(?)にまだるっこしさがない。
 で、このまだるっこしさがないことのいちばんの理由は。
 それは、3人の「記憶」を映像で再現しないこと。何をしたかを映像でたどらないこと。映画は映像を見せるものという観点からすると、これはそれを逆手にとっている。一部、マイク・タイソンの豪邸から虎を盗むシーンは、監視カメラがとらえていた映像として再現されるが、映画そのものとして再現されることはない。欠落している「記憶」は最後まで欠落している。
 欠落しているから、軽いのだ。スピードがあるのだ。明るいのだ。
 そして欠落しているから、彼らが何をしたかもよくわかる。もし、彼らが実際にしたはちゃめちゃが映像化されたら、単なるドタバタで10分で飽きるだろう。他人のドタバタなんて一回笑ってしまえば、もうおかしくはない。
 これまた逆説っぽいいい方になるが、おかしくないことだけが、おかしい。まじめだけが、おかしい。真剣だけがおかしい。
 3人の男は「花婿」を探している。真剣である。だから、おかしいことがおきる。真剣なときは、何かを我慢しないといけなかったりする。そして、それはとんでもないことだだったりする。
 あ、だんだん、まじめな感想になってしまいそう。
 やめよう。
 最後の結婚式の歌手の歌も変だし、その歌手もへたくそなところも楽しい。(タイソンの歌も上手とは言えない。)そういうどうでもいいところが、とてもリアルなのもいいなあ。
 おまけもいいなあ。
 主人公たちのはちゃめちゃは「映画」にはならないが、デジタルカメラの写真には残っている。それが最後にぱっぱっぱっぱっぱっと映し出される。「ニューシネマ・パラダイス」のキスシーンのように。それが、実に充実している。「欠落」が一気にそこに噴出してくるんだからね、充実するしかないのだけれど。
 「一回、みんなで見るだけ。後は削除」
 あ、そんな気持ちでこそ、この映画は見るべきだね。
 私は2回見てしまったけれど、1回かぎりとこころに決めて見ると、もっと楽しいかもしれない。映画を見る前に、そういうことを考えたりはしないけれど、これから見るひとは「1回かぎり」とこころに決めて、それから見てください。
 とても楽しい。
 楽しすぎて、もう一回見たくなっても、私は責任を持ちません。ほら、書いてあるでしょ? この映画は一回かぎり、絶対に、一回かぎりだよ。
 念押しです。

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八木幹夫「目覚め」

2010-07-11 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「目覚め」(「no-no-me」11、2010年07月15日発行)

 「わたし」とはだれなのか。八木幹夫「目覚め」は次のようにはじまる。


めざめて
わたしがわたしであることの
ふしぎ

めざめて
どうして
わたしはあなたではなかったか

めざめて
どうしてわたしは空とぶ鳥ではなかったか

めざめて
どうして
わたしは川原の石ではなかったか

 ここまでは、この疑問までは、八木は「ふしぎ」と書いているが、私には「ふしぎ」には感じられなかった。むしろ、こういうことを思うのは、ごく自然なことのように思える。「わたし」が「わたし」ではない、という夢は、「こども」ならだれでも夢見る。あこがれる。というか、ここに書かれていることは、まるで「こども」じゃないか。「あなた」は、まあ、「おとな」の感覚かもしれないけれど、鳥とか石なんて、「こども」の世界だ。不思議なのは、そういう「こども」っぽいリズムをそのまま書いていることである。正確ではないが、八木の年齢をおぼろげながら知っている。だから、よけい不思議に感じる。
 ところが、次から、突然、世界が変わってしまう。


めざめて
わたしは
あなたと
鳥と
石に
あやまった

めざめて
ずっと野山で
遊んでいたかった
あなたや
鳥や
石のように

めざめて
わたしにもどるまえの
はるかな時間が
なつかしい

 「あなた」という「だれか」や「鳥」「石」は、「わたしにもどるまえの」「わたし」なのである。「他者」ではない。「だれか」になりたいのではないのだ。「こども」はだれでも、自分の両親は別にいる。私は両親の子供ではないと夢見る。それが子供にとっての「わたしではないわたし」になる最初の体験だが、その子供の夢の鏡の裏のように、八木の書いている「わたし」は「だれか」にあこがれているのではない。
 ここに書かれているのは「こども」の夢ではない。

 「わたしにもどるまえ」の「わたし」。それは、この詩では「あなた」「鳥」「石」と書かれているが、それは便宜上三つにわけて書かれているだけで、三つではない。ひとつなのだ。「わたしにもどるまえ」の「わたし」は「あなた」であり「鳥」であり「石」である。それは、なにかでしっかり結びつけられている。
 その「なにか」を、八木は「はるかな時間」と書いている。
 「わたしにもどるまえ」の「わたし」は「はるかな時間」に住んでいる。それは、「はるか遠くにある時間」、遠い遠い過去ではない。「はるかな」は「いま」を起点として「はるか」はいう「距離」(隔たり)を指して言っているのではない。直線で結ばれる「いま-過去」の、その「-」を「はるか」と言っているのではない。
 その「はるか」には「距離」がない。「いま」がそのまま拡大していって、無限になる。「無限のいま」が「はるか」なのだ。
 だから「なつかしい」は「過去」、遠いところが「なつかしい」のではなく、「いま」「ここ」の、あえていえば、凝縮した一点、「いま」の「中心」が「なつかしい」のだ。その「中心」は「中心」であるから「一点」なのだが、「中心」であることによって「無限」なのだ。
 そこからどこへ行くか--その方向が「無限」という意味である。
 「いのち」は、そういう「無限のいま」のなかにある。

 私は、いま、オリヴェイラ監督の「コロンブス 永遠の海」という映画を思い出している。その映画に描かれている「永遠」、あるいは「郷愁」は八木の「無限のいま」、それを「なつかしい」と感じる気持ちに似ている。
 それは、「わたし」から遠いどこかにあるのではなく、「わたし」の、「わたし以前」としか言えない「中心」にあるのだ。
 八木は、それを放心してみている。放心のなかに、八木は、めざめる。それは、あたらしく生まれなおすということでもある。
 「なつかしい」といった瞬間、八木は「無限のいま」の「中心」へ吸い込まれていっている。吸い込まれていきながら、その吸い込まれていくことを自覚し、そこから帰るようにして「ことば」を動かしている。その、矛盾した往復運動、往復運動の矛盾のなかに、「いのち」というものがある。

八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社

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